福田の雑記帖

www.mfukuda.com 徒然日記の抜粋です。

被爆79年目の夏(2)  広島、長崎、そしてビキニ

2024年08月10日 18時20分49秒 | 政治・経済 国際関係
 ひとたび核が兵器として用いられれば、報復攻撃が行われ、人類の生存が脅かされる。4年前に発効した核兵器禁止条約は、そんな危機意識から生まれた。

 核環境が厳しさを増す中でいくら核兵器の禁止を唱えても、実効性はあるのか、といぶかる声がある。
 だが、これまで核禁条約に署名した国・地域は国連加盟国の約半数に及ぶ。近年、国際社会で存在感を増す新興・途上国、いわゆるグローバルサウスが多く名を連ねる。それらの国々は大国の論理で自分たちが左右されることを嫌っている。核問題こそ彼らにとっては迷惑千万の事項なのだ。

 いま必要なのは、危機への歯止めを強くすること。加盟国や市民社会の声で核禁条約参加を各国に促し、ほころびが目立つNPT体制を補完していくこと。
 「国家の安全保障」から、「人類の安全保障」へ、多角的な観点から核問題をとらえ直す発想が求められている。
 被爆国として今、日本がなすべきは、保有国に核の惨禍を説き、軍縮を促す外交だろう。

 今年は「ビキ環礁被曝事件」からも70年。米国の水爆実験で操業中の日本漁船が被曝した。
 広島・長崎への原爆投下による被爆、さらに核実験に伴う被曝と、日本は「3回の被曝」を経験している。

 米ソ冷戦下の1954年3月1日、米国の水爆実験で太平洋マーシャル諸島・ビキニ環礁は壊滅的な被害を受けた。破壊力は広島原爆の1000倍。巨大な「きのこ雲」が広がり、上空に吸い上げられた白いサンゴが放射性降下物となって降り注いだ。
 その時、この海域で操業していたのが、日本のマグロ漁船「第五福竜丸」。船員23人は静岡県焼津市に帰港後、「死の灰」を浴びて被曝したことが確認された。半年後、久保山愛吉さんが40歳の若さで逝った。

 これを機に原水爆禁止を求める国民運動が起き、その訴えは半世紀以上をへて国際社会へ広がり、核兵器禁止条約を生んだ。歴史を顧みれば、ビキニ事件は「反核・非核運動の起点」だった。

 70年を刻む3月、思いを継ぐ遺族ら日本の市民が、現地の首都マジュロで追悼式典に集った。被曝した島民は健康被害に苦しみ、老いて多くが亡くなった。汚染された島々は、いまだ元に戻っていないと言う
 日本にも救済されないままの人たちがいる。ビキニ事件当時、同海域では第五福竜丸のほかにも延べ1000隻近くの漁船が操業していた。だが、政府は米側からの見舞金で政治決着を図り、被曝の影響を否定して健康調査もしなかった。高知県の元船員らが国に補償を求めて起こした裁判がいまも続く。

 すべての核被害者の先頭に立ち、核廃絶への道を切り開くのは被爆国・日本の使命である。

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