1945年8月14日夜から15日未明にかけて、米軍はB29による最後の空襲を7都市で実行した。
日本の降伏は確実だった中で、なぜ土崎は襲われたのか。
私は過剰の兵器・武器を生産したことの世論調整のために大量の武器を投廃棄したものと考えていたが、秋田魁新報の元記者の西村修氏(88)は、その答えを探し続けてきた、という。今回、秋田魁新報の記事で氏の足跡の一部を知ることができた。
氏が調査したきっかけは10年ほど前、東京の古書店で1冊の洋書を偶然見つけたことで、土崎空襲に加わった米軍の通信兵、J・スミス氏の手記だった、という。マリアナ諸島グアム基地で出撃直前に受けたブリーフィングの内容を、スミス氏は明かしていた。
「日本降伏の通告を受け取り次第、『Apple』という暗号で伝える。その時は爆弾を海に投棄し帰還せよ。」との指示であった。だが、暗号まで用意されながら、中止命令は最後まで下されなかった。
西村氏は2018年、同僚らと渡米。議会図書館などで発掘した米側資料をもとに、ドキュメンタリー番組 「『アップル』は届かず」に結実させる。見えてきたのは、終戦前夜の米軍内の緊迫した動きだった。
天皇臨席の最高戦争指導会議で10日2時、いわゆる「聖断」が下され、3時からの閣議で正式に承認され、直ちにスエーデンとスイスに向けて送信された。
8月14日日本時間午後2時44分、日本の国策通信社・同盟通信(同社は1945年解散し,共同通信社と時事通信社になった)が速報する。それには「ポツダム宣言受諾の詔書まもなく公表」とあった。
御前会議の内容はグアムにも伝わった。
秋田に向けて出撃せんばかりだったB29 140機が、一時待機を命じられた。だが約1時間後、B29は次々と離陸した。この間どんな判断が下されたかは、解明できていない。
飛行を続けながら、スミス氏は「Apple」のモールス信号を聞き逃すまいと、無線に全神経を集中させていた。一方、グアムで指揮をとる戦略航空軍司令官スパーツ氏と、ワシントンにいた上官で陸軍航空軍総司令官のアーノルド氏らとの間では、通信のやり取りが続いていた。
突き進むか、引き返すか。午後9時、スパーツ氏は念を押した。中止するなら午後10時が限度だ。しかし、副官アーノルド氏は「確実な命令がない限り、スケジュール通り」と、作戦継続が告げた。
地元秋田の記録では、空襲は14日午後10時半に始まり15日未明まで続いた。
そして約10時間後、製油所がなおも燃え続ける中で、秋田の人々は玉音放送を聞いた。
取材を重ねてきた西村氏は以下のごとく語る。
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●米陸軍の一組織だった航空軍であったアーノルド氏やスパーツ氏らは、独立した空軍に昇格させる野心を持っていた。そのため、最後に力を誇示したかったのではないか。
●グアムと秋田との往復約6000KmはB29の最長飛行距離であった。
●B29には最新型のレーダーが装備されていた。
●8月9日以降、ソ連は旧満州、朝鮮、千島列島に侵攻し、北海道や東北をもうかがっていた。石油産出地の秋田を渡さないためにも土崎空襲は必要だった。
●終戦が1日早ければ土崎空襲はなかったと、秋田市民は思ってきた。本当は終戦目前だったからこそ、土崎は攻撃されたのではないか??
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終戦前夜の7都市への爆撃の影には、航空技術の進歩、軍人の野望、戦後の冷戦をにらんだ国際的駆け引きなどなど、戦争がもつ様々な「顔」が、いや応なしに見えている。
私は不勉強にしてこういう視点で土崎空襲を捉えたことはなかった。
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