梟の独り言

色々考える、しかし直ぐ忘れてしまう、書き留めておくには重過ぎる、徒然に思い付きを書いて置こうとはじめる

酒場遍歴記 よっちゃんの処で

2017-06-06 09:48:41 | 昭和の頃
酒の飲み方は基本的に家のみである、飲み始めた時は日立製作所の職工だったので金があまりなかった事と二十歳そこそこでは一人で行くには飲み屋の敷居は少し高かったこともある。
やはりぶらりと暖簾をくぐると言うのはそこそこの年にならないと中々様にならないし入りにくい物である、
日立をやめてルート営業の仕事に着いた時に所得は職工時代の倍になったが原則日曜が仕事なので友人と週末と言う事もなく飲むのは帰宅してからTVを見たり音楽を聴いての独り飲みだった、
その頃行きつけの喫茶店でカウンターの隣に座る常連と話をするようになりそのながれで近くの飲み屋に行く様になったのがきっかけで所帯を持つまでの10年強は行きつけと言う飲み屋がいくつかできた、
最盛期は友人と毎日いくつかの店を定期的に飲み歩いた、その日の気分だが何となく曜日で行く店が決まっている、しかし必ず最初に「勢いづけ」と言って通った店が有る
名前は「ととき」もしかしたら「どどき」だったかもしれないが坊主頭の店主が一人できりまわしていてその人柄で親しまれて通称「よっちゃんのとこ」で通じた。
銭湯の入り口角に間借りした体でカウンターと小上がりだけの店で15人は入れないか、
もつ焼きが主で煮込みと漬物、干物魚の焼いたやつ程度で飲み物は定番のホッピー、いつ行っても殆ど満員で開店時間に確保しないと座れなかった、
この時代アパートは木造でまず風呂はついていない、仕事を終えてひとっぷろ浴びて下足を履き寺の入り口の様な出口を出るといい匂いと雑然とした空気につい引っかかってしまうと言う段取りだ、
だから結構奥さんや小さな子供も座っている事が多いがこの客は8時頃には捌けてしまいその後は常連の溜まり場になる、
ガラスの引き戸を開けると左手がカウンターで開店祝いに貰ったと言う大きな招き猫が置いてある、そのすぐ下が焼き台だがこの店はガスを使わないので大きな渋団扇で火をあおる度灰が舞い上がり招き猫の頭から上げた手に灰が積もる、「開店から一度も掃除していない」と言う招き猫は綿帽子を被りひげから優曇華の花の様な灰をぶら下げている、
大きな串焼きのもつ、味噌味の煮込みが人気だが小鉢で供される「茹でコブクロ」が私のお気に入りで必ず食べたのだが他の店では見た事は無いな、
ざっと茹で上げて恐らくいったん水に取って冷ましたものに小口に切った白ネギを乗せただけだが千切りのニンニクを乗せて生醤油をかける、これを口取りにして焼きトンを食べながらホッピーを2~3杯のんで勢いをつけて当時あちこちにあった「スナック」と言う女の子が居る店に向かう、本来スナックは女性が席に着くのは違法なんだが大抵隣に座って接客する、野郎どもはそれを楽しみに行くのだ、
ボトルは大抵「オールド」だがこれも少し前は高根の花だった、どの位だったか覚えていないが月曜から土曜日まで毎日飲みに行っても取りあえず給料が持ったのだからそれほど高くはない、それでもアルコールは先にホッピーで勢いをつけたのだから「よっちゃん」の価格は押して知るべしである、
このスケジュールに付き合っていたのは私より6歳上のMさん、スポーツマンで町内の少年野球チームの監督で彼は金型職人である、さわやかで誰からも好かれる好青年、
このスケジュールに所々に入って来るのみ友達が後数人、本当は毎日付き合いたいのだが職業がタクシーなので開け番の時だけになるのはKさん、彼が中までは一番若い
もう一人はKoさんで年齢は私より10歳くらい上だったと思うが彼はあまりスナックには行かず他の焼鳥屋や小料理屋に誘ってくれた酒の大先輩である
酒は殆ど飲まないが行くのが好きだとスナックの方だけに来ていたSさん、そして特が付く音痴のSさん、あれからかれこれ40年が経つ、
一昨年かふと思い出してよっちゃんの店を覗いてみたら若い店主になっていた、聞いたら彼は彼の息子らしい「父は3年前に亡くなって」と言う、私が知っている限り当時彼には子供が居なかったのだから時は経ったものだ、
昔の悪童たちに「連絡したら亡くなっていたってのもシャレにならないから」と年連絡を取って熱海に言って来た、
これからは出来るだけ年に一二度は会おうと言ってはいるんだが中々、また声を掛けてみようか