叙情的古典派印画機械持込散歩術学が広報新聞で楽に成ったという理由は、今迄15年余り町撮りを続けて希には「写真なんか撮って、胡散臭い奴だっ!」と思われたりもしたが新聞配布後は声を掛けられたり「撮って下さい」と言われたりもして張り合いが出てきた。いずれは、「平成初期の南区写真集」や「江戸・明治・大正・昭和の古地図」なんかも機会に恵まれたらやってみたいと思う。題材なんて沢山在る、駄菓子屋さん、銭湯、床屋さん、豆腐屋さん、八百屋、魚屋さん等など段々と減っていく商店特集とかである。砂利道特集なんかも面白い。
オイラは、南区の区民会議という有志の機関に所属しているが集いとなると土日であったりしてナカナカ会議に出席は出来ないでいる。でも、協力したいっ!産まれ育った南区に参加したいっ!で、趣味の写真で参加しているつもりなのだが先月は二度目の叙情的古典派印画機械持込散歩術学で取り上げて頂き、月が変わりオイラの役目は終了。その広報新聞の余りを自分の記念に貰いに行く処である。その欄の題名も「カメラを持って、南のまちを旅しよう!」だからオイラに最適であったし、今後の叙情的古典派印画機械持込散歩術学も楽に成った。
彫金、物造りも同様だし写真も撮り終えたら振り向かない。むしろ、それぞれをやり直す事はするが、その場合も前回の作品をヒントにはしないで新たなる心で取り掛かる。タイミングなのだっ!その瞬間の心の動きを今の時点で可能な技術をもって表現したいのだ。だから毎回が似て非成る作品であり微妙に違う訳。感情なんて場の雰囲気だけでなく気温や湿度、季節、時間、体調、空気で決して同じでない事は、こうした創作瞬間のお陰で体得した。一発勝負とか一期一会などと大袈裟に語らずともそれに近い感覚だ。そう言う積み重ねもオイラ流。
今夜も暇に任せてウェーブその他数多くを練習し、更成る暇時に行う譜面起こしの仕込みをする。仕込みと言っても五線譜に小節を引くだけであるが、イザ音符を載せる段階に引くの思い切りが発揮出来ないので仕込んで置く訳だ。その音符だって常にギターを弾きながら頭中に仕込んでいる。展開が確定しある程度弾きこなせ、満足が済めば譜面お越しをして遺産として残す訳だ。で、弾く時はオイラは譜面は見ない。譜面に囚われて感情を意入しずらいからである。料理なども同様に、創作を頭で描きタイミングが揃って試作、レシピに残し後見ない。