享保十二年(1727)、兵学者大道寺友山重祐が表した落穂集に
保科中将殿之事とあり、正之公生母淨光院の記載がある。
正之公生母淨光院は、北條氏小田原没落のあと、
徳川家御奉公の願をだしたが叶えられず、浪人となった
北条氏直の近侍に神尾某と云う者の一人娘(静・志津)。
この娘を台徳院乳母の井上主計の御母(大姥局とは別人)に仕えさせた。
子細有り懐妊し月も満ち、親元へ戻り慶長十六年五月に男子が生れた。
落穂集には、神尾一族はこの男子を神田白根町町屋で三歳まで育てたとある。
この子が徳川秀忠の四男、幼名は幸松、のちの会津中将正之公。
会津藩諸士系譜に神尾氏、土津様御七歳之時、
淨光院様御家元格段之訳以御小姓ニ被召出候とあり、
淨光院の家元という格段の理由で保科正之公の小姓となり高遠に従臣している。
もう一人の台徳院乳母、大姥局は今川氏家臣岡部貞綱の子で穴山梅雪家臣、
川村善右衛門重忠の妻。
土津様(正之公)御七歳の時、もう一人の御小姓に召出したのは、
有泉新左衛門、曽祖有泉大学勝重は穴山梅雪の家臣。
幸松殿七歳の時、生母淨光院母子共に高遠に引越される。
淨光院同地にて五十二歳で病死、一旦高遠に葬られるが、
正之公が会津藩主となった後は会津浄光寺に改葬される。
実家の神尾氏は代々、会津藩士として会津松平家に仕えた。
保科中将殿之事とあり、正之公生母淨光院の記載がある。
正之公生母淨光院は、北條氏小田原没落のあと、
徳川家御奉公の願をだしたが叶えられず、浪人となった
北条氏直の近侍に神尾某と云う者の一人娘(静・志津)。
この娘を台徳院乳母の井上主計の御母(大姥局とは別人)に仕えさせた。
子細有り懐妊し月も満ち、親元へ戻り慶長十六年五月に男子が生れた。
落穂集には、神尾一族はこの男子を神田白根町町屋で三歳まで育てたとある。
この子が徳川秀忠の四男、幼名は幸松、のちの会津中将正之公。
会津藩諸士系譜に神尾氏、土津様御七歳之時、
淨光院様御家元格段之訳以御小姓ニ被召出候とあり、
淨光院の家元という格段の理由で保科正之公の小姓となり高遠に従臣している。
もう一人の台徳院乳母、大姥局は今川氏家臣岡部貞綱の子で穴山梅雪家臣、
川村善右衛門重忠の妻。
土津様(正之公)御七歳の時、もう一人の御小姓に召出したのは、
有泉新左衛門、曽祖有泉大学勝重は穴山梅雪の家臣。
幸松殿七歳の時、生母淨光院母子共に高遠に引越される。
淨光院同地にて五十二歳で病死、一旦高遠に葬られるが、
正之公が会津藩主となった後は会津浄光寺に改葬される。
実家の神尾氏は代々、会津藩士として会津松平家に仕えた。
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