秋田市土崎に14日夜の10時半にB29が2機飛来し照明弾を落とした。
その後、15日未明まで計132機が飛来し爆撃を繰り返した。15日が終戦の日。降伏受諾の通知は14日午後11時だったという。
数日早ければ、いや数時間早ければ死ななくてもよかった人が多数奪われた。
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私は土崎空襲が終戦の前日に行われたことを知っていた。
日本石油の跡地近隣に住んでいながら、不勉強にしてこの日全国7地域に空襲がなされていたことを20年ほど前まで、知らなかった。秋田の地に心が根を張っていなかったからであろう。
改めて調べてみると以下の地域で空襲がなされていた。
昭和20年8月14日から15日にかけての空襲
■大阪府大阪市………8月14日12:30頃~午後
■山口県岩国市………8月14日午前中~午後
■山口県光市…………8月14日13:20頃~14:20頃
■山口県光市…………8月14日13:20頃~14:20頃
■秋田県秋田市土崎…8月14日22:30頃~翌15日3:30頃
■埼玉県熊谷市………8月14日23:30頃~翌15日1:30頃
■埼玉県熊谷市………8月14日23:30頃~翌15日1:30頃
■群馬県伊勢崎市……8月14日深夜~翌15日未明
■神奈川県小田原市…8月15日未明~明け方
■神奈川県小田原市…8月15日未明~明け方
土崎空襲では250人以上が死亡,200人以上が負傷した。
この頃、戦争終結について内外で対策が進められていた。
8月9日ソビエトの満州侵攻を受けて、当時の鈴木貫太郎首相は同日の最高戦争指導会議の冒頭で「ポツダム宣言を受諾する他なくなった」と述べ、
●「国体の護持」、
●「自発的な武装解除」、
●「日本人の戦犯裁判への参加」
を条件に宣言の受諾の方針が優勢となった。
議論は天皇臨席の最高戦争指導会議で10日2時、いわゆる「聖断」が下され、3時からの閣議で正式に承認され、直ちにスエーデンとスイスに向けて送信された。
また受諾方針については15日の勅語の発表まで公表を行わないことにした。
この間の時間の浪費が惜しまれる。
米国はポツダム宣言受諾の電文を傍受した。
しかしながら、日本がつけた受諾への条件に米国国内でも意見が別れ,連合国側との調整も必要であった。その連合国側の承諾の回答は11日正午にスイスに向けて打電され、12日午後0時45分に日本の外務省もこれを傍受した。
米国側は日本が疲弊し切って戦争継続が不可能である事を知っていた。
しかし、上記のごとくポツダム宣言受諾の玉音放送直前まで爆撃し続けた。
連合国の同意ができた11日正午の時点で米国は爆撃中止命令を出せたはずであるが、ぎりぎりの時点まで攻撃し続けた。
私はつい先日まで、終戦直算の爆弾投下は、兵器・武器の過剰な生産の国内世論の調整するために、ギリギリまで日本の各地に投棄・廃棄した、と考えていた。それによって貴重な人命がかなり失われた非人道的行為のひとつ、と考えていた。
しかし、今年地方紙の記事を介して必ずしもそうではなかったことを知った。
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