道端の花達:ツルニチニチソウ
マーガレット多分
小彼岸桜
お袋の想い出と言っても自分が覚えている母親の想い出の話では無い
母親が幼い自分に独り言のように話していた母親自身の想い出の話、
小学3年生の頃乳癌が見つかって片方の乳房をそっくり切り取ったが結局翌年に転移が見つかって中学に上がった年の4月に亡くなった、
話をしたのは殆ど幼時期から小学校低学年までだったが針仕事をしながら子供に聞かせると言うより幸せだった頃をかみしめる様に、懐かしむようにぼそぼそと話していた、
夜なべに裸電球の下で針仕事の手元を見ながら話したことをまるで自分の記憶かのように覚えている、
生まれたのは群馬の伊勢崎で利根川の近くだったらしい、
女学校の友達「トミエちゃん」と言う名前も覚えている、いつも一緒に遊んだり勉強したりしていたと話していた、
利根川の河原に月見草の咲く音を聴きに行ったはなし、
「月見草はね、捻じれた蕾が見ているとズッ、ズッと開いて行ってね、ポンって小さな音を立てて開くんだよ」
「遠く赤城山の麓にはね、白い大きなお蔵があってね、夕日が射すと白い壁が赤くなってきてね、」
「関東大震災では伊勢崎も随分揺れてね、兄のマサオさんが神田にいてね、火事になった楽器店からマンドリンを持って逃げて来たけどその店が燃えてしまったのでそのマンドリンを持って帰って来たけど、やっぱり泥棒になるのかね」
最初に嫁いだ相手は若くして亡くなって、同じように連れ合いを無くした父と再婚をしたのだが父は中島飛行機から横須賀海軍工廠に出向していた軍需工場勤めだったのでその頃はかなり裕福だったらしい、
しかし敗戦で一挙に零落し生まれた静岡の山奥に帰って来たのだが林業と農業の村では土地の無い者が生活するのは容易な事ではなかったようだ、
母は花嫁修業で覚えた和裁の手を生かして仕立てと村の娘に和裁を教えて生計を支えていたのだが父の方は戦時中の生活の想い出と零落した自分の心を支える為の虚勢が村人達との壁を作っていたのだろう、殆ど現金収入は母親の稼ぎだった気がする
農村で配給米を使っていたのはほんの僅かの人数だがそれでも足らなかった、
私がいわゆる銀シャリを食べたのは東京に就職してからである、
もっとも戦後10年くらいは「おしん」ではないがサツマイモの入った飯が週に何度かあったと東京生まれの女房も言っていたので都会でも同じ様なものだったのだろうが何しろ住んで居るのが農村である、米だけは不足していない、
現金がなくなり、米も底をつき、醤油も切れれば当然味噌も切れる、
「困ったね、夕飯を作るにも10円玉しかない、これじゃあ何にも買えないね、テル(私の事)これで飴買っちゃおうか」と言う様などんな状況でも落ち込む事のない母だったが今考えると子供に見せなかっただけで本当はずっと耐えていたんだろうと思う、
それがあの「故郷の話」になったのだろう
あれだけ思い続けた群馬に一度だけ、結核で紡績をやめた次女を預けに帰ったことがある
自分が未だ小学校に行っていなかったので恐らく昭和28年頃だったのだろうか、
祖母は生きていたのか会えなかったのか、覚えていないがそれから6年程度で逝ってしまった、
母が持っていた想い出が半分自分の想い出の様な感じなのだが群馬の土山と言う場所には一度も言ったことも無い、
トミエさんもマサオさんも会ったことも話したことも無いのだがずっと親しかったような感じがする、
仕事の関係で前橋も高崎も行く事が多くなった、しかし母親の実家すら知らないのだ、
それでも群馬は母親を通してずっと見て来た故郷の様な気がする、
マーガレット多分
小彼岸桜
お袋の想い出と言っても自分が覚えている母親の想い出の話では無い
母親が幼い自分に独り言のように話していた母親自身の想い出の話、
小学3年生の頃乳癌が見つかって片方の乳房をそっくり切り取ったが結局翌年に転移が見つかって中学に上がった年の4月に亡くなった、
話をしたのは殆ど幼時期から小学校低学年までだったが針仕事をしながら子供に聞かせると言うより幸せだった頃をかみしめる様に、懐かしむようにぼそぼそと話していた、
夜なべに裸電球の下で針仕事の手元を見ながら話したことをまるで自分の記憶かのように覚えている、
生まれたのは群馬の伊勢崎で利根川の近くだったらしい、
女学校の友達「トミエちゃん」と言う名前も覚えている、いつも一緒に遊んだり勉強したりしていたと話していた、
利根川の河原に月見草の咲く音を聴きに行ったはなし、
「月見草はね、捻じれた蕾が見ているとズッ、ズッと開いて行ってね、ポンって小さな音を立てて開くんだよ」
「遠く赤城山の麓にはね、白い大きなお蔵があってね、夕日が射すと白い壁が赤くなってきてね、」
「関東大震災では伊勢崎も随分揺れてね、兄のマサオさんが神田にいてね、火事になった楽器店からマンドリンを持って逃げて来たけどその店が燃えてしまったのでそのマンドリンを持って帰って来たけど、やっぱり泥棒になるのかね」
最初に嫁いだ相手は若くして亡くなって、同じように連れ合いを無くした父と再婚をしたのだが父は中島飛行機から横須賀海軍工廠に出向していた軍需工場勤めだったのでその頃はかなり裕福だったらしい、
しかし敗戦で一挙に零落し生まれた静岡の山奥に帰って来たのだが林業と農業の村では土地の無い者が生活するのは容易な事ではなかったようだ、
母は花嫁修業で覚えた和裁の手を生かして仕立てと村の娘に和裁を教えて生計を支えていたのだが父の方は戦時中の生活の想い出と零落した自分の心を支える為の虚勢が村人達との壁を作っていたのだろう、殆ど現金収入は母親の稼ぎだった気がする
農村で配給米を使っていたのはほんの僅かの人数だがそれでも足らなかった、
私がいわゆる銀シャリを食べたのは東京に就職してからである、
もっとも戦後10年くらいは「おしん」ではないがサツマイモの入った飯が週に何度かあったと東京生まれの女房も言っていたので都会でも同じ様なものだったのだろうが何しろ住んで居るのが農村である、米だけは不足していない、
現金がなくなり、米も底をつき、醤油も切れれば当然味噌も切れる、
「困ったね、夕飯を作るにも10円玉しかない、これじゃあ何にも買えないね、テル(私の事)これで飴買っちゃおうか」と言う様などんな状況でも落ち込む事のない母だったが今考えると子供に見せなかっただけで本当はずっと耐えていたんだろうと思う、
それがあの「故郷の話」になったのだろう
あれだけ思い続けた群馬に一度だけ、結核で紡績をやめた次女を預けに帰ったことがある
自分が未だ小学校に行っていなかったので恐らく昭和28年頃だったのだろうか、
祖母は生きていたのか会えなかったのか、覚えていないがそれから6年程度で逝ってしまった、
母が持っていた想い出が半分自分の想い出の様な感じなのだが群馬の土山と言う場所には一度も言ったことも無い、
トミエさんもマサオさんも会ったことも話したことも無いのだがずっと親しかったような感じがする、
仕事の関係で前橋も高崎も行く事が多くなった、しかし母親の実家すら知らないのだ、
それでも群馬は母親を通してずっと見て来た故郷の様な気がする、