大佗坊の在目在口

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会津藩蔵版印・会津秘府印と魁星印

2012-05-09 | 會津

前回、蔵版と藩版との違いについて書いたが、出版の権利について「物の本」によく享保以降という言葉が出てくる。これは享保六年(1721)幕府は明暦三年に布告した私党忌避の禁を解き、諸商人仲間の活動を公認して、書物屋仲間に諸色新刊書取締の布告を出した。これによって「仲間吟味」の制度が確立され、翌年十二月、町奉行大岡越前守から新板書物の取締の布告が出され、この条項が幕末まで出版物取締の基準となった。これによって出版書籍の奥書に作者及び板元の署名がなされ、出版する権利を有する者が明確に表示され、その後、京都・大坂・江戸の三都間の書肆でも統一され「板株」の権利が確立されていった。
(上・内藤書肆印行 東京都立図書館蔵書) (下・会津藩蔵版)
 
 
 
一方会津藩では藩内に開版方を設けて出版を始め、寛政十一年(1799)には藩校、日新館の造営を開始、そのなかに開版方を学校奉行の管理下に属させて書籍を印行させたが、勘定は別会計として、印行費用は大抵五年賦にて償還し終り、後には書籍の売却純益を以って事を弁理したという。しかし国中で売却するには薄利にして、殆ど利のないものもあったが、天保十四年開版の四書輯疏は江戸での販売も多く、書肆は幾百部でも引受、その純益も多かったという。日新館では開版方任役二人、開版方勤二人、摺仕立方四人で彫刻の職人は家人給士の内から選抜し、料紙漉立の役は他に任命されている。会津藩で出版された書目は、漢籍本から俳書まで多枝にまたがっており、これらの出版書は実費で会津領内士民に頒ち、一部は藩外へ印刷を依頼して刊行している。一部の書は初め会津で印行され、後に京都において再刻されている。これらの書籍を三都で出版した書肆、享保以後板別書籍目録・享保以後江戸出版書目・徳川時代出版者出版物集覧などとぶつければ簡単に会津藩蔵版と魁星印、会津秘府との関係が判明するかと思ったが、大きな間違いだった。蔵版と藩版とで実質出版者を特定するのは難しく、藩版には出版時時期、出版地、出版者といった刊記が全くない無刊記であり、しかもこれは藩蔵版の特徴にもなっている。そうすると藩蔵版に蔵版印や魁星印、会津秘府を捺す意味はなんだったのだろうか。初めは藩版として刊行しておいて、後にはその板木を製作者である版元に下げ渡してその店の刊行物として、奥付にもその書肆名を表して売り出した例もすくなくないという。藩内での使用には藩や日新館の蔵書印があれば十分で、日新館の講義で使用する漢籍本にベタベタと種々の朱印を捺す必要はないわけで、今、残されている会津藩蔵版や日新館蔵版の漢籍本の多くは実費で会津領内や三都の書肆で販売された書籍ではないのか。そうすれば書肆で押印されたという魁星印も説明が付き、会津藩蔵版は藩蔵印、日新館蔵版は会津秘府印を押印して区別して、さらに一部の書肆で販売した書籍には魁星印が捺されたのではないだろうか。
(会津藩蔵版印)
 
左・会津秘府印         右・日新館蔵書印
 
 
藩と出版本が重なっている書肆に京都・壽文堂武村市兵衛、江戸・尚古堂岡田屋嘉七、須原屋新兵衛、須原屋茂兵衛などがあるが、いずれもどんな魁星印を使用していたか漢籍本を実際に見る機会が極端に少なく分からなかった。(書肆・奥書)
 
 
 
高橋明彦氏の「新発田藩版とその原版」によると新発田藩校道学堂には御版行方という出版局があり、道学堂関係役人六十一名の内、御版行方は四十二人にのぼるという。江戸書籍商史に「海国兵談」の出版費用が載っていた。「海国兵談」十六巻を紙数三百五十枚・八冊造で千冊製本するとして、総費用の明細は、紙一枚彫賃四匁五分で三百五十枚一貫百五十目、金にして二十六両一分。紙代が八千帖で六貫八百目、金にして百十三両一分と銀五匁。表紙が二貫、金にして十両二分と銀五匁。縫糸代一部六分五厘で、千部で六百五十目、金にして十両三分。摺賃一部に付四分、千部で六百五十目、金にして六両二分と銀十匁。仕立賃一部につき一分、千部で一貫目、金にして十六両二分と銀十匁。外題料全部八冊に一分ずつ、千部で百目、金にして一両二分と銀十匁。八冊本千部で、〆て銀にして十二貫五百二十五匁、金に直すと二百八両三分と思ったより費用が掛っている。ちなみに板刻は一人で彫る所、紙一枚に大概一日半かかり、海国兵談の総枚数三百五十枚を一人で彫れば、休みなしで九百日掛る計算になる。本の制作は思った以上に大変な事が判った。5月の連休に斗南藩の藩校、斗南日新館があったむつ市の円通寺を訪ねた。教科書の漢籍本は会津の日新館から運んだという。残念ながら現地で四書集注、四書輯疏の現物を見ることは出来なかったが、斗南日新館蔵印もあるという。結局、会津藩蔵版印と秘府印、さらに魁星印との関係を明確にすることが出来なかった。こんなことは、漢籍本の世界では当たり前の常識なのか、分からず、全くの見当違いでなければいいのですが。

蔵版と藩版 

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