大佗坊の在目在口

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修善寺 源頼家墓と十三士の墓

2019-07-11 | 

伊豆修禅寺本堂と山門を結んだ延長上桂川の対岸、直線で約200mに対面して、尼将軍政子が鎌倉二代将軍頼家の冥福を祈るため経堂を創建したという指月殿と同じ源氏山公園に源頼家の墓がある。
 
 源頼家墓前の供養塔は元禄十六年(1703)、頼家公五百回忌に、時の修禅寺住職が建てたと伝わる。増訂豆州志稿に「五輪塔高三尺余(約90cm)、墓前に元禄十六年五百回忌辰、建設せる石標ありて征夷大将軍左源頼家尊霊と刻す」とある。又、日本伝説叢書によると「征夷大将軍左源頼家尊霊、右に元久元年、左に甲子七月十八日と三行に刻し、側面に元禄十六癸未暦當五百年忌 修善寺現住筏山智船代立之」と刻されているという。今は苔に覆われ、まったく判読できなが、頼家墓は供養塔裏側にある二基の小さな五輪石塔だと墓傍の説明にあった。
 
石標の裏を覗いてみると、五輪塔が三基あった。台座のある五輪塔に挟まれて台座のない小さな五輪塔が置かれていた。いつから二基から三基に増えたのだろう。伊豆市の観光サイトによると「三基あるうち真ん中が頼家、両側が側室の若狭の局(わかさのつぼね)とその子一幡(いちまん)のものといわれています」とある。いったい誰がそんなこと言っていたのだろうか。
 
公園でウグイスが盛んに鳴いていた。冥途の使いのホトトギスでなくてよかった.
 
明治三十一年発刊の修禅寺新誌に「桂水の南丘経堂の左側に在り、即一小石の五重塔を立てて墓印とせり。其上に假龕を構えて之を庇い塔前に又三尺許の楕円石を植て」とあり、元禄年間、江戸人の立てたものだという。「筏山智船代立之」というのはこの事か。同じ広場の東側に十三の石塔が並んでいる。
 
伊豆市観光情報サイトに十三士の墓として「鎌倉幕府2代将軍・源頼家が暗殺された後、家臣13人は謀反を企てたが発覚し殺害されたとも、殉死したとも言われています。当初墓は、南町公民館上の御庵洞にありましが、平成16年(2004)の台風で墓の裏山が崩落したため、現在は源氏公園の中に移設されています」とあり、増訂豆州志稿にも「御庵洞ニ石塔十三アリ故ニ称ス傳云元久元年源頼家害ニ遇ウ時殉死ノ士ヲ埋葬ルト」とおなじような記述がある。修善寺在の岩城魁著、修禅寺新誌御庵洞の項に「渓南塔の峰の麓にあり、古墳十三列立す。皆石層塔にして源公と同製の物なり」とある。明治二十七年に書かれた桂谷紀聞にも「十三塚、その地御庵洞と呼び、古墳十三存す。皆石層塔を以て標と為す。塔の造り古様にして、すこぶる公の墓に類す」とある。何時のころから十三塚が十三士墓に変わったのだろう。気になるのは、十三士の石塔と源頼家墓と云われる石塔が似ていないのと、十三の宝篋印塔のうち大きさや、笠の隅飾の角度から左の五基、中央の五基、右側の三基とだいたい三グループに分かれ、製作の年代も異なると思う。どこから十三もの石塔を集めてきたのかという感じで、一体、どの石塔が古くからあったのだろうか。
 
十三という数も気になる。柳田国男の「石神問答」「十三塚」と「塚と森の話」を慌てて読み直した。全国に十三塚と称される地名や塚が列挙されていて、全国に数多くあるのに驚く。

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