へんな洋食屋より発信!

横浜市南区にある洋食屋から旬な話題を発信します。

へんな洋食屋

2006-08-31 08:30:27 | Weblog
考えてみると、シンプル・ライフを目指し実行するとは、一度は様々な無駄・見栄・自己満足の馬鹿な積み重ねをした上で選択・目利きを研ぎ、精神整えてシンプルを造り上げる。これが、モノ作り等の事なら積み重ねも技術の進歩になるが、モノ集めは只の場所の無駄使いだし、手放したら何も残らないどころか手放した事の無念と罪悪感で病むだけです。マァ、それでもイロイロと口実を設けて増やしてしまうのが常だし、それまた病気なんです。だから、「捨てる技術」「減らす技術」なんて事が、技術となって賛美されてしまうのだろう。

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2006-08-30 12:56:55 | Weblog
実は、このシンプル・ライフに付いて書く気に成った原点は、父の心臓手術を控えてからでした。病気的には、心臓近くの血管の詰まりなんですが、詰まるという事は、何か余分なモノが有り蓄積されたのが原因だと思う。何かが、シンプルな食生活ではなかった。オイラも血筋ですので無いとも限らない。しかし、急にあれこれ処分してシンプルに出来ないので、マズ、身近な物品から始めた。何れは、食生活もシンプルにして行きたいというスタートです。このシンプルという難しさ。何十年も積み重ねた複雑をシンプルに戻すのにもう暫く必要です。

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2006-08-29 08:37:15 | Weblog
いろいろな小説・随筆・詩等に「名も無き花にも…」なんて書かれていますが、実際に名も無き花はありません。只、そのくらい粗末で、あり降れていて、目もくれられない。という意味だと思いますが、そんな花を引き合いに出して心を打とうと書いている筈です。という事は、殆んどの身知らぬ人々は、「名も無き花」の様なモンですかねっ!道端の何も手を入れられない花だって、温室育ちの高価ならんの花だって、年中は咲かない。必要な時に咲く。何年に一度しか咲かない乾燥地帯のサボテンだって、生涯中に必要にかられて咲く。必要とは?

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2006-08-28 08:36:02 | Weblog
そして、その花。花の香りは、辺りを漂い回りの人々を穏やかな気持にさせる。でも、香りだけではない。「徳」も持っている。中国の故事に「花は千里を香り、人徳は万里を香る」とあるが、花は局地的なものだ。徳という香りは、彼方まで届き身知らぬ人の心まで変えることもある。しかも、始終は咲かない。徳を重ねて重ねて、シンプルを築き、解りやすくしてこそ香る。評判だっ!複雑の中には、「マヤカシ」も多く含まれているが、シンプルの中身は「素材とそれを活かす調べ」しかないから、解りやすい。オイラもその様に成りたいなっー!

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2006-08-27 08:25:08 | Weblog
世に咲く様々な花で決して派手でなく、しかし行儀の良い美しい花って有りますなっ!そういう花を咲かせたいと思う。それには、間伐も栄養も愛情も必要でしょう?それが、趣味ですよっ!しかも、シンプルで創造性に富んだ趣味。沢山の種類が有るけれど、やはりモノ造りです。そして、歩みを散らす。いわゆる「散歩」ですなっ!学問も大事。だが、学問は全てでなく好きな続けることの可能なモノ。しかも、金銭の掛らない学問、オイラは15年以上日本史の勉強をし、身近な地域なら想像を働かせて実際に歩みを散らしその空気を味わうのが楽し。

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2006-08-26 08:39:37 | Weblog
でも、その花とはなんだろう。花なんだから咲く訳ですが、世の中に見てもらうために咲くのか、実を結ぶ為に咲くのか、人生の花は、いわゆる草木の花とは違う。オイラも世に出て25年、一本筋では調理を続けているが複線として様々な趣味をやってきて、その過程で取り捨てをしながら現在は4種の趣味に絞られ進行系です。初めから花を咲かせるつもりでやっている訳ではないのですが、せいぜい趣味仲間が増えるくらいの小花の状態で終始しそうです。シンプル・ライフの中で花を咲かせる訳だから派手な大輪を咲かせる必要はないからなっー!

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2006-08-25 08:36:31 | Weblog
先日、温かい話しを聞いた。「花は、毎日咲かないよ」です。思うに、咲かせるまでの長い期間にあまり興味を持たなかったので、いわゆる花自身の仕込みや四季の変化での頑張り等は見ていません。そして咲くンですが、ホンの僅かな期間です。しかも、その後の枯れた様、これも実を付ける期間。無駄が長いようで、実はその位無駄に感じる期間がある。シンプルの長いきわみが美しく短い期間を引き立てる。人生には、四回位誰にめ平等に有るらしい。花咲く時が。しかし、タンポポの種は薔薇にはならない。己を知ることも良い花を咲かせる条件。

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2006-08-24 08:46:03 | Weblog
話が逸れましたが、要するにシンプル・ライフは、見栄や装飾が無い為に敵を産まない。質素倹約を実践している方には、他人を羨んだり憧れたりがない為に、モノや姿・形に囚われ無い精神が宿り「俺が、私が」とか「これが一番っ!」等という優位に立とうとする気持ちが出ない。しかも、実績は有るので人格者と見られる。「実ほど頭を垂れる稲穂かなッ」と言われますが、そんな方はナカナカ居ないです。どうしても自慢が見栄が出てしまう。自己主張の手口なんだろうが何か醜いし、何時までも聞いていられない。それどころか、話したくない。

へんな洋食屋

2006-08-24 08:45:33 | Weblog
また、そんな方は「間合い」も巧みです。いわゆる「激勺の間合い」には入らない、激勺の間合いとは直ぐそこに立ち会う距離と時間が存在する事。その間合いには入らない!物事、ある境地に近付くと目に付いた事、出会った人の凄さが瞬時に理解出来る様に成る。それは、その背景が見えるからです。その時、激勺の間合いが見える。余程でなくば、その間合いには入るべからず。引き返すか、立ち会うしかなくなる。大概は、その場面で見栄と張ったりで分かれるのが殆んどであるが、その場合実は双方の力量が見えてしまったバツの悪さからです。

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2006-08-23 16:09:45 | Weblog
実際に、白羽を抜いてみると(真剣を抜く事自体が大変ー触れたら切れてしまう70〓もの大刀)、何れはサヤに納めなくてはなりません。サヤの僅かな隙間に白羽を納める時に指を落とす事が多い。納める心構えが足らないからだっ!思うに、日常の出来事のケジメとしてカタズケがある。「型付け」と書くらしいが、正に型を付ける。ナカナカ出来ていない、出しッ放し・やりっ放しが殆んどですなっ!これが、真剣白羽であったなら、出しッ放しには出来ません。こんなところから気付いた「型付け」、無論、白羽は抜かない方が良い。必要か否か?