小田原駅から歩いて15分程の小田原城三ノ丸のあった本町に古い鰻屋がある。店名は家紋の柏と初代又次郎の名を取って「柏又・かしまた」という。開業して百四十年ほど経つという。古地図をみると店の場所は丁度小田原城外堀の東南端付近になる。小田原城の廃城は明治三年(1870)、それから城内の一部や堀を埋立てして民間に払い下げられた。小田原城絵図(明治図)には城内の一部や堀の中に分筆線と地番が記入されていて、民間に払い下げ、田畑などに転用された経緯がわかるという。古い建物の玄関を入ろうとしたら、横の市松模様のガラス戸のある建物から声がかかり、そこは座敷とテーブル席があり、ガラス戸がレトロな雰囲気をかもしだしていた。
1回目は子供を連れて行った。親の見栄で一番高い松の鰻重を頼んだ。小田原の他の鰻屋と比べてかなり甘みを抑え、古くから続く味を伝えているような感じだった。
一週間程経って、また柏又を訪ねた。今度は家人と行ったので竹の鰻重を頼んだが、竹は切らしているというので梅の鰻重を頼んだ。竹と梅の違いは判らなかったが、多分大きさが違うのだろう。左:松重 右:梅重
きじ丼と鳥わさ
トマトサラダ
ふっくらと焼き上がっており、辛めの味も申し分なかったが、続けてこの店に行ったのは、最初に行った時、菊池寛の色紙もさることながら、目に付いたのがチョット色っぽい絵だった。
この絵を撮りたくて再訪した。「男難師 垢石」とあり、女性がうなぎを捕まえようとしている絵で、最初、この絵も垢石が描いたと思っていた。写真を拡大したら絵は佐世男と云う人の作品だった。
垢石(こうせき)は釣り人の間では有名で、本名佐藤亀吉、号は鮎が好む水中の石の表面につく水コケの「垢」から採り、勤めていた報知社の記者から釣りなどのエッセイストとして独立、雑誌「つり人」の初代編集人となっている。昭和16年の熊野川の鮎釣りから始まる「たぬき汁」は有名。どうゆう経緯で柏又の絵が描かれたのか不明ですが、小野佐世男は現代女性風俗を描いた漫画家で報知新聞に在籍していたことから佐世男は垢石の後輩にあたり、酒匂川か早川に鮎釣りの帰りにでも柏又に寄り、頼まれて一筆書いたのだろうか。この絵が載っている平成25年暮れから翌年1月に川崎の岡本太郎美術館で開催された小野佐世男展の図録をお店でみせて貰った。解説に佐藤垢石書、小野佐世男絵「男難捕」とあった。
「管仲随馬」という四字熟語がある。中国戦国時代の思想家、韓非子「説林・上」に、中国の春秋時代、斉国の桓公の名宰相といわれていた管仲が戦いから帰るときに道に迷い、老馬を放ち、後についていくと馬が道を見つけ斉に戻ることができたという故事からできた熟語で「管仲馬に随う」とも読むという。
管仲、隰朋從於桓公而伐孤竹、春往冬反、迷惑失道、管仲曰「老馬之智可用也」乃放老馬而隨之、遂得道 。行山中無水、 隰朋曰「蟻冬居山之陽、夏居山之陰、蟻壤一寸而仞有水」乃掘地、遂得水。以管仲之聖、而隰朋之智、至其所不知、不難師於老馬與蟻、今人不知以其愚心而師聖人之智、不亦過乎。
管仲は聡明にして隰朋は博識であったが、それでもわからないことがあれば、老馬やアリを師と仰ぐことをためらわなかった。 いっぽう人々は、愚かなこころをもちながらも、聖人の知恵を師と仰ぐことを知らないでいる。 なんと間違ったことではないか。(漢籍国字解全書先哲遺著韓非子国字解上巻)
柏又にある絵は韓非子の「不難師於老馬與蟻」から「不難師」の言葉をもじって「男難師」と書いたのではないだろうか。何と訓読みするのか解らないが、鰻を捕まえるのは男性を師としても難しいと、ちょっとエロチックな絵に仕上がっている。お店で働いていた女性の若かりし頃を想像すると、この絵の女性に似てきたから不思議である。
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