大佗坊の在目在口

見たり、聞いたり、食べたり、つれづれなるままに!!

郵便汽船三菱会社社員 郡寛四郎

2011-03-28 | 會津

郡寛四郎は、会津藩士萱野権兵衛や郡長正の弟で明治九年に東京商船大学の

前身で岩崎弥太郎が創設した三菱商船学校に一期生として入学した。

 

東京商船大学九十年史に郡寛四郎の航海履歴が掲載されていた。

「明治五年二月ヨリ旧郵船汽船会社所轄妊婦丸ニ乗組ミ稽古人トナリ水夫ノ

業ニ従事シ同六年迄東京より大坂神戸ヲ航海ス同年五月ヨリ七月迄機械修繕ノ為

品川港ニ碇泊ス此時ヨリ見習運転司トナリ運転司ノ業ニ従事ス同八月ヨリ十二月

迄東京ヨリ大坂神戸勢州四日市港ヲ航海ス同七年正月ヨリ同年四月マデ大坂神戸間

ヲ航海ス同年五月機械修繕ノタメ横須賀ニ至ル同六月ヨリ八月マデ東京ヨリ奥州

諸港ヲ経テ箱館ヨリ羽州酒田港ニ航ス同九月ヨリ十二月マデ神戸日向細島ヲ経テ

鹿児島ヨリ琉球ニ航ス同八年一月ヨリ同年四月マデ筑前博多長崎港ヲ経テ肥後

百貫港ニ航海ス同下旬該船ヲ去リ同九年一月商船学校へ入学仕候也右姓婦丸ニ

乗組年数全三年二ヶ月」

 

明治十一年、商船学校を卒業した郡寛四郎は直ちに郵便汽船三菱会社に

二等士官として入社、翌年の明治十二年、二等運転手本免許を取得している。

 

この免許取得試験は、明治九年六月六日、「西洋型商船船長運転手及ヒ機関手

試験免状規則」(第八十二号)で、船長運転手及び機関手約定総則及び試験免状

章程の両款に分け、航洋船に施行するもので、湖川港湾内海或は海峡中に限り

運用する船は適用外とした。

 

約定総則は十二条、試験免状章程は十四条からなり、最後の章程十四条は

試験課程は三則からなり、試験免状規則追加の八条から成り立っている。

 

総則

第一条 明治十年一月一日より以後海軍諸艦を除き登簿屯数一百公称

馬力五十以上の西洋型洋船の船長運転手或は機関手たる者は何人たり

とも此規則に遵て発出したる免状を受有するにあらされは其職を

執るを許さず

第二条 船船長運転手及び機関手試験の免状を分けて甲乙両種となす即ち

本免状仮免状是なり

(甲)本免状は後に記載せる本則の條款或は内務卿の命令或は其他須

要なる順叙に従ひ試験を了りたる人に授与す

(乙)仮免状も亦後に記載せる仮則の條款に照して之を授与す然れとも

 明治十五年一月一日以後は総て之を廃止すべし

第三条は屯数と馬力について必要とする等級免状についての条項で

100400屯は仮免船長と1等運転手、400屯以上は本免船長、1等運転手と仮免2等

運転手、50~100馬力は仮1等機関士、100~200馬力は仮1等機関士と仮免2等

機関士、200馬力以上は本免1等機関士と仮免2等機関士の乗船を必要とした。 つづく

(商船教育110年記念と隅田川風景印)

 

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