金前寺から徒歩3.4分の所に山号を龍華山、浄土真宗本願寺派の永覚寺に行った。境内に「浪人騒動決断白洲之址」の石碑がポツンと建っていた。
昭和39年(1964)11月に水戸浪士処刑百年忌として建立されたという。元治元年(1864)、水戸藩では尊王攘夷派と諸生派(門閥派)の対立が激化し、攘夷派は筑波山で挙兵した。幕府追討軍に那珂湊の戦いでも大敗したが、朝廷へ尊皇攘夷の志を訴えることを決し家老の武田耕雲斎を将に立て再度集結し、一橋慶喜を頼って西上した。北陸で追討軍に徐々に包囲網を狭められ、元治元年(1864)、加賀藩に降伏し、敦賀の本勝寺、本妙寺、長遠寺の三寺に拘禁となった。敦賀郡誌によれば天狗党人数は本勝寺等三百八十七名、本妙寺等三百四十五名、長遠寺九十一名の計八百二十三名となっている。幕府は天狗党追討軍総括を若年寄田沼意尊に命じ、田沼玄蕃頭(意尊)、大目付黒川近江守、目付瀧川喜太郎等を敦賀に遣わし処分を任せた。加賀藩に降伏した天狗党は、元治二年(1865)正月二十九日、敦賀において田沼玄蕃頭(田沼意次曾孫)に引き渡された。これら幕吏は、かねてより天狗党を賊党とみなしており、船町の船荷倉十六戸に押込め禁囚した。黒川近江守盛泰は幕臣、西丸留守居黒川盛徳の子で元治元年(1864)、大目付となる。元治二年二月朔日、黒川近江守の旅宿の永覚寺に仮白洲糺弾所を設け、武田正生(耕雲齋)始め浪士二十五名を呼出し糺弾した。僅か三日後の四日には二十五名中、安政六年ロシア人を暗殺した小林幸八を除いた二十四名を処刑した。この永覚寺の仮白洲糺弾所でどんな申し立てを聞いたのだろうか。暗い気持ちになって永厳寺(ようごんじ)に向かった。
参道の上を国道8号(金ヶ崎トンネルの敦賀側口)が通っている。永厳寺は曹洞宗永建寺の末寺で、号は勝載山、応永年間の草創で開基は永建寺開山少室真宗の弟子、東渓宗陽。慶応元年二月武田金四郎等百八十七名遠島を命じれ酒井家に預けられ、敦賀庫中で謹慎させられたが、翌年の慶応二年五月、流罪宥免となり、敦賀庫中より永厳寺に引移した。天満宮へ志願の筋ありと一同断髪して置額奉納の志として永厳寺に預けたという。酒井家では一同を準藩士とし、慶応三年五月には美浜町の佐柿に準藩士屋敷を新築して移している。慶応元年三月、永厳寺を始め八宗の諸寺院僧侶を集合し来迎寺五塚の前に於いて読経供養を行い、多くの人々が参詣し香花を供えたと伝える。
昭和20年(1945)7月の米軍大空襲により、山門・鐘楼を残し全ての堂宇が消失、残った鐘楼の梵鐘は、寛文五年の銘があり市文化財に指定されている。
昭和57年(1982)、開創された若狭三十三観音霊場の第1番札所でもある。
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