泣血氈
2008-10-29 | 會津
今、若松城天守閣郷土博物館で明治戊辰百四十年記念の
「会津松平家と戊辰戦争」企画展を開催している。
其の中に、111cm×133cmの泣血氈の展示があった。
目録には「一ヶ月の籠城のすえ若松城の無条件降伏・開城で
終りを迎えた。その降伏の儀式の際に敷かれていたのが
この紅い毛氈である。もとは十五尺(約4・5m)四方という
大きさであったが、儀式ののちに藩士たちがこの敗戦の悔しさと
無念を忘れないようにと小さく切り取っていったと言われている」
と説明がある。
会津降伏式が行われた甲賀町通りの路上近くにある酒蔵のそばにも
同じような説明版があり、錦絵が画かれている。
お城の展示にも明治九年早川徳之助が画いた会津軍記・降伏開城の
錦絵があった。伝聞をもとに作成されたという。
緋毛氈の上に立った容保公の錦絵をみると、この泣毛氈は容保公が
その上で降伏式に臨んだと思ってしまう。そう思い込んでいた。
会津軍記・降伏開城の錦絵と太政官日誌、明治日誌(荒川勝茂)や
南紀徳川史に記載のある会津降伏式図とは敷物の位置にだいぶ差がある。
容保公が立たされたのは、薄縁(うすべり)の上。薄縁は床に敷く、
畳の形をした薄っぺらい敷物で、畳表に直接畳縁を縫い、畳より薄いこと
からこの呼び名がつけられてる。
戊辰戦争から百四十年、もうそろそろ泣血氈と錦絵を並べる紛らわしい
方法は止めた方がいいのでは。
泣血氈にいだいている会津人の心に変りないのだから。
容保公の下に敷かれていたのと、西軍側の人間の下に敷かれていたのでは大分意味合いも変わってきますよね。
「悔しさと無念を忘れないよう」という気持ちもより増すと思われます。
掲載したもので、公文書みたいなものですが、
秋月悌次郎の「泣血氈」では十五尺の西の方の
氈上に御両公が御座したとあります。
どちらが正しいかは不明ですが、
いずれにしても紛らわしい云いかたは、
止めたほうが良いのではと思います。
十五尺四方の大きさがあったかは
よく判りませんが、無地の緋毛氈です。
140年たっていますので、
色はかなり赤茶色に変色していました。