大佗坊の在目在口

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鎌倉 西方寺跡

2019-10-23 | 東海道沿線

盛岡の聖寿寺にある南部家墓所の最上段の墓域に初代光行(雲樹院)、九代祐政(成就院殿)、十一代信長(源性院殿)、十二代政行(了智院殿)のあまり古さを感じさせない四基の墓石が一列に並んでいた。
 
始め、南部家の二代から八代までの墓は何所に在るのだろうと思ったが、十代茂時の墓は藤沢の游行寺に在ったのを思い出した。
  
寛政重修諸家譜によると九代祐政、十二代政行は成就院に葬る。十一代信長は源性院に葬るとある。明治後期に南部家初代光行から四十一代利恭までの知事職辞退までを編纂した「南部史要」によれば、十一代信長は南朝方の陸奥守北畠顕家に味方して、北朝方の高師直の軍と和泉国(大阪府堺市)石津の戦いでに敗れ、顕家と共に石津で戦死とも、陸奥に帰る途中で襲われ戦死ともいわれ、どこで亡くなったかはっきりしてないが、法号源性院殿天岩秀公、成就院に葬るとある。初代光行については、建保三年(1215)、鎌倉において薨ず、葬儀は甲州において行い、法号雲樹院昭山輝公と云う、とあり埋葬場所の記載はない。初代光行の墓が盛岡聖寿寺に何故あるのか、また寛政重修諸家譜記載の成就院とはどこにあったのか疑問に思う。

大正十年十一月十一日の岩手日報の記事に盛岡聖寿寺で南部家光行の墓前祭が行われたとあった。大正時代に鎌倉極楽寺付近の廃蹟された寺の跡地から、南部光行、祐政、信長、政行の墓と伝えられる五輪塔四基を原敬が息子に命じて聖寿寺に移設させたという。残念なことに、原敬は大正十年十一月四日、東京駅で中岡艮一に暗殺され、この墓前祭に参列することは出来なかった。五輪塔を発掘した畑の所有者の自宅は極楽寺の塔頭西方寺の跡だという。極楽寺古図に西方寺が描かれていた。地図で極楽寺切通を眺めていたら、極楽寺切通を挟んで、西方寺跡の反対側(南側)に成就院というお寺があるのを見つけた。聖寿も成就も似たような読み方でなにか関係があるのだろうか。
「Googleマップ」(鎌倉極楽寺界隈)
鎌倉の極楽寺に出掛けた。
 

 
江ノ電極楽寺駅を出ると、すぐ江ノ電唯一のトンネルで明治四十年(1907)の建設当時の原型を留めている「極楽洞」がある。古い極楽寺絵図に、このトンネルの小山の南側で、今の極楽寺切通との間に西方寺が描かれている(地図上L・m・ancienneの近辺)。極楽寺駅を出て、極楽寺切通の右側に上杉憲方墓があった。
 
「極楽寺門前ノ直路傍ノ畝地ニアリテ高サ九尺五寸ノ多重塔ナリ上杉憲方ノ墓ト傳フ傍ニ同形ノ塔及五輪塔数基アリ」国の史跡に指定されている。教育委員会説明に「この場所はかって西方寺と呼ばれる寺院の一角であった」とあり、「上杉憲方の墓と伝えられる安山岩製七重層塔1基を中心に、その妻の墓塔と伝えられる疑灰岩製層塔1基と、疑灰岩製五輪塔4基、その他五輪塔の残欠が散在する」、また「塔全体の形から、13世紀前半頃のものと推定される」という。この場所が西方寺の一角だったとすれば、西芳寺の寺領は切通の左右にまたがった広い土地だったことになる。
 
 
関東管領だった上杉憲方が亡くなったのが応永元年(1394)とすれば、南部光行の死より百八十年も後の話になる。上杉憲方墓の製作時期が13世紀前半頃のものとすれば、一世紀もの差があり、南部家の石塔は誰が建てた石塔なのだろうか。

鎌倉成就院に向かう。

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1 コメント

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西方寺縁起(横浜に移転) (ハラ)
2024-06-01 10:06:03
https://saihouji-yokohama.com/engi/
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