大佗坊の在目在口

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犬山 青龍山瑞泉寺

2017-04-10 | 

瑞泉寺とその塔頭寺院の龍泉院、龍済寺、臨溪院、輝東寺、臥龍寺の五ヶ寺は、東之宮古墳のある白山平山西の麓に連なっている。瑞泉寺は臨済宗妙心寺派の古刹で、日峰宗舜禅師が創建、勢州朝熊(伊勢朝熊山の頂に弘法大師空海は天長二年(825)、真言密教の根本道場、勝峰山金剛證寺を建て、本尊に福威知満虚空蔵菩薩を祀った。
金剛證寺の中興の祖、仏地禅師が真言宗から臨済宗に改宗され、臨済宗南禅寺派の寺とした)の虚空蔵菩薩を勧請して御本尊として、本寺と称した(本寺の称、雪江和尚の法語にもあり信長の瑞泉寺に与えた朱印状「当寺之事、為関山派本寺之條、早再興尤候云々」にもある)と青龍山瑞泉禅寺記にある。
臨渓院でお寺の方なのか、檀家さんなのか分からない女性が、ここは応仁の乱の時、臨済宗大本山妙心寺が戦火で焼失したとき、ここを一時、本山として京都が復興して妙心寺も復興したとき、本山を京都に戻した格式のある寺で、妙心寺住職が替わった時には挨拶にくると教えてくれたのは此のへんの事だろうか。
妙心寺は開山関山慧玄のあと六世拙堂宗朴のとき、応永六年(1399)足利義満により宗朴は幽閉、寺領は没収、寺名を龍雲寺と改めさせられ、妙心寺は中絶したが、永享四年(1432)妙心寺が返され、瑞泉寺の日峰禅師が妙心寺を中興した。妙心寺の塔頭や末寺は龍泉派、東海派、霊雲派、聖沢派の 四系統に分かれており、これを「四派」と呼ぶ。この四派は妙心寺六祖雪江宗深の法嗣である景川宗隆(龍泉派)、悟渓宗頓(東海派)、特芳禅傑(霊雲派)、東陽英朝(聖沢派)の 四名を派祖としている。瑞泉寺は明治に至るまでこの四派輪住の寺であったという。(写真・京都妙心寺)
 
 
瑞泉寺の創建から二百七十年余あとの貞享三年(1686)、仁渓彗寛(瑞泉寺塔頭龍済庵住職)により著わされた瑞泉寺の縁起、寛延四年(1751)、万端彗愚により校正された「青龍山瑞泉禅寺記」に、庵をと提供された土地をみると「巖樹嵐を聯ねて、視聴幽邃なり、山に水無らんことを恐れ、沙弥玄端をして、攸(ところ:水が細長く流れるところ)を相さしむ。遽かに清水有りて、巖謼(岩の隙間)に湧出す、師就いて泉を見るに、泉溢れて池となる、池中須臾に龍有りて現る。其色青色なり、遊戯して天に登る。師独り見て、余は見ること能わず。乃ち草を其所に挿んで、叢林の制を始む。山を青龍と名づけ、寺を瑞泉と号す」(日比野晃訓読「青龍山瑞泉禅寺記」より)とある。
名鉄犬山線の踏切を渡った所に立派な山門がある。犬山城の東側、搦手門だった内田御門を移築したものだと云う。
 
 
 
 
  
瑞泉寺専門道場と毒語心経提唱の表札が掲げられた中門を潜ると、古そうな鐘楼があり、塵一つない綺麗に手入れされた植栽と石畳みの正面に本堂がある。禅宗の修行道場寺院特有の凛とした雰囲気を漂わせる。庫裡で御朱印をお願いするためインターホンを鳴らすと、遠くから足音を立てて若い僧が飛んできた。やはり修行道場だけの事はあった。

参考
瑞泉寺歴代住職:開山日峰宗舜、二世不明、三世義天玄詔、四世雲谷玄祥、五世桃隠玄朔、六世雪江宗深、七世景川宗隆、八世悟渓宗頓、九世、特芳禅傑、十世東陽英朝

妙心寺歴代住職:妙心寺開山関山慧玄、二世授翁宗弼、三世無因宗因、四世雲山宗峨、五世明江西堂(?)、六世拙堂宗朴、七世日峰宗舜、八世義天玄承、九世雪江宗深、十世景川宗隆、十一世悟渓宗頓、十二世特芳禅傑、十三世東陽英朝


犬山 瑞泉寺塔頭寺院

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