梟の独り言

色々考える、しかし直ぐ忘れてしまう、書き留めておくには重過ぎる、徒然に思い付きを書いて置こうとはじめる

核廃絶は国民の、被爆者の切望だ

2018-01-22 12:59:59 | 雑記
ICANがノーベル平和賞に称された、核兵器の廃絶を目的として民間で立ち上げた機関で本当に賞賛すべき受賞だと思う、
現在保有されている核兵器の総量は地球を壊滅させる量の数十倍だと言う、若しかしたらもっとあったかもしれない、
その計算の根拠になっているのは広島と長崎の原爆投下である、数十万人を一瞬に消し去り徐々に命を蝕んで行く人数も数万人に上がる、
これは戦争災害と言うより実戦の名を借りた核実験であり虐殺に他なるまい、
世界で唯一の核兵器被害国であるが日本政府は核廃絶条約を批准しない、と被爆者と同胞を思う国民を裏切った、
ICANが「日本政府は」と東京新聞やネットでは見たが他の報道は「日本は」と表記している、冗談ではない殆どの日本人は核廃絶条約を切実に真剣に望んでいる、
政府が言う「核の傘」は全く矛盾した言い回しで核兵器そのものが死の「黒い雨」を降らせる恐怖そのものだ、傘の訳はない
彼らの言う「核の傘」は戦力の均衡による「精神的抑制力」と言う事だろうが北朝鮮の様に瀬戸際外交の国にとっては「アメリカが北朝鮮にとって脅威である事が抑止力になる」と言う
「何時でも発射可能な状態だ」と言い立てる通り、追い詰められれば不安体な独裁者は何時暴発するかもわからない、
互いに実弾をこめた銃を突きつけあって交渉なんぞは解決する訳も無い、
相手が引き金を引く前に息の根を止める事は不可能な決闘の状況では先ず銃口を下げる事からしか話し合う事は出来ない、
新たに銃を取り銃口を向ける奴が出てくれば話は更にややこしくなる、しかし銃を上げた連中が「銃を持つのはおかしい」と言うのも当然おかしい話だ、
核の傘なんかは存在しない、それを言い立てて被爆者を捨てる政府を国民は承諾できない、
非人道的な兵器と言われる、人道的な兵器など存在しないのだが「核」と言うもの自体その破壊力と数万年と言う半減期を持つ放射性物質は地球と言う星の生物の為に人間が触れるべきでない行為だと思う、
放射性物質の処分が不可能である限り絶対に手を触れてはならない、それを殺戮の為に行うなど自然への、神への冒涜だろう、
何を考えているのか破滅に向かいかねない安倍政府を止めるために野党は何としても共闘して貰いたい、
小異を捨てて大同につくと言う事を考えて貰いたい、幾ら与党の横暴を叫んでも内輪もめをしている限り与党の足元は一歩すら動くまい、
野党よもっと大人になってくれ、国民はたまらない

別に後悔していると言う事ではないのだが

2018-01-20 13:51:04 | 雑記
子供達とは8歳と12歳で一緒に暮らし始めた、各々家を持ち孫も出来たが未だに自分があの子たちの父親としてちゃんとできたのか今一つ自信がない、
こんな考えは子供達にとって返ってひどい話なのかもしれない、無論おくびにも出していないし女房が聞いたらかえって悲しむと思うので当然女房にも全く知られていない、と思う。
息子の方はやはり中学校からだったので負担は有っただろう、
特に女房が離婚後の生活で片親だと言う事を負い目にかなり甘やかして育てていたので一緒に暮らし始めてからかなり厳しく育てたと思う、
息子はそのこと自体に反抗したことは無かったが今考えれば自分の気追い込みすぎで厳しすぎた事も多々あると思う、
高校生になってから遅い反抗期が始まり女房とも衝突していたが夫婦の間で決めていたことがある、
小言は必ず女房からする、それでも言う言事を聞かない時には「お父さんに言って貰う」と言う事、絶対に同じことで両親から責めない事、落ち込んだら慰めても本筋の所は夫婦で一致させる、と言う事、
もし夫婦で意見が分かれたら先に子供を交えず夫婦で意見を集約すると言う事を夫婦間の取り決めとしていた、
義父と言うつもりは全くなかったがつもりだが心の奥に(俺は本当に親になっているのか?)と言う問いかけは何時もあった、
本当の親子はどれだけ衝突しても親子は親子なんだが自分は親である事に努力する必要が有った気がする、
「お前なんか親でも子でもない!」と言うのは自分と子供にとってはシャレにならない禁句である、
毎年父の日と誕生日にお祝いをくれる子供達だが未だ(あの子達は本当に俺の子供で良かったのか)と言う滓は何処かにありそれが又かえって申し訳ない考えをしているのかと自問自答する、
結婚して数年したころ女房が「子供を作りたい」と言ったことが有る、
「そうだな、3ヵ月考えてやはりそうだったら作ろうか」と答えたが結局それきりになった、
二人の子供を作ると言う事には自分の中で躊躇する事が有った、
一つは(今の二人と出来た子供を自分は同じ様に扱えるのか)と言う事、自分では出来としても子供の方に差が有ると感じてしまうのではないかと言う事、
そしてこれが一番大きかったのだが(自分とそっくりな子供)が生まれる事がとても心配だった事だ、
無論これは今の夫婦、生活とは全く関係なく「自分の性格を持った子供」が生まれ育つのがたまらなく嫌だった、
実をいうと私は私自身の性格がとても嫌いだ、ある程度大人になってから子供の頃の事を思い出すと自分ながら張り倒したくなる言動をしている、
今の若者が言う「自分が嫌い」と言う事とはやや違う気がする、
それをある程度の年齢になって押し込めているのは本当に“自分の性格が自分で嫌”のおかげで、“何とかしろよ、その性格”とずっと自分自身に言い聞かせてい来る事が出来たからで、我慢だとは思わず社会とのコミュ二ケーションとして必要なスキルだと納得しているからに他ならない、
我慢をしていると考えたら何処かで漏れてしまうか最終的に爆発するだろう、
(我慢していると思っている限り我慢しているとは言えない)と自分に言い聞かせそれが自分の第二の性格として身についたとの自負はある、
しかしあの頃の自分とおんなじ性格の子供がちょろちょろしていたら腹が立つだろうし自分の嫌な所を目の当たりにしなければならなくなる、
当然女房は「あの嫌な性格、あんたそっくり!」と言うだろうと思う、
残念ながら夫婦をやっているとどうしても細かな所から我が性格を熟知している、
現在は現役の仕事をしているので未だ大丈夫だと思うがリタイアでもして夫婦だけの生活になったり、万が一独り暮らしになったらあの性格が顔を出しかねない、
こいつだけは御免被りたいものだ、そうなったら山奥に隠遁するか、キャンピングカーでも蹴って放浪でもするか、
まあそれはそれで子供におお迷惑かもしれないな

楽しみはこれから

2018-01-17 11:02:55 | 雑記
友人の娘さんの子供を夫婦でやっている焼鳥屋さんに逢いに行って来た、
上が女の子でもう少しで3歳、下の男の子は1歳を少し過ぎたところである、
自分の孫達は既に賞味期限が切れている、娘の子の上の方は21歳になる、今は高所鳶なので中々のいでたちである、第一先日有ったら十分な大人だ、可愛いどころではない。
次は高校2年生だが何と身長が180cmを越えてしまってこれまた可愛いとはいいがたい、
息子の子供の方は来年中学になる、まだ可愛いのだが殆ど寄り付かない、孫はなついているのだが親の方が来ないのだ、娘の子供は泊りに来ていたのだがこっちは単独で来ることはまずなさそうだ、
この子は生まれてから1歳を過ぎるまで直ぐ近くに住んで居たのだが確かその間に一回しか来なかった、
2歳になるころ嫁さんお実家が有る板橋に引っ越したら年に一度来るか来ないかで孫は11歳になった、
まあ嫁さんにしてみれば気を遣う義理の親に会うのは避けたいところだろうが孫の顔を見る事が少なく可愛いい盛りは過ぎてしまった、
息子は48歳で娘も45歳、次の子供はもう望めそうもない、諦めて手近で調達する、
友人の娘さんは36歳、友人は交通事故で十数年前に亡くなって旦那の方も父方が無いらしいので自称「爺代行」と言う事で暫くは楽しませてもらう事にする、
長男は初対面だが「おいで」と手を出したらすぐに来たのだが娘の方は1歳過ぎから逢っていなかったので名前を呼んでも逃げ回る、
それでも30分もしたらどうやら慣れてきた、
お土産に持って行ったアンパンマンのお菓子で遊んでいたら色々とお話をするようになったので「ミミちゃん、抱っこさせてよ」と言ったら「うん、良いよ」と手を出して寄って来た、
お母さんが「なんだ、その上から目線の返事は!」と笑って居たが取りあえず抱っこに成功、結構重い、さっき抱き上げた息子は既に12kgらしいので14~15kgくらいかな?
高い高いは3回でやめておいた、殆ど酒は飲まず8時過ぎには店を出たが十分堪能させてもらうことが出来た、
又近いうちに行ってみようか

嫌だね矮小な自分の僻み根性

2018-01-15 10:01:28 | 雑記
昨夜女房が義姉に有ったと言う話をした、義兄は10年以上前に亡くなって義姉は一人で暮らしている、
子供は女の子が二人、下の娘に男の子がいて我が娘の下の男の子と同い年だがあまり交流は無い、
どうと言った理由が有るのではなく近くに住んでいても娘自体に交流が無いせいである、
この姪の子が通っている高校の受験者向けのパンフレットの写真に使われたと嬉しそうに話していたらしい、
彼の学校は進学校だそうで我が孫とはだいぶ世間の評価は違う、何しろ我が孫は二人とも勉強が大っ嫌いで両方とも3年生になって友人が殆ど高校に行くのでそこから準備をしたと言うタイプである、
我が娘も息子も全く同じだったのであまり驚かない、(嫌なものは仕方ない)と言うのが夫婦の方針なので子供達にも「働く時にハンディが有るがそれでも良ければ好きにしろ」と言っていたが何とか滑り込んだ、ついでに言えば娘は短大まで行ったがこれは恐らく(未だ働くのは嫌かな)と言った理由だと思う、
「勉強したいなら何とでもするが働きたくないなら金は出さんぞ」と言ったが当然ながら「もっと勉強したい」と入ったが卒業して3年したころ聞いたら「教科は忘れた」そうだからそんなもんだろう、
「子供も孫も学校の名前にはなんの不満も無いが“うちの孫は”と言われるとちょっと言いにくよね」と言っていたが実は自分も先頃同じ事があった、
中学の頃からの友人が上京して「孫の面倒を見ているから少し飲まないか」と言って来た、
彼はリタイアしているので時間は十分ある、「夕方孫を迎えに行くので昼間から飲めるところに行きたい」と言うので浅草のテントに行き、彼の希望で寿司屋通りの小料理屋に寄った、「夕方のお迎えは」と言ったが結局9時頃まで飲んだ、
女将が「絶対、あんたのせいになるわよ」と言っていたがどうなったかは知らない、
彼の娘さんは外資系の会社で総合職に就き代々木上原に住んでいるそうだ、彼女の会社は結構有名な会社らしい、
夫婦でオーストラリアに住んでいたこともあるそうでそれなりの生活レベルだそうだ、まあ代々木上原に住んでいるくらいだからそうなんだろう、
もう一人いる息子さんはこれも一部上場の会社に勤め今では三島に一戸建てを購入して住んでいると言う、
当人は普通に子供の話をしているのだがどうも此方にとってどうしても「うちの子達は」と言う話のつなぎが出来にくい、
(本当に俺は小さい人間だな)と頭の中でずっと思いながらどうしても会話が途切れがちになる、
そうかといって子供の頃の話をしたところであまりに昔の話だ、そうかといって女の話でもあるまい、古希である。
矮小な自分に恥じながら(悲しいがしょうがない)とも思う、
啄木ではないが「友がみな我よりえらく見ゆる日よ、花を買い来て妻と楽しむ」と言う様な気分になったがその時は女房にはなにも言わず、刺身と酒を奢ってのむことにした

両替商の方が似合うのだが

2018-01-12 15:17:12 | 雑記

掛川の城に近い交差点にある建物、数年前から仕事で前を何度も通っていたが蕎麦屋か和菓子の店かと思っていたのだが先日気分を変えて大手町方向から来てみたら黄色の看板に「清水銀行」と書いてある野に気が付いた、
車を止めて改めてみてみたら入り口のガラス戸に「銀行」と小さく印刷してある、

交差点の対角には仏具店が有る、此方も中々いい味を出している

掛川市は何年か前に従来工法で天守閣を立て直した、その後街を城の雰囲気に合う様に改築する建物をなるべく時代考証に有ったものにすると言っていたがその一環なのだろう
駅から本丸に向かう道路を進むと堀替わりの逆川近くはある程度そういう雰囲気になっている、東側の通りには大手門らしきものもあったと思うあ今回は写していない
画像に移りこむ電柱が無ければ結構いい雰囲気の街なんだが少々残念な景色になってしまっている、
そうなればこの黄色い看板も「両替「とでも書いた方が良さそうだ
私のの故郷は此処から北方に約15㎞(4里と言っていたので)程言った所の寒村である、バスが入ったのは私が小学校に入学したころだったと思う、
餓鬼の頃遊んでいた「百観音「と言う山のすぐ後ろには新東名の掛川サービスエリアが出来ていてそのころ一軒だけだった温泉が今では4軒になっている、
その頃の城跡は小高い公園で頂上に観音像が建っていた、建ったのは日露戦争の頃で敗戦で「平和観音」になったらしいがその頃の名前は書かれていなかった
観音像の脇には火の見櫓が有って背の低い鉄柵が周りを廻っていて此処からは市の全体が見渡せる、掛川に出ると必ず登って周りを眺めるのが好きだった、
かれこれ60年が過ぎると街も自分も随分変わる、田舎の風景もかなり変わってしまっている、しかし何度行っても殆ど人を見ないところだな