梟の独り言

色々考える、しかし直ぐ忘れてしまう、書き留めておくには重過ぎる、徒然に思い付きを書いて置こうとはじめる

ジンタ、サーカスがやって来た

2021-08-30 15:35:12 | 昭和の頃
町の城跡公園にサーカスがやって来た
村の一番奥のトンネルから駅まで四里だと言うから駅から少し離れた城址公園まで15km位だろう、
その15キロ位の道沿いに4~500軒の家がある、細い川沿いにわずかな水田があり、川沿いの道は未だ未舗装だった、
その道に沿って段々畑が連なって間に家が有る、町に向かってこんな風な川沿いの集落が何筋か流れ込んでいるがサーカスの宣伝は村毎にやって来た、
昭和30年の初めころ、車ではなく歩いて来る、正確には覚えていないが恐らくクラリネットだろう、ジンタを吹きながらやって来た、
「サーカスが来たよ、」と言いながらチラシを配って歩く、これを見ると体の内側からワクワクしてくる、
この時代の子供達にとって町の方から、更に外の街からやってくる非日常はたまらなく心が躍る、
間違いなく見に行ったのだが内容はほとんど覚えていない、
お決まりの三角テントと万国旗、空中ブランコがあったのか?、象は居たのか?、
間違いなくあったのは一輪車と玉乗り、そしてピエロ、
木下大サーカスなんて有名なのではなく今では覚えていないサーカス団だったが町も村も隣の町からも連日人が集まった、
何でサーカスの歌をジンタと言うのかわからないが確か「天然の美」と言う曲じゃなかったか?
あの頃はちょうど敗戦直後で多くの出征した男が亡くなってその分を埋め合わせる様に大変なベビーブームだった、
この谷の中学校でも一クラス50人以上で1学年4~5クラス有ったのだがその中学校は昭和の終了と時を合わせる様に廃校になっていた、
小学校に上がったのは昭和29年、疎開してそのまま住み着いた我が家は貧しかった
昼は蒸かした芋2つなんて事も、それすら無い事もあった、いわゆる欠食児童である、
昼休みに校庭でブランコに揺られていると同じ様な子供も何人か居た、
それでもサーカスには連れて行ってくれたんだなと今更思う、
ジンタを吹きながらチラシを配っていたのは同じ様な年齢の子供もいた気がする
今の時代は色んな刺激にあふれていてあんなドサ廻りのサーカスなんかは面白くもなんともないだろうがあのワクワク感は今の子供達には味わえないんだろうな、
あの気持ちは今の何にも変え難い素晴らしい高揚感でそれを味わうことが出来ないのは少しかわいそうな気もする
フランス映画の「道」でジェルソミーナが吹いていたのはジンタではなかったがやはり軽快だが哀愁のある曲だったことを思い出した
サーカスにはどこか哀愁があったが大規模サーカスになったらそれが消えて、今ではサーカス自体も消えてしまった様だ

携帯電話の銀細工は小面だがちょっと不気味になってしまった

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