「新約聖書」で最初に読んだのは「マタイによる福音書」だった。その冒頭は「アブラハムの子、ダビデの子、イエス・キリストについての歴史」で、アブラハムから続く長い系譜である。なぜこんなことが書かれているのか、中学生の私は理解できなかった。豊臣秀吉が、あるいは徳川家康が、自分は由緒ある家柄の血を引く者だと系図を作らせたのと同じで、そんなことはどうでもいいのにと思っていた。大人になって、旧約聖書を少しかじって、血がつながっていることを強調することの意味が理解できた。
人間は権威に弱い。小保方晴子さんが記者会見して、「注意が足りなくて、勉強不足で、未熟者で、皆さんにご迷惑をおかけした」と謝罪した上で、あくまでも「STAP細胞」は存在すると強調し、もし実験の場を提供してくれるなら「お見せすることができる」と言っていた。「STAP細胞」を作り出せるなら、たとえ勉強不足で未熟者であっても、肝心なところは証明できるはずだ。理化学研究所をクビになっても、どこかの大学なり研究機関で拾って欲しいという彼女の懇願のように見えた。
イエス・キリストはいつも世間とは違う発想で人々に話した。「『目には目、歯には歯』と言われたのをあなた方は聞きました。しかし私はあなた方に言いますが、邪悪な者に手向かってはなりません。誰でもあなたの右の頬を平手打ちする者には他の頬をも向けなさい」。「『隣人を愛し、敵を憎まなければならない』と言われたのをあなた方は聞きました。しかし私はあなた方に言いますが、あなた方の敵を愛し続け、あなた方を迫害している者たちのために祈り続けなさい」。
また、イエスの“ブドウ園の働き手へ払う賃金の話”も考えさせられた。たった1時間しか働かなかった者も長く働いた者も同じ賃金だったので長く働いた者が不満を言う。すると雇い主は「あなたとは約束した賃金をはらった。あなたに何も不当なことはしていない。私は1時間しか働かなかった者にもあなたと同じように与えたかった。私が自分のもので自分の望むように行なってもよいではないか」と言う。そしてイエスは「このように最後の者が最初に、最初の者が最後になるでしょう」と結んでいる。凄い発想だと私は感心し共感した。
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