大佗坊の在目在口

見たり、聞いたり、食べたり、つれづれなるままに!!

六郷満山の旅 熊野磨崖仏から両子寺

2010-12-08 | 
「国東六郷満山の拠点の一つであった胎蔵寺から三百米程登ると、
鬼が一夜で築いたと伝えられる自然石の乱積石段にかかり、この
石段を登ると左方の巨岩壁に刻まれた日本一雄大な石仏は
大日如来と不動明王であり、これらの石仏群が熊野磨崖仏である」と
パンフレットにあった。

日本一雄大荘厳と鬼が一夜で築いた石段という言葉に惹かれて磨崖仏へ。

  

入り口で竹の杖を無料で貸出ししていた。この石段、大した距離では
ないが、乱積の石段には杖は必需品だった。見栄を張らなくて良かった。
登りは20分~30分程かかるが、最後が見上げるような石段になる。
最初は何段あるのか数えていたが、乱積石段はどこからどこまでが一段
なのか分らず、途中で数えるのは断念するというか、急に険しい階段に
なり数える余裕が無くなった。石仏にやっとたどり着くと左側が大きな
不動明王、右側にやや小ぶりな大日如来に圧倒される。

 

ここにも鬼が築いた石段 の伝説が残っていた。
「紀州熊野から田染にお移りになった権現さまは霊験あらたかで、近郷の
人々はお参りするようになってから家は栄え、健康になりよく肥えていた。
その時、何処からか一匹の鬼がやって来て住みついた。鬼はこのよく肥えた
人間の肉が食べたくてしかたないが権現さまが怖くてできなかった。然し
どうしても食べたくなってある日、権現さまにお願いしたら、「日が暮れてから
翌朝鶏が鳴くまでの間に下の鳥居の処から神殿の前まで百段の石段を造れ、
そしたらお前の願いを許してやる。然しできなかったらお前を食い殺すぞ」と
云われた。権現さまは一夜で築くことはできまいと思って無理難題を申しつけ
られたのだが鬼は人間が食べたい一心で西叡山に夕日が落ちて暗くなると山から
石を探して運び石段を築きはじめた。真夜中頃になると神殿の近くで鬼が石を
運んで築く音が聞こえるので権現さまは不審に思い神殿の扉を開いて石段を数えて
みるともう九十九段を築いて、下の方から鬼が最後の百段目の石をかついで登って
来る。権現さまはこれは大変、かわいい里の人間が食われてしまう、何とか
しなければとお考えになり声高らかに、コケコウーロと鶏の声をまねられたら、
これを聞いた鬼はあわてて「夜明けの鶏が鳴いた、もう夜明けか、わしは
このままでは権現さまに食われてしまう、逃げよう」と最後の石をかついだまま
夢中で山の中を走り、一里半(六キロ)ほど走ってやっと平地に出ましたが、
息がきれて苦しいので、かついだ石を放ったら石が立ったまま倒れないのでそこを
立石(速見郡山香町)と呼ぶようになった。鬼はそのまま倒れて息が絶えた。
これを聞いた里人たちはこれで安心して日暮らが出来る。これも権現さまの
おかげと、岩に彫んだ大日さまのお加護であると朝夕感謝するようになった」
(熊野磨崖仏管理委員会のパンフレットから)

 

古くは人間の力を超えている土木工事を鬼の仕業として、あと一歩で
完成というところで、神が鶏の声を真似して鬼の計画を止めさせる
一夜工事の伝説がここにも残っていた。中世、宇佐八幡の巫女を使い、
神憑きや神降しに託して、神の言として人々に伝えたのだろうか。



    

国東半島のほぼ中央にそびえる両子山から放射状に国東の谷々は海岸へと広がり、
約28谷を六つの里に分け六郷と称し、この両子寺は六郷満山の中では中山本寺として
山岳修行の根本道場に当たり、特に江戸期より六郷満山の総持寺として全山を統括して
きた。ここも仁聞菩薩の開基との伝説が残っていた。



山門に続く石段の参道入口に国東最大級の石造の仁王像が立っている。



  

山門から護摩堂への参道

 

護摩堂で若い坊さんが「申子授け祈願袋」の講話で「子宝に
あやかりたい人は」と説明を始めたら、歳をとった婆さん連中が
ゾロゾロとお堂を出て行ったのには、不謹慎だか笑ってしまった。

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 六郷満山の旅 富貴寺から真... | トップ | 長崎大光寺 西郷四郎 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

」カテゴリの最新記事