友々素敵

人はなぜ生きるのか。それは生きているから。生きていることは素敵なことなのです。

最後の者が最初に、最初の者が最後になる

2014年04月09日 20時45分54秒 | Weblog

 「新約聖書」で最初に読んだのは「マタイによる福音書」だった。その冒頭は「アブラハムの子、ダビデの子、イエス・キリストについての歴史」で、アブラハムから続く長い系譜である。なぜこんなことが書かれているのか、中学生の私は理解できなかった。豊臣秀吉が、あるいは徳川家康が、自分は由緒ある家柄の血を引く者だと系図を作らせたのと同じで、そんなことはどうでもいいのにと思っていた。大人になって、旧約聖書を少しかじって、血がつながっていることを強調することの意味が理解できた。

 人間は権威に弱い。小保方晴子さんが記者会見して、「注意が足りなくて、勉強不足で、未熟者で、皆さんにご迷惑をおかけした」と謝罪した上で、あくまでも「STAP細胞」は存在すると強調し、もし実験の場を提供してくれるなら「お見せすることができる」と言っていた。「STAP細胞」を作り出せるなら、たとえ勉強不足で未熟者であっても、肝心なところは証明できるはずだ。理化学研究所をクビになっても、どこかの大学なり研究機関で拾って欲しいという彼女の懇願のように見えた。

 イエス・キリストはいつも世間とは違う発想で人々に話した。「『目には目、歯には歯』と言われたのをあなた方は聞きました。しかし私はあなた方に言いますが、邪悪な者に手向かってはなりません。誰でもあなたの右の頬を平手打ちする者には他の頬をも向けなさい」。「『隣人を愛し、敵を憎まなければならない』と言われたのをあなた方は聞きました。しかし私はあなた方に言いますが、あなた方の敵を愛し続け、あなた方を迫害している者たちのために祈り続けなさい」。

 また、イエスの“ブドウ園の働き手へ払う賃金の話”も考えさせられた。たった1時間しか働かなかった者も長く働いた者も同じ賃金だったので長く働いた者が不満を言う。すると雇い主は「あなたとは約束した賃金をはらった。あなたに何も不当なことはしていない。私は1時間しか働かなかった者にもあなたと同じように与えたかった。私が自分のもので自分の望むように行なってもよいではないか」と言う。そしてイエスは「このように最後の者が最初に、最初の者が最後になるでしょう」と結んでいる。凄い発想だと私は感心し共感した。

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政治家の最低条件は

2014年04月08日 18時25分56秒 | Weblog

 「みんなの党」の渡辺喜美さんが代表を辞任した。当然の結果だと思う。渡辺さんは化粧品会社の会長から8億円借りた。「借りる方も借りる方だけど、貸す人もいるのね」とカミさんは驚いていた。彼女は貸した会長の化粧品を使っているから、会長の会社を支えたひとりになっていることにビックリしたのかも知れない。それにしても、金はあるところにはあるものだと感心する。

 渡辺さんは借りた金について、「選挙資金でも、政治資金でもない。あくまでも私の個人的な借金だから、法的には何も問題ない」と強調していた。この説明を聞いた人はすぐに東京都前知事の猪瀬さんを思い出しただろう。猪瀬さんは5千万円だったが、それでもよく貸してくれたものだと思った。渡辺さんは合計で8億円になるという。個人の借金といくら言われても、個人が8億円をどうやって使うのか、想像できない。

 記者から質問されると、「お金は利息をつけて返済した」「お金は一時的に妻の口座に振り込んだ」などと説明し、ますます猪瀬さんと似てきた。要するに政治家として立ち直ることが出来ない致命的な結論にならないように逃げているだけだ。事実をうやむやに終らせることは出来ても、政治家としての品格は地に落ちた。自民党は「みんなの党」や「日本維新の会」の協力を期待していたけれど、これでますます公明党へ擦り寄っていかなくてはならないだろう。

 選挙には金がかかるからと、政党交付金制度を設けて、国民の税金を注ぎ込んだ。共産党は受け取っていないから別だが、他の政党はいわば監視相手から金をもらっているようなものだ。選挙はなぜ金がかかるのだろう。全く金をかけず選挙をすることは出来なくても、無茶に金が要るのは不正な選挙活動を行なっているからだろう。議員になれば普通の人よりも収入はある。当然次の選挙の蓄えは出来るはずだ。

 政治家になって金を増やそうなどという人を当選させてはいけない。政治家の最低条件は清廉潔白な人であるべきだ。政策や思想・信念はその上での選択肢だ。私の街では来週の日曜日が告示だが、もう既に政党は街宣車で候補者名を繰り返している。政策や信念は二の次で、とにかく名前を覚えさせようとしているのだ。候補者の中に清廉潔白な人はいるのだろうか。

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若者たちの未来

2014年04月07日 18時40分44秒 | Weblog

 テレビニュースで、若い女性が東京に集中していると報じていた。私たちの時代も東京は憧れの街で、「東京へはもう何度も行きましたね。君の住む花の都」といった歌が流行ったりした。中学の同年でも何人かが東京の大学へ進学した。田舎の普通の中学校だから、当時は高校へ進んでも大学まで進んだ者は1クラスで10人に満たなかったと思う。そして東京の大学へ進学しても、東京に留まった者は不思議と少なかった。

 大学時代に東京かその周辺に実家のある恋人ができて、東京で就職した人もいたが、中には恋人を連れて故郷で就職した人もいて、多くの人が生まれ育った愛知県に戻ってきた。テレビニュースでは故郷では就職先がないけれど、東京では住居と働く先まで斡旋してくれるという。しかし、正規労働でないために働けなくなって、挙句の果てにキャバクラ嬢になっている女性たちがいた。

 1960年代は好景気で、労働が生産に追いつかず、各地から若者が「金の卵」ともてはやされて工場労働者として送り込まれた。工場が終ると夜間高校へ通い、定時制大学や通信制大学を卒業する勉強熱心な者もいた。企業の中で出世し、土地を買い家を建てる者もいた。東京だけでなく、名古屋や大阪、広島、福岡、札幌などの大都市圏が形成され、その近郊に住宅街が造られていった。力量のある者はさらに上を目指すことができた。私の住むマンションの友人・知人は県外の人が多く、この地を最終の住処としている。

 今、中国は好景気で、農村から都会へ働きに出る若者がこれを支えている。『ワイルド・スワン』にも出てきていたが、中国では今も、農民は都市に戸籍を移せないようだ。クビになっても農村で生きていけるというためなのか、都市戸籍の者とは福祉や医療など多くの面で差別があるという。改革開放政策が実施されたのは1980年以降で、ほとんどが高等教育や職業訓練を受けることなく現場に送られた。そのため定着率は低く、3年以内に居住地を変更して職を転々とする者が87%になるという。

 最近の中国ではウツ病となる若者も多いそうだ。目まぐるしい社会の変化についていけず、引きこもりになってしまうのだろう。日本の若者が将来に期待を持たないように、中国の若者も過渡期に立ちつつあるようだ。人間はどこにいても、同じようなことを繰り返している。

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春の日の ファミリー・ランチ

2014年04月06日 17時38分52秒 | Weblog

 娘たちが今日、私たち夫婦の『古稀』を祝ってファミリー・ランチを計画してくれた。どこで食事をするのかと期待してでかけた。「ノリタケの森」のレストランだった。ここは名古屋駅にも近く、最近の女子会の人気の店だと言う。「ノリタケ」は日本の洋食器のトップメーカーで、結婚などの祝いに贈られることがおおい。私の教え子も何人かがここに就職している。確か、明治時代にヨーロッパ製の磁器を見た森村さんという人が、白色硬質磁器を作ろうと会社を興したのが始まりだったと思う。

 企業の衛生陶器部門が独立して東洋陶器(現在のTOTO)に、碍子部門が独立して日本碍子(現在の日本ガイシ)になったから、この名古屋地方が生み出した優良企業である。「ノリタケの森」がいつ出来たのか覚えていないけれど、工場は美しい芝の庭園を囲んで、レストランやギャラリーやショップが並び、家族連れや恋人たちで賑わっていた。庭園はシダレザクラガ美しく、プロのカメラマンと思われる人たちがすらりとした素足の少女らをモデルに撮影していた。

 4歳の孫娘も少女らに負けないくらい可愛っ子ぶって、ポーズをとって見せてくれた。レストランは賑わっていたから、こんな日はきっと誰か知り合いに出会うだろうと思ったら、やはり長年の友だちがいた。彼女は昨日、犬山祭りに行き、今日は東京や大阪から犬山へ来た友人らに名古屋を案内して、ここで食事を取る予定だと言う。先日、次女のダンナの両親を迎えて、「めーぐる」バスで名古屋城と徳川園に出かけたコースだ。もっとも、このコースは彼女の勧めでもあったから、県外の人には受けがよいのだと思う。

 再び我が家に集まってもらい、会食することになった。4歳の孫娘は相変わらずで、すぐに書棚から『モダン・アートの哲学』を引っ張り出すと、「むかし、むかし、あるところに‥」とぎっしり詰まった活字を開きながら読み出した。カミさんと娘たちは、長女のダンナがカミさんにプレゼントした“iPad”を使って、「キャーキャー」とオモチャのように遊びほうけている。指導はもっぱら長女のダンナと大学生の孫娘だ。「春の日に ファミリー・ランチ 過ぎてなお ディナーへとまで笑い続くなり」

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田中将大投手の活躍に期待

2014年04月05日 17時43分36秒 | Weblog

 アメリカ大リーグに移籍した田中将大投手が、カナダのトロントで行なわれたブルージェイズ戦に初登板して勝利投手になった。1回、先頭打者にいきなりホームランを打たれた時はどうなるのかと思った。2回までに3失点となり、やはりダメかと思った。徐々に緊張が取れてきたのか、3回以後は無失点で7回に降板したが、仲間の援護があって勝利投手になることが出来た。マー君ファンではなくても「よかったね」と思う。

 春の選抜高校野球大会は、地元の豊川高校チームの快進撃に沸いた。初出場にもかかわらず、準決勝まで勝ち進み、このまま決勝まで行けるかも知れないと思った。準決勝戦では先発の投手が素晴しい働きをして相手打線を抑えていた。選手たちも伸び伸びとプレーし、リードしていたから決勝戦まであと少しだった。5回が終って投手の交代が告げられた。前日まで凄い数の投球を行なってきたエースの登壇だった。

 その前の日の試合で、勝っていたチームがそれまで力投していた投手を降ろし、連投を続けて来たエースを登板させて、打ち込まれて負けたことが思い出された。いくら高校生でも連投の疲れはあるはずだ。交代させない方がよいのにと思ったけれど、結果はやはり打ち込まれ、試合で投げたこともない選手を次々と登板させたが、いずれもことごとく打たれて敗戦した。監督の采配ミスだと思うが、監督も選手たちも「5回で交代すると決めていた」と言う。

 野球を見ていると勝敗の原因はホンの少しのことだ。投球がわずか5センチか10センチ、右だったり左だったりあるいは上下だったりで、ヒットになるか凡フライになるか空振りとなる。また打球もわずかの差で捕えられたり、落球となったりする。競技スポーツはそんな運不運がつきまとう。だから運を呼ぶのも大選手の要素と言われるのだろう。先日も飲み会で、中日ファンと巨人ファンで言い争っていたけれど、好きなチームを肴にして、お酒が飲めるのはいいと思う。

 勝った時の笑顔が可愛いから、田中将大投手の活躍に期待したい。

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やることが裏目に

2014年04月04日 18時17分08秒 | Weblog

 午後から強い風が吹きまくり、せっかく植え直した椿がまた倒れてしまった。鉢植えではやはり限界なのだろうか。悔しいというより、なぜか絶望に近い気持ちがする。マンションの周りの桜も大きく揺らいでいるが、地上30メートルの我が家のルーフバルコニーとは風の強さが違うようだ。ここで樹木を育てることが間違っている。こんな無防備なところに置かれた椿が可哀相だ。

 なすがままにしておけばよいものを、ただ楽しむために、樹木にとってはとても辛い環境に移してしまう。風はますます強く吹いている。北側の部屋のエアコンが風を受けてコツコツと鳴る。風呂場の換気扇からも微かな音だが、何かが息をしているように聞こえる。ガラス窓の隙間を風が通り抜けようとしてピューと高い音を立てる。自然が怒っているようだ。自然を支配したかのように錯覚した人間を罰しているのだ。

 南側の桜はマンションに遮られ、それほどの風を受けていないが、それでも時々向きが変わるのか、桜吹雪が舞い上がる。桜はまだ花ビラを離さずに頑張っているけれど、来週の半ばには見納めになってしまうようだ。ルーフバルコニーのチューリップはかなり背が伸びてきた。花が咲いていたならこの風で倒れてしまっただろう。今はまだ、風に耐えている。今朝、居間から花たちを眺められるようにと配置換えをしたことが椿やツツジには仇になってしまった。

 このところどうもやることがちぐはぐだ。良かれと思ったことなのに逆の結果になっている。すると「こんなものさ、人生は」とさえ思えてくる。「裏目になるのは、日頃のお前の行いの結果だ」と神様が言っているのかも知れない。でも、妄想に陥ることはあっても不正を行なったことはないのにと思う。もうすぐ市議会議員の選挙が始まる。すでにたくさんの人がチラシを配っているし、街頭演説を行なっている。4年前とは大違いだ。情報がより多く提供されるのはよいが、根拠のない政策の羅列もある。民主主義がしっかり根を張るには時間がかかる。

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「ちょっとデートしない」

2014年04月03日 18時29分32秒 | Weblog

 「ちょっとデートしない」と次女が言う。4月はダンナの両親の誕生日なので、「この街のお菓子を送りたいから、そのついでにランチしよう」というわけである。女子大生になってしまった孫娘との定番のデート・コースに行くことにした。外食産業の店に私はひとりでは行くことが出来ないけれど、孫娘と一緒ならあの子が注文して私が払えばいい。お昼に孫娘とふたりの時は、私から孫娘を誘って出かけた。

 私はマックよりもモスの方が好きで、そのモスの斜め前に大型書店があったので、食事の後は書店に寄るのがお決まりのコースだった。しかし、今はその書店はない。随分人が多くいて、よく流行っていると思ったが、採算は合わなかったのかも知れない。モスも人気の店なので、正午に行けば込み合っているからと、12時半過ぎに出かけた。なのに、店の前には人が並んでいる。

 次女が先に降りて見に行った。「店の中は空いているから大丈夫よ」と言う。持ち帰りの人がたくさんいて列を成しているのだ。見ていると家族連れが多い。何人分かを買い求め、家でゆっくり食事をしようということだろう。私たちの席の隣りも若い家族連れで、3歳くらいの男の子とまだ歩き始めたばかりの女の子が一緒だった。オモチャの取り合いで泣くし、母親の膝の取り合いで泣くから、親は周りが気になるだろう。父親が途中で席を立って、「パパはこれからお仕事に行くね」と言っていた。

 春休み中だからどこへ行っても子どもが多い。子どもは事情が分からないから聞き分けがよいはずもない。そんなことを繰り返して家族になっていくのだ。次女も子どもが生まれたなら、大変な毎日になるだろう。それでもダンナの両親にバースディ・メッセージを添えてプレゼントを送る優しさが続く限り、子育てもダンナや周りとの付き合いもうまくやっていくだろう。両親のためにお菓子選びをしている次女を眺めてそう願った。

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『モダン・アートの哲学』と「STAP細胞」

2014年04月02日 17時55分12秒 | Weblog

 先日、4歳の孫娘が私の本棚からハーバート・リードの『モダン・アートの哲学』を取り出してきて、ペラペラとめくっている。「こちらの方がいいんじゃーない」と言って、絵本を何冊か見せた。チラッと絵本を見て、「それじゃーないの。こっちがいいの」と言う。私が合点のいかない顔をしていると、「絵しかないからダメ」と言い切る。『モダンアートの哲学』は、昭和30年にみすず書房から発行された活字本で、私が購入したのも昭和40年くらいの古いものだ。

 文字は小さく、行間は狭く、近頃の本と比べると文字がぎっしり詰まっている。4歳の子が読みたくなるような本では決してないのに、どうしてこの本が気に入ったのかと思って見ていた。孫娘は机に向かうと『モダン・アートの哲学』を開き、まるでそのように書いてあるのかと思うように、「お庭に出てはいけません。まだ、お部屋で遊ぶ時間ですよ」と、勝手に物語を話し出す。「ええ、いいわよ。おやつの時間にしましょう」。何のことなのかさっぱり分からないけれど、孫娘の中では辻褄の合った物語になっているのだろう。

 今朝の新聞もテレビニュースも、小保方晴子さんの「STAP細胞」論文について、理化学研究所の調査委員会の最終報告と小保方さんが強く反発していることを取り上げていた。ノーベル賞レベルの研究と言われて期待が膨らんでいたから、「改ざん」とか「捏造」と調査委員会から断定されると、小保方さんの可愛い笑顔を思い出してガッカリした人は多かったはずだ。「STAP細胞」そのものが存在しないのではないかとさえ思えてくる。

 小保方さんは私の4歳の孫娘のように、読めない文字がぎっしり詰まった本を読んだのだろうか。それでもいつか、彼女は普通の人々にも分かるように話してくれるだろうと希望を抱いてしまうから、私も相当な晴子ファンなのかも知れない。高校生の時、友だちの家でやはり3歳か4歳の子だったけれど、絵本をスラスラと読んでくれる子がいた。「文字が読めるの?」と家の人に聞くと、「覚えているだけよ」と教えてくれた。それでも、絵を見ればそこに書かれている言葉を覚えてしまうのは天才だと思った。

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調査捕鯨は誰のため

2014年04月01日 18時48分09秒 | Weblog

 穏やかな春の陽を受けて、桜はいっぱい花開いていた。桜の妖精のような女性が現れて手招きする。「私をお呼びですか?」。私は恐る恐るたずねた。「そうよ、お疲れのようですね。何か心配でも?」と言い、優しく少し笑った。色の白い女性で、頬の辺りがピンク色だった。私は何を言うべきか迷った。「いいわよ。私の胸におもどりなさい」。言い終らないうちに女性は近づいてきて、私を胸の中に抱き入れた。私はいつの間にか小さな赤ん坊になっていて、乳房の甘い匂いにうっとりとしていた。エープリル・フールの朝、まどろみのなかで夢をみた。

 大和塾の市民講座の講師をお願いするため、友だちと一緒に各務原市へ出かけた。川の堤防に植えられた桜並木が美しかった。車の中は暑いくらいで、もうすっかり春になった。街中に白色や黄色や赤色など、明るい色の花が溢れている。

 昨日、オランダのハーグにある国際司法裁判所で、南極海での日本の調査捕鯨は国際捕鯨取締条約に違反すると、判決が言い渡された。以前にも触れたけれど、日本はなぜ南極海で鯨を獲るのだろう。鯨を捕獲しているのは、日本の何という会社なのか、それとも国の機関なのだろうか。いつだったか覚えがないが、捕獲した鯨の肉が横流しされた事件があったけれど、鯨の肉はどんなルートで市場に出されるのだろう。調査だけなら、捕獲して肉にして売る必要はない気がする。世界が鯨を保護せよと言っているのに、なぜ日本は受け入れられないのだろう。

 鯨を食べるのは日本古来の食文化だと言う。確かに長崎や和歌山などでは鯨を捕えて食べてきたけれど、捕鯨船団を組んで南極海まで出かけるようになったのは戦後のことだろう。国際司法裁判所は日本沿岸での鯨漁までは言及していない。判決を受け入れて捕鯨を中止しても、そんなに影響は出ないだろう。もし国の機関が行なっているのなら、捕鯨船団に関係する人たちに他の機関に移ってもらえばいいし、民間会社なら生活保障もやむを得ないだろう。

 鯨の肉が小学校の給食に出た私たちの世代はちょっと寂しいけれど、日本人だけの地球でない以上、判決を受け入れるより他ないと思う。

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