大佗坊の在目在口

見たり、聞いたり、食べたり、つれづれなるままに!!

京都 宇治川

2018-12-14 | 

京都のjr宇治駅から宇治川約3k上流に昭和39年(1964)、完成した天ヶ瀬ダムがある。2013 年の台風18号による豪雨で天ケ瀬ダム放流によって、宇治川堤防は破堤寸前の状況に追い込まれた。2018年9月、西日本豪雨のダム緊急放流により下流域が浸水し、多数の死者を出した。豪雨等で天ヶ瀬ダムが決壊した場合、京都や大阪で死者数十万人の可能性があったと云う。専門家が選ぶ「危険なダム ワースト10」の第一位がこの天ケ瀬ダムだという。宇治川は琵琶湖から流出する瀬田川を源流として、このダムからわずか23,4町離れた場所で八百年も前に、平等院の北東で木曽義仲の軍勢と源義経の軍勢が本当に宇治川で戦った。天ケ瀬吊橋やダム手前の白虹橋(はっこうばし)の名に引かれてひび割れのダムを一目、見に行った。
 
 
思った以上に水量があり、サイレンでも鳴ったら大変なので早々に退散して興聖寺に寄ってから宇治神社、宇治上神社に向かう。宇治神社は宇治橋上流、宇治川の右岸にあり、応神天皇の子、菟道稚郎子命 (うじのわきのいらつこのみこと)の死後、その神霊を祀ったのが始まりという。菟道稚郎子は異母兄・大鷦鷯尊(後・仁徳天皇)に皇位を譲るために自殺したと言われている。この辺りは応神天皇の離宮(桐原日桁宮きりはらひけたのみや)跡で菟道稚郎子の住居跡だったとも伝わる。
 
 
参道から階段をあがると桐原殿(拝殿)があり、その奥に桧皮葺きの社殿がある。本殿の前に茅の輪が見えたので、少し早いが「年越しの祓」で六ヶ月の厄を京都に落としていこうと思ったら、「茅の輪」ではなくて「智恵の輪」で一回、潜れば良いとあった。輪は稲で出来ており、「稲穂の実のように知恵を授かる」という意味だそうです。学生が団体でお参りしていたのが納得する。
 
境内の横から宇治上神社に向かう途中、源氏物語の宇治十帖に出てくる八ノ宮のモデルといわれる菟道稚郎子の住居があったという伝承からか早蕨之古跡の碑があった。文化庁国指定文化財等データベースによれば「宇治上神社は宇治川をはさんで平等院と向かいあう小高い丘の麓にある。この境内から少し離れたところに宇治神社があり、古来この二社の創始についてさまざまの説が唱えられてきた。『延喜式』神名帳に載せる「宇治神社二座」をこの二社にあてる説、宇治上神社を本社または上社、宇治神社を若宮または下社と称し、両社を合わせて離宮社と呼ぶ慣習などがあった。創始は不明であるが、平等院鳳凰堂の完成(1053)ののち宇治の地が貴族の参詣によってにぎわい、当社の社殿も整えられるようになったものらしい」という。
 
 
 
 
 
本殿は神社建築として最古の遺構だといい、本殿の前にある拝殿とともに国宝に指定されている。祭神は応神天皇、菟道稚郎子、仁徳天皇と伝える。謀反を起こした大鷦鷯尊の兄を殺した菟道稚郎子は宇治天皇だったのか、また天皇の継承を巡って自殺ではなく大鷦鷯尊(仁徳天皇)に殺されたのではないか、興味は尽きない。拝殿の前に円錐形の砂が盛られていた。上賀茂神社にある依代としての盛砂・立砂と異なり、「清め砂」といわれ、毎年9月1日の八朔祭に氏子により奉納され、境内の清めの砂として1年間盛られ続けられるという。

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