大佗坊の在目在口

見たり、聞いたり、食べたり、つれづれなるままに!!

静岡紺屋町 多可能と浮月楼

2018-07-05 | 

静岡では対照的な二つの店で食事をした。しかも多可能(たかの)と浮月楼は道路を挟んで向かい合っている。
  
居酒屋多可能は静岡の吞ん兵衛で知らない人は居ないと云うくらい超老舗有名店で、大正時代から続いて百年近くなるという。開店は午後4時半、予約して開店10分前に店に着くと、まだ暖簾もかかっていないのに入って行く。常連さんみたいな人に付いていくと、もうカンター、座敷、テーブルに客が座っていていたのには、ビックリして、店内の写真を写すところではなかった。すぐ満席になる。殆どが勤め人みたいな人が、何で5時前に飲み屋に集まれるのか不思議になる。
突き出しと一緒に出てきた醤油受けに葵の紋が、さすが徳川の城下町だと思う。カウンターの上の大皿料理にある貝の塩ゆでをみていたら、少しずつ混ぜましょうかと声を掛けてくれた。ながらみ、海つぼという貝だと云う。関東で云うシッタカやバイ貝みたいだけどよく判らなかった。ビールで落ち着いたあと、焼酎の緑茶割り、「静岡割り」を飲んでみた。緑茶が小さなポットで出てきたので驚く。料理も美味しかったが、この店の客への気遣い、接客が親切でかなりの好印象で人気店なのも納得する。
 
 
 
 

多可能の真ん前にあるのが、徳川慶喜は戊辰後の明治二年、謹慎していた宝台院から駿府紺屋町の代官屋敷跡を改造して隠居所としたが、屋敷近くを東海道鉄道が開通するのを嫌ったのか、開通の前年の明治二十一年に駿府城北西の西草深に転居している。紺屋町屋敷跡を明治二十三年、市内の資産家たちが市より払下げを受け、のちに料亭として開業したのが浮月楼で、大正十年発行「静岡案内」に「市内料理店二十三戸、飲食店三百四十九戸あり、浮月楼、求友亭、佐の春を一流として」と紹介され、今でも静岡駅から歩いて3,4分の場所に千坪弱もの庭を持つ料亭が残っているのが凄い。浮月楼には庭とコースの料理に入っている「慶喜好みの豚八丁味噌煮」がどんなものか知りたくて訪ねた。
 
 
 
庭園自体はどうのこうのという事はなかったが、庭の各所に濡鷺型、善導寺型と変わった型の燈籠があつた。パンフレットに菊花紋燈籠、三日月型燈籠もあるとあったが気が付かなかった。
 
 
 
 
 
 
館内に「萬事莫如花下酔百年渾似夢中狂」と云う慶喜の書があった。

謹慎後、慶喜はどんな夢をみていたのだろうか。十年ほど前、小田原で「進退周旋必於理合出處行蔵一以義決」と書かれた慶喜の晩年の書が見つかった。進むか、退くか、行動するときには必ず理に合ってなければならない、行いは義をもって決めろという。慶喜は自らの生涯を「信念を貫き、恥じるところがなかった」と振り返り、理にかなった一生だったと思っていたのだろうか、それとも明治維新時の行動を正当化する言い訳にしたかったのだろうか。

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