興聖寺の参道がNHKテレビドラマのエンデングに使われた。四姉妹が和服で歩く姿は風情があって印象に残った。今年6月の初夏に興聖寺を訪ねる予定で京都に出かけたが、大阪府北部地震で新幹線に8時間も閉じ込められ、訪問を断念した。今年は暖かかったので12月でも紅葉が残っているかなと興聖寺を訪ねる。
興聖寺は天福元年(1233)、曹洞宗宗祖道元禅師は京都深草に禅道場を建立、観音導利院興聖宝林禅寺を全国最初に修行道場として創立、道元禅師が越前領主波多野義重の勧めで越前へ赴いた後、興聖寺は応仁の乱(1467)や兵火に遭い一時廃絶したが、寛永十年(1633)、淀城主永井信濃守尚政は道元禅師開創になる興聖寺の廃絶を惜しみ、正保二年(1645)、万安英種禅師を中興開山に請じ、慶安元年(1648)、伏見城の遺構を用いて本堂、開山堂、僧堂、庫院、鐘楼、山門などの諸堂を建立整備し、道元禅師を開山とする仏徳山興聖寺を現在地に再建したという。興聖寺は越前永平寺、能登総持寺、加賀大乗寺、肥後大慈寺と併せて「日本曹洞五箇禅林」と称された。興聖寺は宇治橋から約800m、宇治川の右岸にあり、左岸には平等院と対している。宇治橋から15分ほどで興聖寺の山門につづく参道の入口に建つ総門と云うか石門に着く。
緩い坂道の続く参道は両側の側溝を流れる水のせせらぎの音がまるで琴の音のように聞こえてくることから琴坂と呼ばれるようになったという。季節柄、水量が少なく、残念なことに琴の音を聴くことが出来なかった。
境内は山門、法堂(説法道場・本堂)が直線上にあり、法堂の左右に、僧堂(坐禅堂)・庫院(台所)を構える「禅宗様伽藍配置」で、山門側には東司(とうす・トイレ)と浴司(よくす・浴室)がある。
僧堂の内部まで入れたのは初めてだった。伏見挑山城の遺構を用いて建立されたという本堂の一部に、慶長五年(1600)、関ヶ原合戦の前哨戦で鳥居元忠が守る伏見城が落城、自刃した武者たちの,血痕の残る廊下板を天井板にしたという血天井があった。何時頃から血天井と言い出し、また400年以上も経った血痕色調は何色に変色するのだろうか。
寛延三年(1750)、道元禅師五百回大遠忌に塔頭の東禅院の大悲殿を移築した、「老梅庵」の名がある開山堂の堂内には竹椅子に座る道元禅師の等身大の木像が安置されており、御真像体内には御霊骨が納められている。
中庭に十三重塔があった。説明によると、弘安九年(1286)、僧叡尊により宇治橋の架け替えに際し供養塔として建立され、その後、自然災害等により再建が繰り替えされ、現在の宇治川中の島にある塔は明治四十一年に再建されたもので、破損の為使用されなかった旧相輪と九重目の笠石を興聖寺の庭に移したものという。中庭から北側の外に碑と多くの宝篋印塔がみえた。
この碑は永井直勝の長男、尚政が慶安二年(1649)、永井直勝頌徳碑で、開山塔と開基塔(永井氏塋域)が立ち並んでいた。直勝を永井家宗家初代とすれば、二代尚政、六代直亮、八代直温らが興聖寺に葬られている。なお初代直勝は永井寺、三,四,五、七代は功運寺を菩提寺としている。
中野の功運寺と永井家累代之墓
興聖寺の「右近大夫永井月丹居士石表辤」碑文は「羅山林先生文集巻第四十一」に全文の記載がある。
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