白鷺だより

50年近く過ごした演劇界の思い出話をお聞かせします
     吉村正人

白鷺だより(184)「文七元結」

2017-01-07 11:12:02 | 映画
     文七元結

今年のシネマ歌舞伎は人情噺「文七元結」からスタートである 
2007年10月新橋演舞場で公演されたものである この舞台は山田洋次が補綴 監修しており映画版の監督でもある 亡くなった勘三郎(2012年死去)芝翫(2011同) 小山三(2015同)の元気な姿が見られる こんな醍醐味は映画ならではだ

ざっとこんなあらすじだ

本所達磨横丁に住む左官の長兵衛(勘三郎)は腕はいいが博打にこり仕事も録にしないんで家計は火の車 借金も50両も超え年も越せないありさまだ 今日も博打ですってんてん法被一枚で帰ってみると今年17になる娘のお久(芝のぶ)がいなくなったと女房のお兼(扇雀)が騒いでる あの娘が身でも投げたら私も生きてはいないと泣き叫ぶのを聞きながら持て余していると出入り先の吉原角海老からの使いがやってくる
「お久を夕べから預かっているからすぐ来るように」と女将さん(芝翫)が呼んでいるという お兼の着物を剥がし使いの者の羽織を借りて駆け付けるとお久が女将さんの傍で泣いている 
「親方 おまえ この子に小言なんかいうとバチが当たるよ」
実はお久は自分の身体を売って金をこしらえ親父の博打狂いを辞めさせたいと涙ながら訴えたという 女将の意見を聞き長兵衛つくづく迷いから目が覚めた
お久の気持ちに対してだと女将は50両貸してくれ、来年の大晦日までに返すように それまでは店に出さず身の回りを手伝って貰うが一日でも期限が過ぎたら
「わたしゃ鬼になるよ」
娘が可愛いなら一生懸命働いて請け出しにおいでと言い渡された長兵衛 必ず迎えに来るとお久に詫びての帰り道 吾妻橋に来かかった時 若い男が今しも身投げしょうとしているのに遭遇 抱きとめて事情を聞くと男は日本橋横山町にあるべっ甲問屋和泉屋清兵衛(弥十郎)の手代文七(勘九郎)と名乗り 「掛け取りの帰り受け取った50両をすられ 申し訳なさの身投げだ」という 「どうしても金がなければ死ぬしか他はない」と聞かないので長兵衛迷いに迷った挙句
これこれで娘が身売りした大事な金だが命には代えられない と断る文七に金を叩きつけて帰って行く・・・

 この元円朝の落語から始まったこの話は今や談志、円楽 しん朝も得意ネタにしており
円生などは吾妻橋での長兵衛の心理描写を細かく演じ「本当にだめかい?」と何度も何度も金包みを出し入れを繰り返した 
勘三郎の演技はこの辺りもおそらく参考にしたと思われる
また いくら義侠心に富んでいたとしても長兵衛が娘を売った金をくれてやるのは非現実的だという意見に談志は
「つまり長兵衛は身投げに関わりあったことの始末に困って50両の金を若者にやってしまっただけのことなのだ だから本人にとって美談でもなんでもない そして良いことをしたという気持ちもない どうにもならなくなって その場しのぎの方法でやったまでのこと・・・いや きっとそうだ」と答えているが勘三郎はこの辺りの気持ちを演技に取り入れている

この落語は歌舞伎にも脚色され初演は明治24年大阪中座だが 長兵衛役は明治35年五代目尾上菊五郎以来六代目菊五郎 二代目尾上松緑 十七代目中村勘三郎 現七代目菊五郎 十八代目勘三郎と受け継がれている 
六代目菊五郎口伝 「左官は普段の仕事のくせで 狭い塀の上を歩くようにつま先で歩く」

 この芝居は梅沢劇団で最初で見た 梅沢の芝居はどんな芝居でも大川端での身投げから始まる「芸者の意気地」「幸助餅」みんなそうだ そうこの芝居は全ての芝居の源流のような芝居だ

僕は幸助餅の芝居(江戸みやげ夫婦餅)をやるとき円朝作「文七元結」を参考にした 


     (1月4日 なんばパークスシネマにて)