小学校・中高学年ぐらいから中学にかけて、
私は、いやというほど能力主義を身をもって体験した。
小学校のクラスには、いろんな同級生がいた。
親がお金持ちのお坊ちゃま、お嬢ちゃま、
マシュマロみたいに可愛い女の子、運動神経のいい少年、
ちょっとヒネくれた子、生意気な子、芸能ネタが得意の子、芸術肌の子、
大人しい子、目立たない子、体格のいい子、元気な子、優しい子、正しい子、
そういう、いろんな特性は、個人の特徴としては現れたかも知れないが、
やはり一番の評価の決め手は、成績。
勉強ができるかどうか、だった。
勉強がよくできる子は、真面目で先生受けが良く、いつも学級委員長、副委員長に選出されていた。
休み時間には、優等生たちは先生の周りを囲んで談笑していた。
(私にはありえない、オソロシイ光景だった・・・)
要領よくて成績の良い子というものは、存在しなかった。
大人じゃあるまいし、子どもで要領よくて成績がいいなんて、ありえない。
そんな、まやかしが効くような、甘いものではなかった。
要領ではなく、もともと頭が良く、勉強も真面目にする子が、成績が良いのだ。
お坊ちゃま、お嬢ちゃまであっても、成績が悪いと、学校側から、転校のおススメ、肩たたきがある。
一人減り、二人減り、
逆に、一人入り、二人入り、と知らない間に、人が入れ替わっている。
映画「カイジ」(藤原竜也 主演)でもあったように、ビルからビルの間を綱渡りし、
着いていけない者は、谷底に落ちていく。(松山ケンイチ、渡り切ったのに、残念!!)
成績の悪い私は、そんな風に感じていた。
私は、ビリもビリ、絶壁の草にしがみついているような状況だった。
成績によるクラス分けが行われ、テストの点数順に並ばされた。
進学塾ではこういう風景は当たり前だが、義務教育である小学校での光景が、これ。
「神経ピリリ細かい子なら、きっと、やっていけないんだろうな」と、
惨めな自分を見て、もう一人の自分がそう思った。
そんな中にいれば、成績最悪の私、いくら天然・鈍感人間でも、
そりゃあ、多少は、ひがんだり、ひねたりもします。
きっと私のヒネ曲がった根性は、このときに養われたものだと思われる。
そして、これ以上、下はない、という、下の下の開き直りの根性も、ここで培われたのだろう。
未だに、偏差値地獄が頭にこびりついて、私を苦しめることがある。
どんなに可愛くても、どんなにお金持ちでも、どんなに爽やかでも、どんなに性格よくても、
アホだったら、奈落の底・地獄。
その地獄絵が私には、焼き付いて離れない。
偏差値・偏重教育の弊害をもろに、被ったわけだ。
中学では、そのメンバーが多少入れ替わり、新しい強力メンバーが大勢加わった。
中学の同窓会には、地元を離れて何十年も経っているのに、常時、私は顔を出している。
クラスメートの中でも、(私レベルの戦友は、私同様に、ほとんど戦死、討ち死)
戦争に勝った人々の顔を見に行くのだ。
自分は、のたれ死にしているが、勝利した人々は、華々しい人生を歩んでいる。
それを蔭からじっと、そっと、見たいのだ。
(わーわー、本人と直にしゃべってるけれど)
(ぞぞぞ、ちょっと調子に乗って、自己陶酔しすぎ?! すみません、悪趣味、確信犯です)
大袈裟表現にツッ走っている、キモ傾向ありだが、
私が、違う教育方針の学校に通っていたらどうだっただろう?
まったく違う私になっていたかも知れない。
「蝶よ花よ」の、可愛いほんわかお人形さんになって、毎日を美しく暮らせたかも知れない。
紆余曲折で、こんなにヒン曲がってしまったが、
別の価値観を持った、別の人生を歩んでいたかも知れない。
価値観は、育った環境とDNA、その後、歩んだ人生によって、形成されると思う。
特に出会った人々に、大きな影響を受ける。
私の価値観、実は、踏まれてナンボ。「下の下」から始まっている。
もともと出る芽などなかったのだが、出る前に、踏みつぶされたことにしておけば、
自分のせいでないということで、楽である。
人生、最初から負けている。挫折からスタート。
こうして、いつも安楽なところに身を置き、さぼっている。
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私は、いやというほど能力主義を身をもって体験した。
小学校のクラスには、いろんな同級生がいた。
親がお金持ちのお坊ちゃま、お嬢ちゃま、
マシュマロみたいに可愛い女の子、運動神経のいい少年、
ちょっとヒネくれた子、生意気な子、芸能ネタが得意の子、芸術肌の子、
大人しい子、目立たない子、体格のいい子、元気な子、優しい子、正しい子、
そういう、いろんな特性は、個人の特徴としては現れたかも知れないが、
やはり一番の評価の決め手は、成績。
勉強ができるかどうか、だった。
勉強がよくできる子は、真面目で先生受けが良く、いつも学級委員長、副委員長に選出されていた。
休み時間には、優等生たちは先生の周りを囲んで談笑していた。
(私にはありえない、オソロシイ光景だった・・・)
要領よくて成績の良い子というものは、存在しなかった。
大人じゃあるまいし、子どもで要領よくて成績がいいなんて、ありえない。
そんな、まやかしが効くような、甘いものではなかった。
要領ではなく、もともと頭が良く、勉強も真面目にする子が、成績が良いのだ。
お坊ちゃま、お嬢ちゃまであっても、成績が悪いと、学校側から、転校のおススメ、肩たたきがある。
一人減り、二人減り、
逆に、一人入り、二人入り、と知らない間に、人が入れ替わっている。
映画「カイジ」(藤原竜也 主演)でもあったように、ビルからビルの間を綱渡りし、
着いていけない者は、谷底に落ちていく。(松山ケンイチ、渡り切ったのに、残念!!)
成績の悪い私は、そんな風に感じていた。
私は、ビリもビリ、絶壁の草にしがみついているような状況だった。
成績によるクラス分けが行われ、テストの点数順に並ばされた。
進学塾ではこういう風景は当たり前だが、義務教育である小学校での光景が、これ。
「神経ピリリ細かい子なら、きっと、やっていけないんだろうな」と、
惨めな自分を見て、もう一人の自分がそう思った。
そんな中にいれば、成績最悪の私、いくら天然・鈍感人間でも、
そりゃあ、多少は、ひがんだり、ひねたりもします。
きっと私のヒネ曲がった根性は、このときに養われたものだと思われる。
そして、これ以上、下はない、という、下の下の開き直りの根性も、ここで培われたのだろう。
未だに、偏差値地獄が頭にこびりついて、私を苦しめることがある。
どんなに可愛くても、どんなにお金持ちでも、どんなに爽やかでも、どんなに性格よくても、
アホだったら、奈落の底・地獄。
その地獄絵が私には、焼き付いて離れない。
偏差値・偏重教育の弊害をもろに、被ったわけだ。
中学では、そのメンバーが多少入れ替わり、新しい強力メンバーが大勢加わった。
中学の同窓会には、地元を離れて何十年も経っているのに、常時、私は顔を出している。
クラスメートの中でも、(私レベルの戦友は、私同様に、ほとんど戦死、討ち死)
戦争に勝った人々の顔を見に行くのだ。
自分は、のたれ死にしているが、勝利した人々は、華々しい人生を歩んでいる。
それを蔭からじっと、そっと、見たいのだ。
(わーわー、本人と直にしゃべってるけれど)
(ぞぞぞ、ちょっと調子に乗って、自己陶酔しすぎ?! すみません、悪趣味、確信犯です)
大袈裟表現にツッ走っている、キモ傾向ありだが、
私が、違う教育方針の学校に通っていたらどうだっただろう?
まったく違う私になっていたかも知れない。
「蝶よ花よ」の、可愛いほんわかお人形さんになって、毎日を美しく暮らせたかも知れない。
紆余曲折で、こんなにヒン曲がってしまったが、
別の価値観を持った、別の人生を歩んでいたかも知れない。
価値観は、育った環境とDNA、その後、歩んだ人生によって、形成されると思う。
特に出会った人々に、大きな影響を受ける。
私の価値観、実は、踏まれてナンボ。「下の下」から始まっている。
もともと出る芽などなかったのだが、出る前に、踏みつぶされたことにしておけば、
自分のせいでないということで、楽である。
人生、最初から負けている。挫折からスタート。
こうして、いつも安楽なところに身を置き、さぼっている。
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