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常住坐臥

ブログを始めて10年。
老いと向き合って、皆さまと楽しむ記事を
書き続けます。タイトルも晴耕雨読改め常住坐臥。

池大雅

2015年03月26日 | 


夏目漱石の句に

玉瀾と大雅と語る梅の花 漱石

池大雅は天衣無縫な絵の天才であった。無名時代に扇に絵を描いて、祇園の境内に莚を敷いて売っていた。諸国の大勢の人が参拝に来る神社の境内であったが、大雅の扇を買うものはいなかった。参拝者たちから、「乞食絵描き」と陰口をたたかれながらも頓着せず、境内の店に通いつめた。大雅の露店の先に、お百合茶屋という茶店があった。店主のお百合は、30歳ほどの後家で、娘を連れて店番をしていた。娘の名は町と言った。

同じ境内で露店を出した大雅をお百合が目に留めた。売っている扇の絵を見ると、凡手の絵描きでないことをすぐに見抜いた。大雅に同情して、お百合は娘に茶を運ばせ、売っている扇を買い求めたりした。話をしているうちに、大雅の人柄や絵の技量を見るにつけ、この人は世に出るに違いないと確信した。そこで、お百合は大雅に、娘の婿になってくれるように頼んだ。まだ町は12歳の子どもであった。そこで、諸国を歩いて絵の腕を上げてから婿になることを約束した。

大雅は熊野に詣で、和歌山の祇園南海の教えを乞うた。南海は大雅の画才を大いに認め、清人の絵師の南宋画を与え、この絵を研究して、南宋の真髄を極めるように話した。大雅の技量は長足の進歩を遂げ、その名声が国中に広まっていった。嫁に迎えた町も絵に興味を持ち、大雅から絵を学び、玉瀾と号した。年は離れていたが、玉瀾は夫を尊敬していたので、実に仲のよい夫婦であった。二人にこんな微笑ましいエピソードがある。

大雅は絵の揮毫を頼まれて大阪へ向かった。慌て者の大雅にはよくあることであった。気づいた玉瀾が絵筆を持って夫を追いかけ、やっとの思いで追いつき絵筆を差し出すと、「これはこれは、どちらのお方か存じませんが、よう拾ってくださいました」と忘れたことを認めようとしない。玉瀾も余計な話はせずに「どういたしまして」と言って戻って行った。漱石の句には、こんなユーモラスな二人の会話が隠されているのであろう。迎えたばかりの新妻を玉瀾と重ね合わせて詠んだかもしれない。

コメント
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