ウィンザー通信

アメリカ東海岸の小さな町で、米国人鍼灸師の夫&空ちゃん海ちゃんと暮らすピアノ弾き&教師の、日々の思いをつづります。

米国『今年の冬はよく雪降る冬か』事情

2013年12月15日 | 米国○○事情
風邪をひいたこなっちゃんが、早めに旅を切り上げて日本に戻ったのは正解やったかもしれん。
あの日から以降、零下の毎日が続いてる。
こないだなんか、最低気温が零下8.5℃、最高気温でも零下4.5℃やったし……。

ちょっと前に、12月やというのに、こんな暖かくてもええのかしらん、などと言うてたのが夢のよう……。

昨日はまた、朝から粉雪がはらはらと舞い落ちてきて、外の動物たちはどないしてるんやろと窓から眺めてみたら、

いてるし……ほんで食べてるし……。


せっせとホリホリ。


カエデ爺さんのコブに乗っかってカリカリ。


再び戻ってホリホリ。


風邪ひきなや。

ピアノ部屋の窓から見える、2軒のおうちの裏庭も、すっかり雪化粧。


どこまで積もるんやろか……。


と、明けて快晴の今日。
樹氷がとんでもなく美しい!




おむかえのポンちゃんもキラキラ!


雪はこんくらい積もった。




木肌のなまめかしさよ。




パラパラと派手な音がするので見てみると、カエデ爺さんの氷が溶けて、霰みたいに落ちている。




つららに樹氷。自然はなんてべっぴんなんやろう。
 





ほんまは、今週末に、クリスマスツリーを買いに行く予定やったけど、
たいていは野外で売ってるので、氷と雪まみれになってる木を、うちまで運ぶことになるので断念する。
それに、ちょっと風邪ひいたみたいやし。

レモン湯飲んで、じっとおとなししとこ。
日本から戻った時差ボケ解消にと、雪かきやの、網戸とガラス戸の交換やの、旦那がせっせとやってくれてる。
感謝。

メディアが封じられる⇒多くの国民が「触らぬ神に祟りなし」と次第に黙り始める⇒そうなったらオシマイ

2013年12月14日 | 日本とわたし



特定秘密法 どんな未来が?

高校生 黒田 明希子(神奈川県 16)

「知らない」のはおそろしい
ツィッターで、治安維持法が可決した1925年の、東京朝日新聞の記事を知った。
「反対の叫び空しく 治安維持法けふ生る 衆議院本会議」とある。

治安維持法とは、社会主義運動などを阻止する目的だったが
結果的に宗教団体や右翼活動など、政府批判の言論や思想が、全て弾圧の対象になったと、中学で習った。
これを機に、日本は戦争の道を歩んだ。

6日、特定秘密保護法が可決された。
「歴史は繰り返す」と言う。
戦争を経験して、平和の尊さとはかなさを知る方々が減り、戦争を知らない私たちが残される。
この法律で、私たちの未来はどう変わるのか。

7月の参院選は、投票率が、戦後3番目の低さだった。
私には選挙権がないが、成人がせっかくの権利を放棄しているのはもったいない
最悪の事態を避けるため、声をあげなければ。
手に負えなくなってからジタバタするのでは遅いのだ。


初デモで感じた自分の責任
大学生 米山 咲(東京都 21)

5日、生まれて初めて、政治的デモに参加しました。
国会議事堂前、大声で、特定秘密保護法案の反対を叫ぶ人々。
必死に主張する姿に心が動かされ、切実な思いが国会に届かない悔しさに、胸が苦しくなりました。

参加前、私は、デモに嫌悪感を抱いていました
大きな音や過激な発言、もっと冷静に抗議する方法はないのかと、いつも思っていました
しかし、実際に参加して、傍観していた自分に気づきました
受験や就職活動など、目の前のことばかりに気をとられ、
自分が社会の一部であること、私たち若者が社会をつくっていくことを、忘れていたのです

6日、東京・日比谷野外音楽堂での集会。
テレビや新聞では感じられない、廃棄への強い思いがありました。
年配者の「子供や孫のために」という言葉に、守られることに慣れきっていた自分を恥じました
知らないでは済まされません
私たち若者は、もっとこの法律に、関心を持つべきです。





秘密保護法 これで政治家は失政の責任も追及されない
金子 勝(慶大教授)の『天下の逆襲』

とうとう「秘密保護法」が、強行採決の連発によって成立してしまった。
メディアは、「これは数を握った安倍政権の驕(おご)りだ」と批判している。
しかし、これは、単なる「驕り」というレベルではない
安倍政権の本質はファッショである。

もし、「アベノミクス」が破綻して、安倍内閣が他国との戦争を仕掛けたとしても、
秘密保護法によって、国民はなぜ戦争をするのか、その決定の背景さえ、知ることができなくなった


戦争の口実は、しばしば証拠のデッチ上げによる。
満州事変もイラク戦争も、そうだった。
たとえ安倍内閣が証拠をデッチ上げても、国民は確認することができないのだ。

「秘密保護法」が向いている先は、市民である。
アメリカに盗聴されているのに、安倍政権は抗議もせず、逆に、石破幹事長は、国民の「デモ」を「テロ」だと決めつけた。
石破発言は、一昔前なら、間違いなく辞任だったろう。
ところが、誰も辞任を求めない。

彼らは「戦争責任」を否定し、「失われた20年」の間、不良債権問題でも、原発問題でも、
「政官財」のリーダーは、誰ひとりとして責任を取ってこなかった。
失敗をしても責任を取らないものは、必ず追及する声を封じようとする。
それが、秘密保護法
である。

実際、安倍政権は、原発再稼働、TPP交渉参加、普天間基地問題について、選挙公約を公然と裏切り、
公約になかった秘密保護法を強行採決した

これでは、選挙も議会制民主主義も、意味がなくなってしまう。
国民を騙して、議会で多数を握り、解釈改憲で集団的自衛権を認め、いつでも戦争ができるようにして、
「秘密保護法」で言論を封じる

麻生太郎が「ナチスの手口を学べ」と言ったとおりである。

歴史の教えに従えば、最悪なのは、メディアが封じられると、しだいに多くの国民が、触らぬ神にタタリなしとなり、黙りはじめることだ。
そうなったらオシマイだ。
民主主義のない、風通しの悪い社会が、うまくいったためしはない。
おバカなリーダーが暴走しても、誰も止められなくなるからだ。
安倍首相は選挙で、「日本を取り戻す」と絶叫したが、取り戻すのは「戦前の日本」だったようだ。




すぐにフワフワ浮き上がる首相の「軽さ」
ジャーナリスト 高野 孟・永田町の裏を読む

秋の国会の最大焦点だった、特定秘密保護法案が何とか成立し、安倍晋三首相も菅義偉官房長官も、さぞかしご満悦で、
このまま普天間基地の辺野古移転、集団的自衛権の解禁へと、高空飛行を続けようと張り切っているにちがいないーーと思いきや、
「それがそうでもないんだ」と、彼らの周辺に出入りしている、ベテラン政治記者が言う。
安倍は、実は、秘密保護法案が、こんな騒ぎになるとは思っていなかった
というか、この法案そのものを、あまりよく分かっていなかった
「エッ、どういうこと?」
「もともとは、外務省サイドから、NSCをつくって米国から機密情報をもらうには、この法案整備が必要だと言われて、
『そりゃそうだろうな』くらいの軽い気持ちで考えていた

ところが、実際の法案作りは、内閣情報調査室(内調)が担当で、内調といえば、公安・外事警察の出城みたいなものだから、
警察官僚が張り切って、本来の軍事・外交情報の保護という域を超えて、何でもかんでも取り締まれる、戦前の国防保安法並みの法案を作ってしまった
安倍は途中で気がついて、『ちょっとやりすぎじゃないか』と思ったらしいが、もう走り始めていたから、仕方がない。
最後までいってしまったんだ」

しかし、〝知恵者〟と言われている菅が、チェックしなかったのか。
「そこが問題で、安倍と菅の間が、あまりうまくいっていない。
安倍が、これも外務省OBから、『集団的自衛権の見直しには、まず、内閣法制局長官のクビをすげ替えることだ』と、変な知恵をつけられ
菅は『そんな無茶をしてはいけない』と反対したのに、安倍が強行した。
菅は参院選直後から、これでイイ気になって安倍が跳びはねれば、政権が危ないとみて、
『勝って兜(かぶと)の緒を締めよ、です。経済、経済でいきましょう』と忠告していたのに、それを無視されてむくれてしまった。
利口なやつだから、顔に出さないようにしているが、腹の中では『コケでも知らんぞ』くらいに思っているのでは」と、
このベテラン政治記者は言う。

前に本欄で書いた、集団的自衛権見直しの報告書発表を、来夏まで延期させたのも、公明党と菅の連係プレーだ。
フワフワと浮き上がりやし安倍の〝重し〟が菅で、それが効かなくなると、内閣の先行きは、思いのほか危ない。

国や官僚が、都合の悪いことは隠すのは昔っから。だから『秘密保護法』は、国民の羊化プロジェクト

2013年12月13日 | 日本とわたし
↓以下は、舩橋氏のフェイスブックに掲載されていた、東京新聞の記事。

多少の犠牲は仕方ない、と弱者を切り捨てる国・日本。

その考え方は、今の福島に通ずる。


「戦争孤児の数 隠した国」
【東京新聞】2013年12月11日朝刊
”狩り込み”で施設に収容された浮浪児たち


戦後、東京の上野地下道は、戦争孤児であふれ、大勢の子どもたちが餓死・凍死しました。

1946年8月23日の第90回帝国議会で、布利秋議員が、
子どもが刻々と死んでおる。戦争孤児の対策は、どうなっておるのか」と質問、
国は「戦争孤児は、3,000人。慈善事業が保護している」と答弁しています。

それを国民は信じていました。

ところが、路上生活の孤児の多さに驚いた、米国占領軍に命じられた当時の厚生省が1948年、全国一斉孤児調査をした結果、
123,500人も戦争孤児がいたことが判明しました。
厚生省は、この事実を隠蔽、50年後に見つかりました

戦争中、都市に住む小学生以下の児童は、親元を離れ、地方へ学童疎開しました。
その疎開中に、都市空襲で家が焼かれ、親・家族が殺され、帰る場所のなくなった孤児が、非常に多く生じました。
国策として学童疎開を推進してきた、当時の文部省官僚は、校長等公務員に箝口令を敷き、孤児資料を焼却、隠蔽
疎開中の孤児はいなかった、とされてしまったことも、60年後に判明しました。

隠蔽され、見捨てられた孤児たちは、路上で餓死、凍死した以外も、人身売買されたり、路上生活者になったり、過酷な人生を送りました。
12万人以上いた戦争孤児を、たったの3千人と、平気で国会で答弁するなど、昔から都合の悪いことは隠す国・官僚。
その上さらに、「特定秘密保護法」が施行されれば、ますますウソがまかり通り、真実が闇に葬られ、
うっかり話をすれば逮捕される、恐怖、暗闇の世の中になるでしょう。

金田 茉莉さん(78歳) 投稿

東京新聞2013年12月11日朝刊


↑上記の『うっかり話をすれば逮捕される』世の中。
↓その詳しい内容がこれ

【共謀罪】日常会話も捜査対象に 「監視国家」懸念高まる
【共同通信】



政府は、犯罪の実行行為がなくても、謀議に加われば処罰対象となる、「共謀罪」新設の検討に入った
市民の日常会話やメールが、捜査対象となる恐れがあり、
特定秘密保護法と併せ、「監視国家」化が進む
、との懸念が高まっている。
 
日本の刑事法では、実際に犯罪が行われて初めて、処罰されるのが原則だが、
共謀罪は、実行の前に、複数の人が話し合い、合意すること自体を、処罰の対象とする。
このため、処罰の範囲が曖昧で、拡大していく恐れが付きまとう。
 
村井敏邦(むらい・としくに)大阪学院大法科大学院教授(刑事法)は、
「共謀を証明するには、(捜査当局が)共犯者を抱き込んで話を聞いたり、会話を傍受したりといった手段が必要になる」と説明。
現行の通信傍受法は、薬物、銃器、集団密航、組織的殺人の4分野に限り、
捜査機関が、電話やメールなどを傍受することを認めているが、対象拡大へ法改正する可能性があるとみる。
 
さらに、
「例えば、共謀罪反対を掲げる市民団体が、危険な組織と見なされて、中心メンバーが尾行され、事務所への人の出入りも監視される可能性もある。
政府に反対する動きをすれば、自由を制限されることになりかねない
」と語る。
 
日弁連秘密保全法制対策本部の江藤洋一(えとう・よういち)本部長代行も、
関係のない人まで巻き込み(捜査の範囲を)どんどん広げていく可能性がある」と危惧する。
秘密保護法は、戦前と同じような、政府による大本営発表だけになる危険性と、処罰による“萎縮効果”があるが、
共謀罪は、その萎縮をさらに広げていくだろう。
監視社会、息苦しい社会になる
」と強調する。
 
法案提出となれば、担当するのは法務省。
ある幹部は、共謀罪が、野党の反発などで、繰り返し廃案になってきた経緯に触れ、
「今回もすんなりいくわけがない。内閣支持率が低下した今、あえて冒険する必要はないのでは」と指摘。
ただ、「国際組織犯罪防止条約」の署名後、10年以上たっていることに、
「異常といえば異常。早く法成立させなければいけない、との危機感は常にある」と話す。
 
日弁連の山岸憲司(やまぎし・けんじ)会長は、11日の定例記者会見で、
政府が、法案提出のチャンスを狙い続けていたのは間違いない。
秘密保護法や、国家安全保障会議(日本版NSC)創設とセットで、事実上の解釈改憲を推し進め、
新しい秩序をつくっていくつもりなのだろう
」と分析。
到底受け入れることはできず、反対の声を上げていきたい」と語気を強めた。

 

↓続いて、あちこちで見つけた記事






たこ焼きナイト

2013年12月13日 | ひとりごと
こちらではカスコと発音するコストコで、フィリピン産の野生巨大タコが、9ドルで売っていた。

その日は、若者こなっちゃんが一緒だったので、絶滅の恐れがあったトイレットペーパーと料理用の水(これが独りで運べない重さ!)を買いに行ったのやけど、
しかもその時我が家では、食品の買い物一切禁止令が敷かれていて、冷凍庫と冷蔵庫の中の物がすべて無くなるまでは、一切買ってはいけなかったのに……、

たこ焼き作りたさに負けて……買うてしもた。

軽く茹でてます。


くるりとひっくり返して。


成田空港で、真顔の検査員数人にいたぶられながら、それにもメゲず、大切に抱きかかえて持ち帰ってきたたこ焼き器くん。
今夜も絶好調!


残りの四本足と頭は、後で大根と煮ていただきまっす。

ごちそうさまでした。



『フタバから遠く離れて(Nuclear Nation)』を観た

2013年12月13日 | 日本とわたし
『フタバから遠く離れて』
故郷から遠く離れた場所で、現在も避難生活を送っている福島県双葉町民の日常を描いたドキュメンタリー

監督:舩橋淳 エンディングテーマ:坂本龍一



以前にも何度か、このブログでも紹介させていただいたことがあるこの映画。
舩橋監督と生でお出会いしたのは、小出先生の講演があったマンハッタンの教会。
その時に、この映画のことを知った。
米国での上映を必ず叶えたいとおっしゃっていて、わたしはその日を、今か今かと待っていた。

自称『若草物語 in NJ』のびじょびじょ4人集のうち、わかちゃんとあゆみちゃん、そしてわたしの3人、行けなくなったレイチェルのかわりにまなっちゃんが、会場の『FILM FORUM』に集合。

ご近所のあゆみちゃんとわたしは、同じ電車に乗ってマンハッタンへ。
地下鉄に乗ってると、椅子とコンガを持ち込んだ陽気なお兄ちゃんが、ボブ・マーリーの歌を歌い出した。
歌いながら突如、「ニホンジンデスカ?」と聞かれたので、「はいはい」と答えた途端、
思いっきりこちらに集中して歌うお兄ちゃん……わかりましたよ、チップ払います、はい。

ノリノリなのでピンぼけ。けど、歌もコンガもうまかった♪


仕事から電車までの時間がギリギリで、何も食べずに来てしまったので、劇場すぐ近くの、メキシカンのテイクアウト店で腹ごしらえ。
小さなお店には、料理人とレジ係のふたりだけ。
どちらも中国人で、こちらが英語で注文すると、それを中国語で伝え合う。
店の壁には、中国語が満載……なんか不思議な空間だった。

以下は、フェイスブックのYukio Gionさんの写真をちょいと拝借。






ニューヨーク・タイムズの芸術版にも、デカデカと載っていた。



映画を観て、しばらく考え込んでいた。
というか、考えるというより、双葉町の方々が避難された『騎西高校』に自分の身を置いていた。

ある日突然、なんの前触れも予告もなく、それまでの暮らしを根こそぎ失う。

いくら同じ村で住んでいたからといっても、いきなりなんの間仕切りもないひとつの部屋で、何家族もが暮らすという異常さ。
布団を敷くぐらいの空間が自分の住処となり、椅子など置く隙間も無く、食べ物は床。
そのまま1週間が1ヵ月、そして1年と、月日だけがのたりのたりと過ぎていく。
気に障ることもだんだんに増えてくる。
嫌いな人もいる。
配給されるばっかりの食べ物に、飽きたりイヤになったりする人もいる。

そんなことは当たり前のこと。

ありがたいけどイヤ、ありがたいけど嫌い、ありがたいけどムカつく。

この生々しさに、わたしは心を打たれた。
打たれた心はそのまんま、スクリーンの中の人たちに寄り添った。

あれほどの大勢の人たちが、あれほど長い間暮らしたというのに、
自分たちで食べ物が作れるよう、プレハブでもいいから、台所を作ってあげることはできなかったのか。
せめて、簡単なつい立てやアコーディオンカーテン(今も言うのかな?)でもいいから取り付けて、家族を分けてあげることができなかったのか。

ものすごく大切な会議にやってきた、海江田氏と細野氏が、神妙な顔して短い挨拶をし、その直後に公用だからと退席する。
とりあえず私は、多忙にも関わらず、体だけは運びましたと言わんばかりに。
護衛されてさっさと立ち去る政治屋たちを、苦虫を踏みつぶしたような顔をして見送る、原発立地地域の首長さんたち。
けれども、誰もなにも言わない。
ひと言も。
「せめて話ぐらい、同じ部屋の中で聞いてから帰れ!」と、わたしは心の中で叫んでた。

部屋の中で日本酒を酌み交わしながら、とりとめのないことを話しているおっちゃんたち。
その部屋のテレビの画面では、深刻な顔をした政治屋が、あることないことを話してる。
それは、ほんとうは、めちゃくちゃ関係のあることのはずなのに、
そのおっちゃんたちと政治屋との間には、何万光年もの隔たりがある。
それほどに、政府というものは、人に寄り添えないものなのだと、わたしはそのシーンが一番くやしかった。

そりゃ帰りたいよ。懐かしいよ。
もう帰れないな、それはわかってる。
わざわざバスで東京まで出て行って、デモで陳情して、その後にずらっと並んで待ち受けてた自民党の(なんで自民党だとわかるのかというと、全員なぜかタスキをかけていた)議員らと握手して、
あんなこと言ってもしゃあないのにな、戻れんのわかってるのに戻せー!とか言ってもな、などと言っているおばあちゃん。

もっともっと知らなければならないと思った。


↓以下は、公式サイトに掲載されている、監督とプロデューサーからの言葉です。

「私たちも原発事故の当事者である」

何も見えない。
311後の日本は、何も見えないことにフラストレーションを抱えてきた。
あの原発で何が起こっているのか?
原子炉の中はどうなっているのか?
放射能はどこへいったのか?
自分は被爆したのか?
被爆したとしたら、どうなってしまうのか?

今回の事故で、日本政府と東電の対応は、とても似通っていた。
事実の公表をさけ、「健康にただちの被害はない」という文言に終始する。
肥大する政府不信と東電不信・・・日本国民だけでなく、世界中からも不信を買ってしまった・・・国が推進してきた原子力政策。
それが破綻を来し、危険だという理由から、警戒区域の中を見ることはできなくなった。
大手メディアも国の命令に従い、僕たちの「知る権利」は宙吊り。
何も見えない、知らされない恐怖と闘い続けるのが、ポスト311の日本の日常となった。

そんなとき、もっとも割を食う、もっとも無視され放置されるのが、避難所の人たちだ。
自分たちの家に帰られるのか、仕事はどうなるのか?
基本的な質問に対する解答が、永遠に引き伸ばされ続ける。
その宙ぶらりの時間を、記録しなければいけない。
忘れ去られてはいけない。
そんな強い衝動に駆られて、僕はキャメラを手にした。
まだ地震・津波の被害状況ばかりがニュースで、その甚大さばかりが強調された、2011年3月末のことである。

この映画は、避難民の時間を描いている。
1日や1週間のことではない、延々とつづく原発避難。
今回の原発事故で失われたのは、土地、不動産、仕事・・・金で賠償できる物ばかりでない。
人の繋がり、風土、郷土と歴史、という無形の財産も吹き飛んでしまった。
それに対する償いは、あいにく誰も用意していない。
用意できるものでもない。

そして、僕たちは、その福島で作られた電気を使いつづけてきた。
無意識に、加害者の側に立ってしまっていた。
いや、我々は東電じゃないんだから、加害者じゃない、というかもしれない。
本当にそうなのか。
地方に、危険な原発を背負わせる政府を支えてきたのは、誰なのか。
そんな犠牲のシステムに依存して、電気を使ってきたのは誰なのか。
いま 僕たちの、当事者意識が問われている。


監督:舩橋淳(ふなはしあつし)

映像作家。
東京大学教養 学部表象文化論分科卒後、ニューヨークで映画制作を学ぶ。
長篇映画『echoes』は、仏アノネー国際映画祭で審査員特別賞、観客賞を受賞。
第2作『BIG RIVER』(主演オダギリジョー、製作オフィス北野)は、ベルリン映画祭、釜山映画祭でプレミア上映される。
また、ニューヨークと東京で、時事問題を扱ったド キュメンタリーの監督も続けており、
アルツハイマー病に関するドキュメンタリーで、米テリー賞を受賞。 
今作の撮影過程を記録した著書「フタバから遠く離れて―避難所からみた原発と日本社会(仮題)」を、今秋出版予定。

【劇場用映画 Feature Films】
2012 『桜並木の満開の下に(仮題)』(2013年公開予定)
2012 『フタバから遠く離れて(NUCLEAR NATION)』 
2009 『谷中暮色 (Deep in the Valley)』(2010年全国公開)
2006 『BIG RIVER』(2006年全国公開)
2001 『echoes』(2001年全国公開)


「そのとき、自分には何ができるのか?」

2万人以上の死者・行方不明者を出した、2011年3月11日の東日本大震災。
そして最悪の事態を引き起こした、福島第一原発の事故。
震災の翌日、一号機水素爆発の直後に出された避難指示により、
住民たちは、着の身着のまま避難を余儀なくされ、大量の「核・避難民」が生まれてしまった。

双葉町は、原発から3キロのところに立地している。
福島県の一時避難所から、3月19日に、役場機能を250キロ離れた埼玉県に移し、避難住民のうち、約1200人も一緒に移動した。
さらにその後、3月末に、映画の舞台となった同県の廃校(加須市/旧・騎西高校)に、再び移動した。
以来、現在にいたるまで、人々は教室で暮らし、子供達はここから、近所の学校へと通っている。
故郷の町は、災害基本対策法に基づく警戒区域に設定され、民間人には、立ち入りが禁止されたままだ。

この未曾有の事態を前に、日本中で多くの人々が、「自分に何ができるか」を問うた。
舩橋淳はディレクターとして、私はプロデューサーとして悩み抜いた末、
震災後3週間目から、この廃校に暮らす双葉町の人々を、記録する事にした。
彼らのおかれた不条理な状況に、共に苦しみ、共に怒り、カメラを回し続けた。

日本の原子力発電所は、1960年代以降、せまい国土に次々と建設された。
現在、アメリカ、フランスに続いて、「54基」(世界第3位)。
そのほとんどが、福井、福島、新潟など、限られた地域に集中して、海沿いに立地されている。
電力を消費する東京など、大都市ではなく、発電所の多くは、電力の消費地とは無縁の、産業の乏しい場所に建設された。
何が起きても原発は安全だという神話と、原発交付金など、立地する自治体にばらまかれたお金。
そうして、地域活性化、雇用促進の名の下に、次々と原発が建設されていった。
大都市で暮らす私たちは、そのことに、あまりにも無自覚であった。

出稼ぎの町だった双葉町にとって、原発は、お金を生み出す魔法の杖だった。
町は、原発との共存共栄を掲げて、発展して来た。
双葉町を見つめる事は、とりもなおさず、日本の産業構造が生み出した、歪んだ原子力行政を問い直す事に他ならなかった。

震災から1年近くたった現在でも、福島県外に避難した人々は、6万人を超え、
この廃校にも、まだ、役場とともに、600人以上の人々が暮らし続けている。
1月、政府は、放射性物質に汚染された、廃棄物の貯蔵施設の建設を、双葉町などに要請した。
原発事故で故郷を追われたうえ、放射性廃棄物の貯蔵施設の受け入れを迫られて、町長は野田首相にこう質問した。
「私たちを国民だと思っていますか、法の下の平等が保障されていますか」と。

「ノアの箱船」のような廃校に暮らす人々は、故郷の双葉町にいつ戻ることができるのか?
5年後?20年後?30年後?
その答は誰にもわからない。

しかし、舩橋と私は、彼らが故郷に帰るその日まで、カメラを回し続ける。


プロデューサー:橋本佳子(はしもと よしこ)

1985年より、ドキュメンタリージャパン代表を20年間務める。
ドキュメンタリー番組を中心に、数多くの受賞作品をプロデュースし、現在も精力的に作品を作り続けている。
個人として、放送文化基金個人賞、ATP個人特別賞、日本女性放送者懇談会賞受賞。
芸術祭賞、芸術選奨、民間放送連盟賞、地方の時代映像祭賞などの審査員や、座・高円寺フィルムフェスティバル実行委員を務める。
プロデュースした映画作品は『遠足 Der Ausflug』(86分/1999/監督:五十嵐久美子)、
『パンダフルライフ』(100分/2008/監督:毛利匡)、
『ニッポンの嘘』(114分/2012/監督:長谷川三郎)、
『dear hiroshima』(90分/2012/監督:リンダ・ホーグランド)がある。

あなたは『ケータイを持ったサル』ですか?それとも……

2013年12月11日 | 日本とわたし
associations.jp 全国の原発廃炉を目標にした時限運動体に、
デモが日本を変える──柄谷行人氏「9・11原発やめろデモ」でのスピーチの全文の文字起こしが掲載されていました。

↓以下、転載はじめ



この4月から、反原発のデモに参加しています。
このアルタ前でも、6・11デモにも参加しました。
私がデモに行くようになってから、いろんな質問を受けます。
しかも、たいがい否定的な質問です。

そのひとつは、「デモで何が変わるのか?デモで社会を変えられるのか?」というものです。
私はこう応えます。
もちろん、デモで社会を変えることができる
確実に変えられます
なぜなら、デモをすることで、デモをする社会をつくれるからです。

考えて欲しい。
今年の3月以前に、日本には、沖縄を除いて、デモはほとんどなかった
それがいま、日本全国、今日もたぶん、100ヵ所以上でデモが行なわれています。
その意味で、日本の社会はすこしは変わった
これは明らかです。

例えば、福島原発の事故のようなことが、ドイツやイタリアで起こればどうなるか、
あるいは、韓国で起こればどうなるか、
巨大なデモが、国中に起こるでしょう。
しかしそれに較べれば、日本のデモは、異様なほどに小さい
しかし、それでもデモが起こったことは凄い、救いである、と私は思います。

デモは、主権者である国民にとっての権利です。
デモができないなら、国民は主権者ではない
例えば韓国では、20年前まで、デモは出来なかった
軍事政権があったからです。
しかし、その軍事政権を倒して、国民主権を実現した。
デモによって倒したのです。
そのような人たちが、デモを手放すはずがありません。

では、日本ではなぜデモが少ないのか?
なぜそれは、ヘンなことだと思われているのか?
それは、国民主権を自分の力で、闘争によって獲得したからではないからです。

日本人は戦後、国民主権を得ました。
しかしそれは、敗戦によるものであり、事実上占領軍によるものです。
つまり、自分で得たのではなく、与えられたものです。
では、これを自分自身のものにするためには、どうすればいいか?
それはデモをすることです。

私が受けるもうひとつの質問は、「デモ以外にも手段があるのではないか?」というものです。
たしかに、デモ以外にも手段があります
そもそも選挙があります。
その他、さまざまな手段があります。
しかし、デモが根本的です。
デモがある限り、その他の方法も有効になりますが、デモがなければ、それらは機能しません
いままでと同じことになります

さらに私が受ける質問は、「このままデモは、下火になっていくのではないか?」というものです。
戦後、日本には、幾度も全国的な規模のデモがありました。
しかしそれは、長続きしなかった。
今回のデモもそうなるのではないか、というわけです。
たしかに、その恐れはあります。
マスメディアではすでに、「福島の事故は片付いた」、「ただちに経済復興に取り組むべきだ」というような意見が強まっています。
ところがそんなことはない。
福島では、なにも片付いてはいないのです。
しかし、当局やメディアは、片付いたかのように言っている
最初からそうです。
彼らは最初から、事実を隠し、たいしたことはなかったかのように装ってきたのです。
ある意味で、それは成功しています。
多くの人たちがそれを信じている
信じたいからです
そしたら、今後に、反原発のデモは下火になっていくことは避けられない、というふうに見えます。

しかし違います。
福島原発事故は片付いていない。
今後もすぐには片付かない。
むしろ、今後に、被爆者の病状がはっきりと出てきます。


また、福島の住民は、永遠に郷里を離れることになります。
つまり、われわれが忘れようとしても、またじっさいに忘れても、原発の方は執拗に残る
それはいつまでも続きます
原発が恐ろしいのはこのことです
それでも人々はおとなしく、政府や企業のいうことを聞いているでしょうか。
そうであれば、日本人は、物理的に終わりです。

だから私は、こう信じています。

第一に、反原発運動は長く続くということです。
第二に、それは原発にとどまらず、日本の社会を根本的に変えるちからとなるだろう、ということです。
みなさん!粘り強く闘いましょう!
以上です。


柄谷行人 公式ウェブサイトより

反原発デモが日本を変える
 
3月11日の東日本大震災から、この6月11日で、3か月が経過する。
震災直後に起こった福島第一原発の事故を契機に、日本国内のみならず海外でも、「反原発・脱原発デモ」が相次いでいる。
東京においても、4月10日の高円寺デモ、24日の代々木公園のパレードと芝公園デモ、5月7日の渋谷区役所~表参道デモとつづき、
6月11日には、全国で、大規模なデモが行なわれた。
作家や評論家など、知識人の参加者も目立つ。
批評家の柄谷行人氏は、60年安保闘争時のデモ以来、芝公園のデモに、およそ50年ぶりに参加した。
今後、この動きは、どのような方向に向かい、果たして原発廃棄は実現可能なのか。
柄谷氏は、6月21日刊行の『大震災のなかで 私たちは何をすべきか』(内橋克人編、岩波新書)にも、「原発震災と日本」を寄稿している。
柄谷氏に、お話をうかがった。
(編集部)

  *  *  *

【柄谷】
最初に言っておきたいことがあります。
地震が起こり、原発災害が起こって以来、日本人が忘れてしまっていることがあります。
今年の3月まで、一体何が語られていたのか。
リーマンショック以後の世界資本主義の危機と、少子化高齢化による、日本経済の避けがたい衰退、
そして、低成長社会にどう生きるか
、というようなことです。
別に地震のせいで、日本経済がだめになったのではない
今後、近いうちに、世界経済の危機が必ず訪れる
それなのに、「地震からの復興とビジネスチャンス」とか言っている人たちがいる
また、「自然エネルギーへの移行」と言う人たちがいる
こういう考えの前提には、経済成長を維持し、世界資本主義の中での競争を続ける、という考えがあるわけです。
しかし、そのように言う人たちは、少し前まで彼らが恐れていたはずのことを、完全に没却している
もともと、世界経済の破綻が迫っていたのだし、まちがいなく、今後にそれが来ます。

日本の場合、低成長社会という現実の中で、脱資本主義化を目指すという傾向が、少し出てきていました
しかし、地震と原発事故のせいで、日本人はそれを忘れてしまった
まるで、まだ経済成長が可能であるかのように考えている
だから、原発がやはり必要だとか、自然エネルギーに切り換えようとかいう。
しかし、そもそも、エネルギー使用を減らせばいいのです。
原発事故によって、それを実行しやすい環境ができたと思うんですが、そうは考えない。
あいかわらず、無駄なものをいろいろ作って、消費して、それで仕事を増やそうという、ケインズ主義的思考が残っています
地震のあと、むしろそのような論調が強くなった。
もちろん、そんなものはうまく行きやしないのです。
といっても、それは、地震のせいではないですよ。
それは、産業資本主義そのものの本性によるものですから。

原発は、資本=国家が、必死に推進してきたものです。
原発について考えてみてわかったことの一つは、
原発が必要であるという、その正当化の理論が、日本では、歴史的に著しく変わってきたということです。

最初は、原子力の平和利用という名目で、核兵器に取り組むことでした。
これは、アメリカの案でもあり、朝鮮戦争ぐらいから始まった。
このような動機は、表向き言われたことはありませんが、現在も続いている。

つぎに、オイルショックの頃に、石油資源が有限であるという理由で、
火力発電に代わるものとして、原発の建設が進められ
るようになった。
これも、アメリカの戦略ですね。
中東の産油国を抑えられなくなったので、原子力発電によって対抗しようとした、といえる。

その次に出てきたのが、火力発電は炭酸ガスを出すから、温暖化につながる、
したがって、原発以外にはない、というキャンペーン
です。
実際には、原発はウラン燃料作り、原発建設、放射能の後始末などで、炭酸ガスの放出量は、火力発電と違わない。
だから、まったくの虚偽です。

このように、原発正当化の理由がころころ変わるのは、アメリカのブッシュ政権時の、イラク戦争と同じです。
つまり、最初は大量破壊兵器があると言って、戦争をはじめたのに、
それがないことが判明すると、イラクの民主化のためだと言う。
途中で理由を変えるのは、それが虚偽であること、真の動機を隠すためだということを、証明するものです。
原発に関しても同じです。
それが必要だという理由が、ころころ変わるということ自体、それが虚偽である証拠です。


 ―― なるほど。

【柄谷】
フクシマのあと、脱原発に踏み切った国を見ると、核兵器を持っていないところですね。
ドイツやイタリアがそうです。
この二カ国は、日本と一緒に、元枢軸国だったのです。
ところが、日本はそうしない。
それは、本当は、日本国家が、核兵器をもつ野心があるからだと思います。
韓国もそうですね。
ロシアやインドは、もちろん核兵器を持っている
核兵器を持っている国、あるいはこれから作りたい国は、原発をやめないと思います。
ウランを使う原子炉からは、プルトニウムが作られますからね。
元々そうやって、原子爆弾を作ったんだから、原子力の目的はそれ以外にはない。
原子力の平和利用と言うけれど、そんなものは、あるわけがない
同じ原子力でも、トリウムを燃料として使うものがあります。
『原発安全革命』(古川和男著、文春新書)という本に書かれていますが、
トリウムはウランより安全かつクリーンで、小型であり、配電によるロスも少ないという。
しかし、それがわかっていても、採用しないと思います。
そこからはプルトニウムができない、つまり、核兵器が作れないからです。

原発は、経済合理的に考えると成り立たない
今ある核廃棄物を片付けるだけで、どれだけのお金がかかるのか。
でも、経済的に見て、非合理的なことをやるのが、国家なのです。
具体的には、軍ですね。
軍は、常に敵のことを考えているので、敵国に核兵器があれば、核兵器を持つほかない
持たないなら、持っている国に頼らなければならない。
できるかぎり、自分たちで核兵器を作り所有したい、という国家意志が出てきます。
そこに、経済的な損得計算はありません
そんなものは不経済に決まっていますが、国家はやらざるをえない
もちろん、軍需産業には利益がありますよ。
アメリカの軍需産業は、戦争を待望している
日本でも同じです。
三菱はいうまでもなく、東芝や日立にしても、軍需産業であって、原発建設はその一環です。
他国にも原発を売り込んでいますね。
日本で原発をやめたら、外国に売ることもできなくなるから困る
だから、原発を止めることは許しがたい。
したがって、原発を止めるということは、もっと根本的に、軍備の放棄、戦争の放棄、ということになっていく問題だと思います。


 ―― 4月24日のデモについて、おうかがいします。
柄谷さんは、ご自身が講師を務める、市民講座「長池講義」の公式サイトで、
「私は、現状において、反原発のデモを拡大していくことが、最重要であると考えます」と述べ、
反原発デモへの参加を呼びかけられました。
実際に、芝公園と、その次の渋谷区役所前のデモに参加された。
街頭デモへの参加は、50年ぶりのことであり、なぜ柄谷さんをこの運動に向かわせたのか、お聞かせいただけますか。

【柄谷】
デモに行くということについては、かなり以前から議論していたと思います。
数年前から、何カ所かで、「なぜデモをしないのか」という講演をしたのです。
『柄谷行人 政治を語る』(図書新聞刊)の中でも、その話をしています。
なぜ、日本でデモがなくなってしまったのか
そのことについても考察しています。
それと関連する話ですが、3月11日以降に、わかってきたことがあります。
実際は、1980年代には、日本に、大規模な原発反対の運動があったのです。
それなのに、なぜ今日まで、54基もの原発が作られるに至ったのか
そのことと、なぜデモがなくなったのかということは、平行しており、別の話ではないということです。

現在言われている反原発の議論は、1980年代に、既に全部言われていることですね。
事実、多くの本が復刻されて読まれている。
今も、完全に通用するのです。
むしろ驚くべきことは、
あの時に言われていた原発の危険性、技術的な欠陥、それらが、未だに何一つ解決されていないということです。
原発はまた、危険であるがゆえに避けられない、過酷な労働を伴います。
半奴隷的と言ってもいい労働が、ずっとつづけられてきた
今度の事故で、あらためて、そのことに気づかされました。
原発に反対すべき理由は、今度の事故で、新たに発見されたのではない
それは、1950年代において、はっきりしていたのです。
しかし、それならなぜ、原発建設を放置してしまったのか
特に強制があったわけでもないのに、原発に反対することができなくなるような状態があったのです。
デモについても、同じことです。
デモは、別に禁止されてもいないのに、できなくなっていた
では、この状態を突破するには、どうすればいいか。
そのことを、僕は考えていました。
そこで、デモについて、いろいろ考え発言したのですが、結局、まず自分がデモをやるほかないんですよ。
なぜデモをやらないのか、というような「評論」を言ってたってしょうがない。
それでは、いつまで経っても、デモがはじまらない。
デモが起こったことがニュースになること自体、おかしいと思う。
だけど、それをおかしいというためには、現に自分がデモに行くしかない、と思った。


 ―― 参加されて、どんな感想をお持ちになりましたか。

【柄谷】
気持よかったですね。
参加した人もこれまで、デモについての固定観念を持っていた、と思うのですが、来てみたら全然違う、と感じたんじゃないですか。
子供連れで来ている人がかなりいました。
僕は、安保の時に、何度もデモに行きましたが、今回のデモは、あの時とは違いますね。
しかし、僕がデモに50年ぶりに参加したというのは、日本において、ということです。
実は、アメリカに住んでいた頃は、何度かデモに行ってるんですよ。
といっても、わざわざ出掛けて行ったのではない。
たとえば、10万人のデモが家の前を通っていて、そこを通り抜けないと、カフェにも行けない。
だから、ついでにデモに参加したわけです。
むろん、イラク戦争反対のデモだったからですが。
今回の日本のデモは、そのときのデモに似ています。


 ―― 安保の時とは違うと言われましたが、どのような違いがあったのでしょうか。

【柄谷】
1960年のころは、基本的に、労働組合が中心で、その先端に学生のデモがあったのです。
「全学連」のデモも、最後の半年ぐらいは違いますが、
それまでは、国民共闘会議のなかの一集団で、長いデモの先頭にいたんですね。
何十万人の参加者の中の、1万か2万ぐらいが学生だった。


 ―― 一緒にやっていたわけですか?

【柄谷】
そうですね。
ただし、1960年以後、学生と労働者との断絶が続きました。
1960年代末の、いわゆる全共闘のころは、学生のデモは、労働運動とはつながりがほとんどなかった
その分、デモは過激なものになって、普通の市民は参加できない
だから、いよいよ断絶化する。
したがって、1960年以後は、大規模な国民的デモはなかった、といっていいと思います。
現在は、大学の学生自治会はないし、労働組合も弱い。
早い話が、東電の労組は、原発支持ですね。
労働組合に支持された民主党も、原発支持です。
こんな連中が、デモをやるはずがない。
だから、現在のデモは、固定した組織に属さない、個人が集まったアソシエーションによって行われています
たとえば、僕ら(長池評議会のメンバー)は50人ほどですが、その種の小さいグループが、いっぱいあると思います。
今後も、若い人たちがデモをやるならば、僕は一緒に動きます。


 ―― 1991年の湾岸戦争の時、日本の参戦に反対する「文学者の集会」を、柄谷さんは開かれました。
その時のことを振り返って、「僕だけなら何もしなかった」「(自分は)受身である場合が多い」とおっしゃっています(『政治を語る』)。
今回は、自ら呼びかけを行ない、今後もそれはつづけていく、と発言されています。

【柄谷】
僕は、他の人たちがやっているデモに、相乗りしているだけであって、自分ではじめたのではない
その意味で受け身です。
しかし、それは問題ではない
僕は、運動の中心にならなければならないとは、まったく考えていない。
デモがあれば、そこに行けばいい
ただ、たとえデモがあったとしても、ひとりではなかなか参加できないものなんですよ。
それなりに連合していないと、デモはできないと思います。
だからアソシエーションが必要だ、と言っているわけです。


 ――『政治を語る』の中では、2000年に、NAMをはじめた時のことを振り返って、次のように言われています。
「この時期に運動をはじめたのは、理論的なこともそうですが、現実に危機感があったからですね。
1990年代に、日本で、「新自由主義」化が進行した。
いつでも戦争ができる体制ができあがっていた。
僕は、『批評空間』をやっている間、それに抵抗しようとしましたが、無力でした。
たんなる批評ではだめだ、と思うようになった。
だから、社会運動を開始しようと思った」
その時の思いと、今回の行動は、繋がっていると考えてもよろしいのでしょうか。
NAMの正式名称(New Associationist Movement)が示す通り、当時から、アソシエーションの必要性を強調されていました。

【柄谷】
今もそれは同じです。
当時、アソシエーションというとき、協同組合や地域通貨といったもの、
つまり、非資本主義的な経済の創造を考えていたのですが、
それはむろん、今後に、ますます必要になると思います。

特に、経済的な危機が来たら。
20世紀末に、それまでの「批評」ではだめだと思ったのは、ソ連崩壊以後の世界が、根本的に変わってきたと感じたからです。
それまでの「批評」、あるいは「現代思想」というのは、米ソの冷戦構造の下に出てきたものですね。
簡単にいえば、米ソによる二項対立的世界を脱構築する、というようなものです。
実際には何もしないし、できない。
米ソのどちらをも批判していれば、何もしないのに、何かやっているという気になれた
しかし、ソ連が崩壊したことで、このような世界は崩壊しました。
米ソの冷戦構造が終わったことを端的に示したのが、湾岸戦争ですね。
そのとき、僕は、今までのようなスタンスは、もう通用しないと思った。
だから、湾岸戦争の時に、文学者を集めた反戦集会をやったのです。
しかし、それに対して、僕を批判した連中が大勢いましたね。
もと全共闘、というような人たちです。
たぶん、かつてはデモをやっていた連中が、集会やデモを抑圧するようになっていたのです。
しかし、現在、若い人たちは、デモを否定的に見るような圧力をもう知らないでしょう。
それはいいと思いますね。


 ―― 確かに今回、特に20代から30代の若い人たちが、積極的にデモに参加している印象があります。

【柄谷】
やはり、大きな災害があったからだと思いますね。
非日常的な経験をすることで、新しい自分なり、新しい人間の生き方が出てきたんでしょう。
これまでの普段の生活の中では、隠蔽されていたものが出てきたんだと思います。
資本主義経済というのは、本当にあらゆるところに浸透していて、小さな子どもの生き方まで規定していますからね。
最近聞いて、面白いなと思ったものがあります。
「就活嫌だ」、というデモがあるらしい。
それはいいと思う。
当たり前の話で、大学に入学して間もなく、就職活動を始めなきゃならないなんて、嫌にきまっていますよ。
こんなものが大学ですか
今の大学に、学問などないということは、原子力関係の研究者の様子を見れば、わかります。
だから、嫌だといえばいい
デモをすればいい


 ―― 柄谷さんは『政治を語る』の中で、繰り返し、デモの必要性を説かれていますが、
その意味で、「希望の芽」のようなものが、今出はじめたと思われますか。

【柄谷】
そう思います。
3月11日以後、日本の政治的風土も、少し変わった気がしますね。
たとえば、「国民主権」という言葉があります。
国民主権は、絶対王制のように、王が主権者である状態をくつがえして出てきたものです。
しかし、主権者である国民とは何か、というと難しいのです。
議会制(代表制)民主主義において、国民とはどういう存在なのか。
選挙があって、国民は投票する
その意味で、国民の意志が反映される
しかし、それは、世論調査やテレビの視聴率みたいなものです。
実際、一か月も経てば、人々の気持はまた変わっている
要するに、「国民」は、統計的存在でしかない
各人は、そのような「国民」の決定に、従うほかない
いいかえれば、そのようにして選ばれた代行者に、従うほかない
そして事実上は、国家機構(官僚)に従うことになる
こんなシステムでは、ひとりひとりの個人は、主権者ではありえない。
誰か代行者に、拍手喝采することぐらいしかできない。


昔、哲学者の久野収が、こういうことを言っていました。
民主主義は、代表制(議会)だけでは機能しない
デモのような直接行動がないと、死んでしまう、と。

デモなんて、コミュニケーションの媒体が、未発達の段階のものだと言う人がいます。
インターネットによる、インターアクティブなコミュニケーションが可能だ、と言う。
インターネット上の議論が、世の中を動かす、政治を変える、とか言う。


しかし、僕はそう思わない
そこでは、ひとりひとりの個人が見えない
各人は、テレビの視聴率と同じような、統計的な存在でしかない
各人は、けっして主権者になれないのです。
だから、ネットの世界でも、議会政治と同じようになります。
それが、この3月11日以後に、少し違ってきた。
以後、人々がデモをはじめたからです。
インターネットもツイッターも、デモの勧誘や連絡に使われるようになった。

たとえば、中国を見ると、
「網民」(網はインターネットの意味=編集部注)が増えているので、中国は変わった、
「ジャスミン革命」のようなものが起こるだろうと言われたけど、何も起こらない。
起こるはずがないのです。

ネット上に威勢よく書き込んでいる人たちは、デモには来ない
それは、日本と同じ現象です。
しかし、逆に、デモがあると、インターネットの意味も違ってきます
たとえば、日本ではデモがあったのに、新聞もテレビも、最初そのことを報道しなかった
でも、みんなが、ユーチューブで映像を見ているから、隠すことはできない
その事実に対して、新聞やテレビ、週刊誌が、屈服したんだと思います。
それから段々、報道されるようになった。
明らかに世の中が変わった。
しかし、それがインターネットのせいか、デモのせいかと問うのは、的外れだと思います。


 ―― 地震直後と現在と比べて、柄谷さんご自身の考え方に変化はありましたか。

【柄谷】
それはもちろんありますが、あまり大きくは変わらないですね。
最初は、この先どうなるか、見当がつかないぐらいだった。
現在だって、こういう状態が、ずっとつづくのかなと思っていますが。
原発事故の後、「ただちに危険はない」と、よく言われていましたね。
でも、外国人は、ただちに国外に逃げていた
ドイツなんて、成田への直行便を、やめてしまった
今でも僕が見ているのは、ドイツの気象庁が出しているデータです。
彼らは、最初の段階から、きちんと情報を提供していた
その日の風向きによって、放射性物質がどういうふうに流れているか、毎日伝えています
それは風向き次第で、大阪や札幌には飛んでいくし、時にはソウルまでいっている
外国人はそれを見ているが、日本人は見ていない
日本では、内緒にしようとしているからです。
だから、そういうことを知らない人が多い
しかし、日本政府が隠そうとしても、もはや隠すことはできない。
今は、すぐに、インターネットで情報が流れます。
外国人は騒ぎ過ぎるとか、風評被害である、とか言う人がいますが、黙っている方が罪は重い
危険であることを当たり前に指摘するのが、なぜ風評なのか
日本人が何も言わないのは、真実を知らされていないからです。
最近になって、段々状況がわかってきたので、怒り出した人たちがいます。

つい最近、イタリアで、2009年4月に起こった地震(309人が死亡、6万人以上が被災した)に関して
防災委員会の学者らが、大地震の兆候がないと判断したことが、被害拡大につながったとして起訴された
この場合、地震学者が、大地震は「想定外」だった、と弁明することは許されると思うのですが、それでも起訴されています。

一方、福島第一原発の場合、当事者らが、大地震は「想定外」だった、という弁解は成り立たない
東電はいうまでもなく、官僚、政府にいたるまで、罪が問われても当然です。
あれは、紛れもなく犯罪ですから
しかも、放射能汚染水を、海に垂れ流していますから、国際的な犯罪です。
「東京(電力)裁判」が必要になると思う。
というと、これから未来に向けて、何かしなければならないときなのに、
原発事故の責任を問うということは、後ろ向きでよくない、という人がいます。
しかし、過去の問題に対して、責任を問うことは、まさに未来に向かうことです。
これまで危険な原発を作ることに、なぜ十分な反対もできなかったのか
そのような責任の意識から、僕は今デモに行っています。

若い人たちは違いますよ。
生まれた時に、すでに原発があったから。
だけど、今後に原発の存続を許せば、今回と同じことが起こるわけです。
デモの先導車で、ラップをやっていた若い女の子が、もし原発を放っておいたら、未来の人たちに申し訳ない、という
そういう気持が、若い人たちにもあるんだな、と思った。
それから、京都大学原子炉実験所の助教である、小出裕章さんという人の講演を聞いたときも、感銘を受けました。
彼は、「原発を止められなくて申しわけない」と話しつつ、涙ぐんでいた
今回の事故の後、「ほら見たことか。俺はあんなに反対していたんだ」と言うこともできたはずですが、
何であれ、止めることができなかったことに変わりはない、だから申し訳ない、ということです。
原発を推進した連中が、責任を問われるのは当たり前ですが、
一番そのような責任から免れているはずの人が、責任を感じている

ならば、僕のような者は、責任を感じざるを得ないですね。

恐ろしいと思うのは、原子炉は、廃炉にするといっても、別に無くなるわけじゃないということです。
閉じ込めるための石棺だって壊れる。
これから何万年も、人類が面倒見ていかなければいけない
未来の人間がそれを見たら、なんと自分たちは呪われた存在か、と思うでしょうね。
しかも、原子力発電を全廃しても、核廃棄物を始末するためだけに、原子力について勉強をしないといけない。
情けない学問ですが、誰かがやらざるをえないでしょう。
しかし、いかなる必要と権利があって、20世紀後半の人間がそんなものを作ったのか
原発を作ることは、企業にとってもうけになる
しかし、たかだか数十年間、資本の蓄積(増殖)が可能になるだけです。
それ以後は、不用になる
不用になったからといって、廃棄できない、恐ろしい物です。

誰でも、よく考えれば、そんな愚かなことはやりません。
しかし、資本の下では、人は考えない
そこでは、個々の人間は主体ではなくて、駒のひとつにすぎません
東電の社長らを見ると、よくわかります。
あんな連中に、意志というほどのものがあるわけがない。
「国家=資本」がやっているのです。
個々人は、徹頭徹尾、その中で動いているだけですね。
ただ、それに対して、異議を唱えられるような個人でないと、生きているとは言えない


 ―― 脱原発の動きについては、そのひとつの試みとして、ソフトバンクの孫正義さんが提案している案(大規模な太陽光発電所の建設など)も、最近注目を集めています。

【柄谷】
ぼくは信用しない
自然エネルギーの活用、というような人たちは、新たな金儲けを考えているだけですね。
エコ・ビジネスの一環です。
太陽光というと、パネルなどを大量に生産することができる。
あるいは、大量に電気自動車を作ることができる。
しかし、サハラ砂漠ならともかく、日本では、太陽光発電そのものが、環境破壊となる
そんなものは、いらない
現在のところ、天然ガスで十分です。
それなら、日本の沿岸にも無尽蔵にある。
要するに、先ず原発を止める
それからゆっくり考えればいいんです。


 ―― 反原発運動を考える際に、現在「不買運動」の必要性を指摘する人もいます。
これは、NAMの時に、柄谷さんがおっしゃっていたことに繋がっているんじゃないか、と思います。


【柄谷】
不買運動はいいと思いますが、今のところ、まず、デモの拡大が大事だと、僕は思う。
その中から自然に、そういう運動が出てくればいい
先程言った、「就活嫌だ」というようなデモでもいい。
とにかく、何か事があれば、人がデモをするような市民社会にすること、が重要だと思います。
それが、主権者が存在する社会です。
一昔前に、人類学者が、『ケータイを持ったサル』という本を書きました。
若い人たちが、お互いに話すこともなく、うずくまってケータイに向かっている。
猿山みたいな光景を、僕もよく見かけました。
たしかに、デモもできないようでは、猿ですね。
しかし、ケータイを棄てる必要はない
ケータイをもったまま、直立して歩行すればいいわけです。
つまり、デモをすればいい
実際、今、若者はケータイをもって、たえず連絡しながら、デモをやっていますね。
そういう意味で、「進化」を感じます。


 ―― 最後に、現在立ち上がった運動が持続するために、何が必要だと思われますか。

【柄谷】
デモをすることが当たり前だ、というふうになればいい
「就活嫌だ」のデモでいい。
「職をよこせ」のデモもいい。
デモをやる理由は、無数にあります
今の日本企業は、海外に移って、日本人を見捨てています。
資本はそうしないとやっていけない、というでしょう。
しかし、それは資本の都合であって、その犠牲になる人間が、黙っている必要はありません

異議申し立てをするのは、当然のことです。

それなのに、デモのひとつもできないのなら、どうしようもないですね。
誰かがやってくれるのを待っているのでは、何もしないのと同じです。
誰かがやってくれるのを待っていると、結局、
人気のあるデマゴーグの政治家を、担ぎ上げることにしかならないでしょう。
それは結局、資本=国家のいいなりになることです。

エノケンの『これが自由というものか』(1954年)

2013年12月10日 | 日本とわたし
これは呆れた驚いた!

今から60年も前に、まるで今のことみたいな歌が流行ってた……。

歴史はくり返されるって?

いや、くり返されてしまうようなみっともない、ボケた国民やったと言われてたまるか!

歴史の本に、そんな大人のひとりやったと書かれてたまるか!




これが自由というものか(1954)
作詞・作曲:三木鶏郎
    歌 : 榎本健一

知らない間に実験で   知らない間にモルモット

知らない間にピカドンで 知らない間に水爆病

これは呆れた驚いた   何が何だかわからない

これが平和というものか あちら任せの平和論


知らない間に値上げして 知らない間にMSA

知らない間に教育法   知らない間に機密法

これは呆れた驚いた   何が何だかわからない

これが自由というものか あなた任せの自由論


知らない間に金上げて  知らない間に金取って

知らない間に税金で   知らない間に自衛隊

これは呆れた驚いた   何が何だかわからない

これが政治というものか おかみ任せの政治論




*【MSA協定】 エムエスエーきょうてい

1954年3月8日、岡崎勝男外務大臣とJ.M.Allison(アリソン)駐日アメリカ大使との間で調印された協定で、
〈相互防衛援助協定〉〈農産物購入協定〉〈経済措置協定〉〈投資保障協定〉の4つからなる。

日本の軍事力増強を図るために、アメリカが援助を与えることを主旨とし、
その根拠が、アメリカで1951年10月に成立した、相互安全保障法Mutual Security Act(略称MSA)に求められたので、この名がある。

祈りよ届け!

2013年12月10日 | 日本とわたし
フェイスブックで知り合った友、一也さんは、古神道本宮・身曾岐神社出身の祈祷師さん。

ようこそCafe@神道 祝詞入門へ

神道の祝詞に関するサイトを運営しています。
身曽岐神社出身の元ロッカー、バリバリ反原発です。
祝詞が必要なときは、呼んでくれ。
いつでもかけつけるぜ!


という、めっちゃきっぱりとした男前です。

わたしは若い頃、毎晩祝詞を上げてから、寝床についておりました。
それは、医者から見放された後遺症の症状を、なんとかして治したい!という思いで、新興宗教に入信していた時のことです。
その祝詞を上げていると、心がすうっと穏やかになり、恐いという気持ちが声と一緒に溶け出していったような感じがしました。

祝詞というものの良さは、人それぞれの息と声によって、祈りの気持ちを外に出すことにあると思います。

ここに、彼が創作してくださった、みっつの祝詞を紹介します。

ひとりでも多くの祈りの声が天に届き、大きなうねりとなって、良からぬものを一掃する大きな箒となりますように。

↓以下、紹介はじめ



御挨拶 - Cafe@神道 祝詞入門/祈祷師 神道一也

このサイトは、出来るだけ多くの方に、普遍的な祝詞を身に付けて頂き、
普段の日常生活で実践して頂くことを、第一義の目的としています。

又、古神道本宮・身曾岐神社出身で、祈祷師の私が、バリスタを務めますCafe 巣鴨 桜宮で、
祝詞入門講座を随時開催。
御祈祷も承っております。


原子力鎮静祈願祝詞



国内全ての原子力施設が即刻、永久に運転停止(原発は廃炉)する様に願いを込め、
原子力を司る神々に、祝詞を奏上致しました。

災いをもたらす原子力や放射能が、少しでも早く一掃されます様に。


奏上手順
一.二拝二拍手一拝

二.祝詞奏上

掛けまくも畏き
天之御中主神アメノミナカヌシノカミ
高皇産霊神タカミムスビノカミ
神皇産霊神カミムスビノカミ
八意思兼神ヤゴコロオモイカネノカミ
の御前に恐み恐みも白さく
今より先、此国に原子の力の禍事無く
夜の守り日の守りに守り恵み幸はえ給えと
かしぃこみかしぃこみも、乞い祈み奉らくと白す

三.二拝二拍手一拝

四.一礼

祝詞は本気で真剣に唱えれば必ず天に届く、誰があげても。
~祝詞奏上覚書より~


地震沈静祈願祝詞



日本の国家安泰を祈念し、地震を司る神々に鎮まって頂く様、願いを込め祝詞を奏上致しました。

どうか少しでも、国内大小の余震がおさまりますように。

奏上手順
一.二拝二拍手一拝

二.祝詞奏上
 
武甕槌神 タケミカズチノカミ
大地主神 オオトコヌシノカミ
坐摩ノ神 イカスリノカミ
なゐの神 ナイノカミ
鎮まり給え 

三.二拝二拍手一拝

四.一礼


もののけ姫で、アシタカがタタリ神に「静まり給え」って、アレこそ祝詞。
~祝詞奏上覚書より~


特定秘密保護法 即刻廃止祈願祝詞 奏上


海外からも国内からも、廃止せよ、との悪名高き、特定秘密保護法が成立しました。

本来は、交付から施行まで一年間あるのですが、政府は、なるべく早めに施行したい意思を表明。

そこで、先手必勝!
法律を司る神々に、即刻、この悪法を廃止にして頂く様祈念し、祝詞を奏上致しました。



特定秘密保護法 即刻廃止祈願祝詞

掛けまくも、畏き
高皇産霊神タカミムスビノカミ
天照大御神アマテラスオオカミ
天智天皇テンチテンワウ
文武天皇モンムテンワウ
厩戸皇子ウマヤドノミコ
の御前に畏こみ、畏こみ白さく

此度、自民の悪党が、
天下の悪法 特定秘密保護法を、強行採決、強行成立。
其れを受け、正しき数多の民全てが乞い願う由、
必ずや、速やかに、この法を 廃止給へと、
恐み恐みも、乞い祈み奉らくと白す。



さあ、みなさんもご一緒に。
祝詞を上げ、気持ちを整え、朗々と祈ろうではありませんか!

ありがとう

2013年12月10日 | ひとりごと
ここ数日、我が家は女の子でにぎわってました。
家猫ショーティも入れて、み~んな女子(自分を無理矢理ねじ込むおばはん根性!)なんて夜もありました。
最近落ち込んでたわたしを、まだ落ち込みが続いてやせんかと心配した歩美ちゃんが、仕事帰りにちょこっと寄ってくれたりしました。

一緒にご飯食べたり、買い物行ったり、あれこれしゃべったり、
ああ楽しかった……。

うちにお泊まりしてた、かわちゃんの愛娘こなっちゃんを、空港に送ってった朝は、
それまで暖かめやった空気が、急にキリキリと冷とうなった翌日で、
「雪降ったりして」とつぶやくこなっちゃんに、
「いやあ、雪はまだやろ」と知ったかぶりして答えてたら……、

降ってきたし……。


裏庭続きのおとなりの、プールカバーにも。なんか蝶々みたい。


そのまた翌日の朝、世界は凍っておりました。






おぉ~初つらら!


勝手口の階段も、危ないったらない。


そして今日、10日の火曜日には(あ、弟の誕生日やったっ!!忘れてたっ!!)、いきなりの大雪?!


どんな細っこい枝にも、まんべんにていねいに。


窓のむこうの雪景色。


えらい熱心に降るなあ~雪……。




さて、旦那がおらへんのやから、わたしが雪かきせにゃ。



実はこなっちゃん、こっちに4週間の予定で初の訪米旅行をしてたんですが、
ちょっと心身ともに元気がなくなって、途中で帰ることになったんですね。
で、わたしはただ、寝泊まりする場所を提供しただけの話なんやけども、
彼女が、すごく申し訳ないと、くり返し言うてくれるのを聞いてると、あの時の自分を強烈に思い出したんです。

やくざに追っかけられてた時、名前とか履歴とかを全部偽って、四日市のガス会社に就職してたことがありました。
そこに、学校に戻って勉強を続けるべきだと、担任の教授から電話をいただきました。
これは後で知ったんですが、学びの途中にして断念せざるを得んかったわたしを不憫に思た、生き別れていた母が、
「わたしから連絡したことは、娘にはくれぐれも内緒で」と言うて、教授にわたしの居所を連絡してくれてたそうな。
その教授は、学生生活の日々を過ごす寮の部屋と、練習のためのピアノの用意までしてくださってました。
寮は賄い付きで、毎日三食を作ってくださる寮母のおばさんと、わたしはすぐに仲良しになりました。
彼女はわたしの身の上をとても心配してくださり、朝早くから夜遅くまで、貸してもらったピアノで練習をするわたしに、
これは特別だからねと、時間外やというのに、温め直した温かな食事を出してくださったりしました。

熱心なクリスチャンでした。
詳しい話は聞けなかったけれども、いろいろと苦労を重ねてこられた方でした。
ある時わたしが、
「いつも本当にありがとうございます。このご恩を、わたしはどうやってお返ししたらいいのか」と言うと、
「ありがたいという気持ちは、もうしっかりとわたしに伝わってるから、
あなたがいつか、お返しできるような状態になった時、もし周りで困っている人がいたら、その人を助けてあげて。
それが、わたしへの一番の恩返しになるんですよ」
と、柔らかな、ゆったりとした言い方で、答えてくださいました。

その時のおばさんの顔は、今もはっきりと覚えています。

ありがとうの輪。恩返しの伝言ゲーム。

こなっちゃんが、お別れの時に渡してくれたカードの最後に、こんなことが書かれてありました。
「まうみさんへの感謝の気持ちは、本当に伝えきれません。次はこの恩を、私も誰かにかえしていきます!」

世界にぶわーっと広がっていけばいいなあ。


うれしいおまけ編

時々、我が家の愛娘まなっちゃんが、たくさん作り過ぎたから、などと可愛らしい言い訳をして、
なんと、わたしの分までお弁当を作ってくれる。

これは、彼女の好物スパむす。


スクランブルエッグとスパムという、豚肉をハムのような缶詰に加工したのを、小判型に握ったおにぎりの上に乗っけたのん。
ほんでもって、栄養をよく考えた野菜のおかず。
かぼちゃの煮っころがしと三度豆のゴマ和えはわたし。


まず前に立ち、手を合わせて感謝する。

これは、朝食のミニクロワッサンとランチボックス。
会社の移転が遅れて、家で仕事をしてる次男くんのと、並んで置いてくれてあった。


ありがとうまなっちゃん。

デモは、いてもたってもいられなくなった人たちの行き場所

2013年12月09日 | 日本とわたし
↓以下は、先月の11月23日に、mikushka719さんという方がツィートで話してくださった、ドイツのデモ事情です。

デモは誰が何と言おうと、人数が命だ。
日比谷の野音デモに参加してた一人として、こういう事はあまり言いたくないが、
一万なんて人数では、本当は話にならない
影響は与えられても、動かせない
それが100万になれば、話はもちろん変わってくるだろうけど。
ここから、ドイツのデモ事情をちょっと紹介。

まず、平日に大きなデモは打たない。
絶対、土曜か日曜日にやる。
土曜が一番多い。

ベルリンはデモの街。
ドイツ全土からその日をめがけて、遠方からもデモにやってくる。
遠方から来る人の為に、安い交通網情報をネットで紹介したり、
宿泊する人たちのために、倉庫みたいな所や大きな市場などを押さえて、
デモの参加者達が、無料で泊まれるようになっている。
但し、寝袋は持参。
それがイヤな人は、低価格で泊まれるホテルや、ユースホステルなどを使っている。
参加してみて初めて分かったが、参加者へのケアは、本当に素晴らしい。
誰も知り合いがいなくても、孤立しないようになっている。
残念ながら、日本のデモでは感じが大きく違う。
組織で参加してる人は別として、個人の参加者は孤立しやすい。
友人などと来ている人は別として。

次。食事のサポート。
デモ用に、専用の料理人がいる。
食事は無料で、出発会場、宿泊施設などで振舞われる為、食事の心配をいちいちする必要が無い。
ゴアレーベンなどで大活躍した伝説の料理人を、友人を通して知る機会があったので、
デモ前夜のプレパーティで、様子を見せて頂いたが、
日本では見たこともないような大鍋を幾つも使って、次の日のデモの為に、スープや煮込み料理を仕込んでいた。
こういう規模には、日本のデモはまだ程遠い。
文化的背景が違う、というのもあるだろう。
だがしかし、大人数でデモを闘い抜き、脱原発を民衆の手で勝ち取った、ドイツのデモのやり方に、
私達は、学ぶべき所が沢山あるように思う。
因みに、プレパーティというのは、デモ参加者達が(全員ではないが)前日に行う、準備を兼ねたパーティの事。
ここでも食事は振舞われる。
しかも、お酒なども買える。
飲み物は全て有料だったが、どれも安い。
そしてテクノの街、ベルリンでは、テクノディスコのようなコーナーもあって、
参加者達が踊れるようにもなっている。
ここで、私が特に素晴らしいと感じたのは、
お一人さまの参加者がいると、様々な人が声をかけて、孤立しないようにしている事だ。
もちろん、デモ中は、みんな好き勝手に歩いているだけだが、
プレパーティみたいな場所では、お一人さま参加者は孤立しやすい。
そこら辺のサポートは、日本のデモとは比べ物にならないくらい上手で、オトナだな~と私は思ったのでありました。
日本は、デモの歴史があちらに比べれば浅いから、ある意味当然なんだろうけど、
まだまだ成長する必要があると思う。
但し、残された時間はあまり無いかもしれないが。
以上、ドイツのデモ事情、連投ツイさせて頂きました。

↑以上、転載おわり

デモ……。
わたしが初めてデモというものに参加したのは、イラク戦争反対を訴えるマンハッタンデモでした。
訴えていることはとても深刻なことでしたが、みなそれぞれ、思い思いのプラカードを持ったりして、
それまでもっていた印象と、かなり違うな……と思いながら歩いたのを覚えています。
99%デモでは、拡声器を一切使わず、中心に居る人の言葉を、近くの集団がまずくり返し、
その後は順に、伝言ゲームのようにして、後ろまで伝えていくという、
その人の声と思いとが、水面の輪のように広がる様に、とても感動を覚えました。

デモは、いてもたってもいられなくなった人たちの行き場所。

本当にそう思います。



山本太郎氏らと共に三宅洋平氏が「大デモ」開催
「デモは、いてもたってもいられない人たちの行き場所」




7月の参議院選挙に立候補し、17万票を獲得したミュージシャンの三宅洋平氏が提唱した「大デモ」が、12月7日行われ、
スタート時に、およそ3000人の参加者(主催者発表)が、東京都渋谷区の代々木公園から渋谷・原宿を巡った。
デモには山本太郎参議院議員や、山田正彦元農林水産大臣らも参加した。

デモは、前日に成立した特定秘密保護法案成立を受けて、反対の声を上げる人が多くを占めた。
その他、政府が「原発ゼロ」政策の転換を、改めて示したことへの反発、
7日から、閣僚会合が始まったTPP(環太平洋経済連携協定)に反対するアピールなど、
参加者はそれぞれの主張を掲げながら、サウンドカー上の生バンド演奏や、DJの音楽に合わせて行進していった。

デモといえば、全共闘時代に行われていたように、市民団体や労働組合が主催し、
シュプレヒコールを上げながら行進するイメージを持ちがちだ。
しかし、今回のデモは、個人の意志で参加する人が多く、
プラカートを掲げなから叫ぶ人もいれば、家族連れで散歩のように付いていく人もいるなど、
それぞれの人が思い思いに、デモに参加していたことが特徴である。
なぜ人々は、こうした「新しいデモ」に参加しているのか?
そして、デモで政治を変えることができるのか? 
現場の声から模索する。


■ 山本太郎氏「デモは、普段一人ひとり行動している人たちが、勇気をもらえる場所」

デモ参加者に、今回参加したきっかけと、こうしたデモで日本を変えることができるか、を尋ねてみた。



デモで日本を変えられるとは思いません
変えられるのは選挙だから、選挙で変えられるような方向に持って行くには、どうしたらいいかを考えています。
秘密保護法が通ったということもあって、今は何もできない中で、
自分の意志を示すとしたら、デモに参加することかな、と思います。(カット―さん)



秘密保護法とか、原発とか、洋平くんの話を聞いていると、いてもたってもいられなくなって、長野からみんなで来ました。
デモで日本は変えられると思います。
デモをすることで、知らない人を巻き込めば、みんな目が覚めるんじゃないかな。(ヒガシさん)



娘が7カ月なんですが、この子たちの未来を作っていくために、富山県から参加しました。
まだ、子供は喋れないので、この子の代わりになって、声を出していきたい
秘密保護法案は支持していないし、私たちは声ある市民であることの、意思表示をしていきたい
こうしたデモで今日明日すぐに変わると思いませんが、続けていくことで変わると信じています。(カオリさん)



じっとしていられない気持ちで、デモに参加しました。
歩くことで何か示すことができるんだったら、いいじゃないですか。
黙っていると、何も変わらないと思うんですよ。
今の時代は、昔みたいにシュプレヒコールを上げて、デモ行進するものではないと思います。
こうやって渋谷の街を歩けば、同じように思っている人が多くいるんだな、と伝わるんじゃないでしょうか。(アキオさん)



三宅洋平さんのバンド「(仮)ALBATRUS」のライブに行ったときに、今日の大デモの告知があったので、
それで知って、神戸から参加しました。
デモに参加したのは、今日が初めてです。
特定秘密保護法が通ってしまって、このまま何もせずに待っているのではダメだし、一人だけでも力になれればいいなと思って。
こうしたデモで変わるかと言われれば、正直わかりません
しかし国民が意志を示すことは、大事なんじゃないかなと思います。(アイさん)




特定秘密保護法が通ってしまったことは、大変悔しいのですが、数の論理から言えば、結果はわかっていました
秘密保護法は、最悪の法案ですけれども、多くの人たちが、
権力は、僕たちの幸せとは真逆の方向に動いてしまっていることを意識できたし、現実を知ってもらえたと思うんです。
皮肉なことですが、国民の力を集めて一つにすることに、大きな役割を果たしてくれたと思います。
この最悪な状況の中でも、一つだけいいことを見つけるとするならば、
今回の秘密保護法によって、多くの人が、とんでもない不条理を押し付けられたという、意識が芽生えたと思うんですよね。
だから、今回のことは、次のステップに進むために重要なことで、
秘密保護法が成立した瞬間からが始まり、そして今日からが始まりだ、と思っています。
僕が初めてデモに参加した時から、考えていたことなのですが、
デモというのは、関心のない外側の人に知ってもらう、という側面もあると思うんですよ。
その一方で、普段、一人ひとり行動している人たちが、勇気をもらえる場所でもあると思います。
デモは、外に向けてのアピールという意味合いもあるけれども、
横のつながりをもっと太く、深くする役割を果たしていますから、必要なものだと思います。(参議院議員・山本太郎さん)



私は福島出身で、上京してきたのですが、
3.11以降の国の体制や、福島原発事故への対応を見ていたら、ちょっとおかしいんじゃないかと思って。
恥ずかしい話ですが、そこからメディアに対する不信感や、政治に対する関心が芽生え始め
同じ気持ちを抱えていた仲間が集まって…という流れの延長線上で、今日のデモに参加しました。
デモで日本は変えられると思います。
2012年7月16日の「さようなら原発集会」に17万人が集まったときに、
一人の力は、自分たちが気づいている以上に大きい、ということを実感しているからです。
だから絶対に日本は変えられると確信しています。(リナさん)



今日の大デモは、三宅洋平さんのTwitterで知りました。
デモに参加するのは、今日が初めてです。
秘密保護法が大きなきっかけですね。
子供も連れて気楽に参加しましたが、子供の将来に関わることなので、
デモに参加すること自体が大切なことかな、と思っています。
デモで何かが変わるかと言われたら…うーん、わからないです。
しかし、三宅洋平みたいな人が出てきて、時代が大きく変わっているんだなということは感じますね。(サトシさん)



納得いかないことがたくさんあることと、洋平が頑張って煽ってくれているんで、付いていかないと、という気持ちで参加しました。
デモで日本を変えられるかどうか分からないけれど、自分たちの考え方が変わったら、いい方向に転がっていくんじゃないかな。(きっしーさん)



■三宅洋平氏に聞く「デモのあり方」



このように、参加者のモチベーション、スタンスには違いがある。
また、デモに参加していない沿道の人たちに、話を聞いてみると、「騒がしい」「邪魔」と、眉をひそめる人も少なからずいた。
そして、もっとも多かった意見が、「何をしているのかわからない」というものだった。

また、自民党の石破茂幹事長は、自身のブログでデモについて、
単なる絶叫戦術は、テロ行為とその本質において、あまり変わらないと思います」
(後に、[本来あるべき民主主義の手法とは異なるように思います]と訂正」と疑問を呈するなど、
デモのあり方そのものを、問う動きもある。

デモは、参加者の求心力を高めることはできるが、それ以外の人たちとの温度差は埋められない
デモは果たして、有効な手段なのか。
政府や国を動かす、原動力となりうるのか。
そうした疑問を、今回のデモの提唱者である、三宅洋平氏に尋ねてみた。

「おそらく、デモをやったからって、何かすっきりするということは永遠にない、と思います。
デモで変わるかどうかというよりも、いてもたってもいられなくなった人の行き場所の一つとして、デモがあると思うんです。
いてもたってもいられなくなった気持ちそのものは、間違いなく友達や家族、たまたま通りすがった人に、何かしらの影響を与えられる
そういった意味では、効果は絶対にあると思います。

ただし、秘密保護法案を廃案にするといった、政治的実行力を求めるとするのなら、選挙に立候補するしかない、と思いますね」


デモにもさまざまな形がある。
年輩の人には、安保闘争や労働組合のデモが、イメージとして残っているだろう。
海外を見れば、チュニジアやエジプトなどでの革命につながった、「アラブの春」など、一部で暴力的な手段につながったものもあれば、
医療や教育の充実を求めて、ワールドカップに反対したブラジルのデモなど、平和的に行われたものもある。
三宅氏が考える日本のデモのあり方は、どのようなものだろうか。



「日本では、平和なデモが根幹にあると思いますし、
安保闘争のようなデモが成功体験になっている世代がいる一方で、トラウマになっている世代がいますから、
そのトラウマの原因を、明らかにしていかないといけないと思います。
僕自身、『平和のために闘ってどうするんだ、闘ったら平和じゃないじゃないか』と思ってきた世代なので、
楽しそうだし、子供も参加できるデモを志向したい
僕が思うのは、デモの場を通じて、参加者がお互いにモチベーションを喚起し合えればいい、ということです。
政治について知ろうとする政治について自分で動こうとする
社会に対して自分が何をできるかを考える、あるいは、政治や社会で何が起きているかを知る
それについて、動いている人たちの姿を目の当たりにすることで、やる気を補填しあう場になればいい、と思います。
デモから自分たちの住む街に帰っていって、より具体的な社会参画に向けての、『やる気』を養っていくきっかけになったらいいなと」


■「何のデモかわからない、という声もあるけど、それがテーマなんです」

大デモでは、「飛び入り参加OK」を掲げ、自由に参加できる方式を模索していた。
しかし、現実には、参加者が雪だるま式に膨れ上がることは稀である。
外部からしたら、「何をしているのかわからない」という、戸惑いの方が大きいだろう。
それほど、デモに参加する人とその外側の人たちとの、壁は厚い。
その壁を打破し、さらに大きなムーブメントにしていくためには、何が必要なのか。

今の東京で、通りすがりに、踵を返して参加できるスケジュールで動いている人は、ほとんどいないと思います。
ただ、飛び入りOKと言われて、そのときに、一瞬躊躇することもあると思います。
初めて、音楽のライブとかフェスティバルに行った人が、踊るのはちょっと恥ずかしいな、と思っていたのが、
何かのきっかけで、『ああ、踊っていいんだ』と感じて、
実際に踊ってみたら、『ああ、こんな自分がいたんだ』と、気づく瞬間があると思うんです。
そういう『誘(いざな)い』をしていきたい。
周りがみんな踊っているのに、自分だけもじもじして踊れない、ということがあると思うんです。
そういう思いをしている人は、いっぱいいる
だから、僕たちが言っている『飛び入り参加OK』というのも、
今回のデモを見て、次はちょっと参加しようかな…と思ってくれるような、それくらいのタイムラグを含んだものなんです。
日本の現状や、日本人の心理を考えると、それくらいのスパンでゆっくり広げたほうがいい。

何のデモかわからない、という声もあるけど、それがテーマなんです。
このデモが何なのかを、考えてくれればいいわけで、
デモで何を言っているんだろう、というところから始まって、
今日本で、何を言わなければいけないのか、自分なら何をいうのかを考える。
それがデモなんです。

これは○○のためのデモなんです、という扇動をされないと、ついていけないような心理状態だと
秘密保護法やTPP、原発に反対しても、止めることができない
そんな従順な国民でいることはやめて、自発的に自分が考えたことを訴える場が、デモなんです。
そういう意味では、『これは一体何なんだ』と思わせたら、デモは成功です。

日本人の内気さを、ブレイクスルーする文化を形成していきたいし、
たとえば外国人が気軽に、楽しくパーティーに参加しているのを、遠巻きに見ているのではなく、
「楽しそうだな、みんな一般人なのに芸能人みたいだな、なんか俺たちも垢抜けたほうがいいんじゃないか」と思えるようにしていきたい。
だから、自分は率先して、外国人から見ても驚かれるような、生き様を通してきました。
そのほうが楽しいからなんですけど。

そうは言っても、日本人はクワイエットな民族、物静かな民族なんだ、という人もいます。
それで楽しければいいですけど、本当にそれで楽しいの?と思うんです。
言いたいことも言わないで、恥ずかしがってばかりいて、先頭に立つこと、目立つことを恐れる
だから、山本太郎くんのような存在が浮き上がってしまって、イメージも抹殺されていくんです。

デモで、無数の人たちが、もっと『キャラ立ち』してほしいんですよ。
今日の、『何を言っているのかわからない』という周囲の声は、僕も広げていきます。
次、デモに来るときは、もっとプラカードなどをもって、自分の言いたいことをもっと訴えなよ、と問いかけます。
『何を言っているのか分からない』という声が多かった、という事実に対して、
いや、それは、三宅さんがデモのテーマを言ってくれないからですよ』という人もいるかもしれません。
そこで僕は、『だから、それを考えるのはみなさんでしょ』とひっくり返していきます。

デモは、みんなの空間として常に開かれていて、誰のものでもない場なんです。
そして、デモは、禅問答のようなものなんです。
『これは何のデモなんですか』と聞かれたら、『何のデモだと思います?』と問い返します
僕自身は、音楽を通して、常にそうした『問い返し』をしています。
だから、僕の音楽はわかりにくくて、売りにくいんですけど(笑)、伝わる人にはちゃんと伝わります。
なぜ伝わるかというと、その人が、人から教わったのではなく、
『この人の言いたいことが分かった、自分でつかめた』という、自負が持てるからなんです。

そういう自立性が、今の日本には足りない
だから民主主義が機能しないんです。
だからポピュリズムに走るし、コマーシャルに流されてしまう
しかし、みんなの知力、情報収集能力は、かなり高いレベルに来ている、と思います。
個人的な意見を言ってはいけない、という空気の中で、
あなた自身の思っていることを、堂々と言ってもいいんだよと言いたいですね」