梟の独り言

色々考える、しかし直ぐ忘れてしまう、書き留めておくには重過ぎる、徒然に思い付きを書いて置こうとはじめる

私が間違っているのだろうか?

2010-01-14 14:31:42 | 日記
昨日NHKを見ていたら文字幕である店の記事で「大変込んでいる」と表記されていた、道が混む、大勢の人で混雑すると言う表記は「込む」では無く「混む」と表記すると思っていたのだが、今朝の東京新聞でも「込む」と書かれていた、「混雑」と言う言葉と道が混むは同義語だと思っていたが、「込む」は「入れ込む」とか「悩み込む」と言う状況で使用して、大渋滞は「道路が混雑する」から「道が混む」と言う流れで文を読んでいた、従って「町は大変込んでいる」と言う表記には違和感を感じるのは私だけだろうか、「御用達」と言う表記も「ごようたし」では無く「ごようたつ」と呼んでいるようだし(変換はどちらも出たけど最初は”御用達”が出る)「礼拝」も
「らいはい」だと思うがアナウンサーも「れいはい」と発音する、これも変換は礼拝が出る、テレビのアナウンサーの発音も結構気になる人も最近は増えて来た、流石に今は聞かないが「何気に」と言う言い回しも実に不愉快な言い廻しだ、「何気なく」と言う言葉は「楽しげに」とか「悲しげに」と言うように状態の形容をしている言葉で「何気なく」は何かをしようとするわけでなく、何となく見たらと言った意味合いのはずである、何気にでは全く意味が通らない、
イントネーションも若者言葉では非常に平板に話す、今は有る程度の年齢の方まで平板なイントネーションで話す、ある若者が「英語では言葉が上がったり下がったりは余りしない」からかっこ悪いといっていたが、イントネーションが少ない外国語圏の言葉はその代わりに非常にはっきりしたアクセントがある、破裂音と言うような発音をするので日本人だと実際の言葉全体が認識出来ない位である、お笑いタレントの流行語になった「グー!」とか戦後の「メリケン粉」などが顕著な例だろう、イントネーションをなくしてアクセントも無くすと言葉として非常に機械的になってしまう、若者が新しい言葉を使うのは何時の時代も有る、自分達ゼネレーションの言わば隠語的な使い方でありそれはそれで一過性の物だ、しかしあくまで一過性で無ければ成らないだろう、無論我々も1200年前と同じ言葉を使い続けているわけではないが時間を掛けて揉み上げて残った物でないと分化は継承されない、若者言葉を否定はしないがその言葉はその世界だけで使用し、一般社会語とは歴然と区別しないとならない