
軍神と呼ばれた広瀬中佐、こと広瀬武夫は明治37年3月27日、日露戦争旅順港閉鎖作戦の最中に戦死した。広瀬中佐が指揮する福井丸は敵の魚雷を受け沈没しようとしたが、部下の杉野軍曹が船を自爆させる爆薬の点火のため船倉に行き、ボートへの撤退に遅れた。部下思いの広瀬中佐は、自らの危険を顧みず、軍曹を探して爆発が起こるかも知れない船倉を3度にわたって探索した。
「杉野、杉野っ」と叫んでも、返答はなく、福井丸の沈没は目前に迫ってくる。止むを得ずにボートに飛び降りたが、そこへ砲弾の嵐を浴び、広瀬中佐あえなく戦死した。剛毅、果断、勇武と軍人の資質を備えた中佐は、部下に接するに子の如く、部下は中佐を親にように慕ったと伝えられる。この戦死のシーンは、文部省の唱歌となって、小学校の子どもたちに唄われた。
1 轟く砲音 飛び来る弾丸。
荒波洗う デッキの上に、
闇を貫く 中佐の叫び。
「杉野や何処、杉野は居ずや」
2 船内隈なく 尋ぬる三度。
呼べど答えず さがせど見えず
船は次第に 波間に沈み、
敵弾いよいよ あたりに繁し
広瀬中佐は清廉潔白であった。酒を飲まず、煙草を吸わず、あらゆる嗜好に淡白であった。万一のことに思いをはせて、妻帯をすることもなかった。享年36歳、その死を惜しまれる軍人であった。