三戸から一路北上、どこをどう走っているのか相変わらず分からなかったが五戸へ向かった。車内でも話題になったが、この戸(へ)という呼び名。一戸から右回りで九戸に戻る。丁度、テレビで律令制度のあった平安時代中期、都と地方の国府を結ぶ道に約四里ごとに作られた駅家で馬を利用するための資格である駅鈴などの番組をみたばかりだったので、戸は馬の放牧地兼駅家の別名と思ったが、色々な説があるみたいで、一戸から七戸までのそれぞれの距離が概算で五里、これは昔の軍勢の往復できる距離だそうで、征服した土地を柵で囲み「柵戸(きのへ)」と呼び、順番に「一ノ戸」「二ノ戸」と呼んだともいい、また戸(へ)は、この地方の馬を九つに区画して運営した官営牧場の管理,貢馬のための行政組織だったともいわれ、ハッキリしていない。
昔、知り合いに一戸さんという姓のかたがいた。一戸さんから九戸さん、百戸さん、万戸さんのなかで六戸氏、九戸氏、萬戸氏(万戸氏は除いた)は珍しいお名前で全国でも軒数が一ケタ以下しか確認できなかった。五戸の高雲寺に会津藩士倉沢平次右衛門や会津藩家老だった内藤介右衛門信節のお墓を訪ねた。光明山高雲寺は報恩寺末寺(三戸、あと盛岡移転)で慶長二年(1597)開創、開基は木村杢助秀勝といわれている。このお寺の墓域はかなり広く、木村杢助秀勝の墓もあるという事であったが分からなかった。
内藤家の墓域の右奥に諏訪伊助妻墓があり、その隣がお婆様。一瞬衣をかぶっていたので奪衣婆かと思ったが、よく見ると衣服をきちんと着ているのでそうでもないようだ。その右側は戊辰之戦いの後、陸奥五戸に移った旧会津藩士の墓。
この墓地には旧会津藩士の墓碑があるはずなのだが、時間がなく探せなかったのは残念だった。三沢市谷地頭にある三沢市先人記念館は平成23年度、収蔵資料整理事業を実施して調査・研究により、新しく解明した内容を「新収蔵資料公開」として企画展を開催している。展示品の説明をここの学芸員のHさんにお願いした。この先人記念館にいる学芸員さんは御一人と聞いたが、ぜひ眠っている資料の解明と公開に頑張ってほしいと思う。
戊辰戦争後、陸奥への移住を強く主張、斗南藩では少参事として活躍し、民間式洋式牧場を開設した廣澤安任(富次郎)の墓所へも寄った。この墓所は昔、広沢牧場の南端に建てられたのだが場所を特定するのが難しい。記念館から170号を南下、JAおいらせ北部を通り越して、右側高野沢集会場(記念館から約1,5K)を右折(三沢市内からだと左折)、約650M左側の林を登った所に一族の墓碑が点在していた。
今回のメンバーは総員10名の大所帯。夜はむつ市で懇親会。たまたま入ったお店が斗南会津会の会員さんで旧会津藩士の子孫の方だった。初代からの家系図も見せてもらった。ここで珍しい鹿と玉ねぎの鉄板焼きをご馳走になった。初めての鹿肉だったが、柔らかく臭みもまったくなく甘目の味噌タレがよく合って、とても美味しかった。
2軒目、舟のオールや自衛隊の写真なども置いてある海上自衛隊ご用達みたいなお店に寄り道して宿に戻る。
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なくなっております。
初めてなので、昔の墓域のことは判りませんが、
左手奥はだいぶ整理されているようでした。