白鷺だより

50年近く過ごした演劇界の思い出話をお聞かせします
     吉村正人

白鷺だより(331)克美しげるの「おもいやり」

2018-07-29 12:35:58 | うた物語
克美しげるの「おもいやり」

「さすらい」
泣いてくれるな 流れの星を
   可愛い瞳に   よく似てる
   思い出さすな  さすらい者は
   明日の命も  ままならぬ


 克美しげる(克美茂)は1950年代後半より始まったロカビリー旋風を追い風に ナベプロ所属というバックもありヒットポップスの日本語カバー「霧の中のジョニー」(62年)「片目のジャック」(62年)「さいはての慕情」(62年)「史上最大の作戦のマーチ」(62年)「思い出のサンフランシスコ」(63年)「北京の55日」(64年)などのヒット曲を連発 その後の「エイトマン」(64年)などのアニメソングのヒット 飯田久彦や佐川みつおと同じように歌謡曲でも64年「さすらい」で60万枚の大ヒットを飛ばし 一躍人気スター歌手の仲間入りを果たした 僕ら田舎の少年も「泣いてくれるな~」と歌っていたほどのヒットであった 念願の紅白にも出場出来(65、66年)NHKのドラマ「人形佐曵七捕物帖」の岡っ引き豆八役でレギュラー出演も果たした 
だがこの頃が人気のピークでその後ヒットもなくスターの座から落ちて行く

そんな低迷から脱却をはかるため事務所も変わり(秀和プロ)そこで音楽関係者への接待などで借金1000万を作ってしまう
そんな彼を支えたのは東京青山のスナックで知り合った岡田裕子であった 彼女はもと銀座ホステスでマリ子という源氏名だった 裕子は相手が人気歌手だと知って積極的に近づき克美は二度の結婚と水商売で身に着けた裕子の熟れた肉体に溺れて行った
だが毎月貰う30万の魅力には勝てず 借金を返してもマージャンなどのギャンブルで再び借金を作ってしまう 裕子に貢がせた金でやりたい放題の生活 裕子はクラブでの収入では追い付かずソープランドに出て貢ぎ続けた その金額は合計3500万にも達した

しかし裕子は結婚願望も強かった
克美は二人の結婚写真を撮って彼女の岡山の実家に送ったり ふたりの「愛の巣」のマンションにも克美の本名「津村」の表札を架けていた これに対して克美を知る当時のマネージャーで後に「殺意の演奏」で乱歩賞を受賞したミステリー作家の大谷洋太郎はこういう 「克美は実に思いやりがあった タバコも買いにやらされたこともない 旅館に入れば彼の方がお茶を入れてくれた」ほかに知人もその真面目さ、性格のやさしさを挙げる
それが災いした

1975年 低迷から脱却を図るべく東芝レコードが克美のカムバック企画を実施、芸名表記も「克美茂」に改め 「傷」「おもいやり」で再デビューを果たした この時克美は裕子との不倫が発覚してスキャンダルになることを恐れ裕子の元を離れて妻子と暮らし始めた その結果克美に妻子がいることを裕子に知られてしまい「マスコミに全て話してやる」と克美を攻めた 仕方なく妻子とは別れると誤魔化した
キャンペーンに北海道に旅立つ前日5月6日
「奥さんと別れるなんてウソやろ!いいわ 私が奥さんの所に行ってかたをつけてやる」
裕子はこう言ってわめいた そしてありとあらゆる言葉で僕を罵った 僕はこのとき<今
殺さない限りこの女は黙らないな」と思った 今思うと裕子には裕子なりの願いと言い分があったのだろうが・・・」 そして・・・・

翌7日克美は札幌のキャバレー「エンペラー」のステージ新曲「おもいやり」を熱唱、
土下座して「新人になったつもりでがんばります!」と言ったという こんな詩だ
特に3番はどんな気持ちで歌ったか興味がある

     「おもいやり」  作詞 阿久悠
1 ないてくらすなよ 酒もほどほどに
  やせたりして体を 悪くするじゃない
  せめて別れの握手に 心こめながら
  お前にささやく 胸の内を
  じっときいてくれ
  すねて泣くじゃない
3 五年過ぎたかな ここの愛の巣も
  気づかないでいたけど みんな思い出さ
  大人どうしのくらしに 幕を下ろす時
  お前が行くまでしゃれていたい
  肩で泣くじゃない
  胸で泣くじゃない


翌日の朝、裕子の死体が羽田空港駐車場の彼の車のトランクから発見され栄光への階段はもろくも崩壊した

この曲はボツにするにはあまりにも勿体ないと のちに黒木憲が改めてリリースした


白鷺だより(330)ターキーと裕次郎

2018-07-26 17:16:28 | 人物
ターキーと裕次郎


水の江瀧子、本名 三浦ウメ 大正4年北海道生まれ
(1984年 実兄の弟三浦和義のいわゆる「ロス疑惑」で彼が隠し子だとの噂)
浅草松竹座に東京松竹楽劇部が発足した昭和3年 その一期生だった
昭和6年のレヴュー公演「万華鏡」で水の江はカウボーイに扮したが
「俺はミズノエタァキーだ」というセリフが受けてターキーの愛称で親しまれる
水の江会というファンクラブが組織され会員には月刊誌「タァキー」が送付された

昭和8年松竹少女歌劇団(正式にはこの事件のあと名前を変えた)への会社(松竹)側の不当労働行為に反対する争議団(いわゆる桃色争議)の委員長を男装の麗人スターとして買って出た このあとレヴュースターとしての絶頂期を迎える
後発の松竹が宝塚と肩を並べたのもタァキーの力が大いに預かった

日中戦争の兵士慰問で中国北部を訪れ ノイローゼとなる 
松竹歌劇団を退団して(松竹は休団扱い)何もかも捨てるため昭和14年横浜港より渡米 
その後ヨーロッパまで廻る予定であったが大戦の激化に伴い昭和15年帰国 
帰国した水の江を待っていたのは男装禁止の通達であった 

これではレヴューもままならぬと恋人であった松竹宣伝部の兼松と劇団「たんぽぽ」を立ち上げる 
戦中戦後にかけて劇団「タンポポ」の座長として慰問、巡業の苦労をする

昭和27年兼松は松竹のスター鶴田浩二とともに「新生プロダクション」を設立 
瀧子も所属したが独占欲の強い鶴田が「水の江君を取るか 僕を取るか」と迫ったため瀧子は身を引いて引退を発表 
昭和28年NHK開局と同時に始まった「ジェスチャー」に柳家金語楼と出演 ぼくらはこれで水の江瀧子を毎週見ていた

昭和29年兼松が鶴田が作った借金3000万円を背負い自殺 
当時二人で住んでいた鎌倉の自宅も担保に入っていたため差し押さえられた
 
しかし兼松も瀧子の身の振り方・生活支援を遺書で多くの友人・知人に頼んでおり その一人であった報知新聞社長深水和夫が松竹の大谷竹次郎、城戸四郎、大映の永田雅一に会ったが相手が一世を風靡した水の江瀧子であったので二の足を踏んだ そこで新発足した日活の堀久作にあって日本で最初の女性プロデューサーの誕生となった
月給20万は高額だったが これで税金の未納分と借金を返してギリギリの生活だった

第一作は「初恋カナリヤ娘」日劇のスター岡田真澄を使った
第二作は「緑はるかに」ヒロインオーディションで浅丘ルリ子 補欠の桑野みゆき
ミュージカルシーンのアンサンブルで山東昭子 安田祥子 滝瑛子 榊ひろみなどを選び みな映画界に残った

昭和30年秋 一橋大学生 石原慎太郎が「太陽の季節」で文学界新人賞を受賞する
この原作権をいち早く取ったのが日活企画部の荒牧金光という男であった

水の江の書いたものによると
「企画部に荒牧さんという人がいましてね とっても若い感覚を持った人だったの
その人が私のところに「太陽の季節」の企画を持ってきたのです 「面白いじゃないの」というと水の江さんが初めて面白いと言ってもらえたって 他のプロデューサーの誰もが判らないっていわれて最後に私のところに持ってきたのね ・・・(中略)
私は作者石原慎太郎でやりたかったんですけど「プロデューサー会」で吊し上げを食ったのね プロヂューサー全員が「こんな不道徳なものを」「女のくせに・・・」「後から入って来たのに・・」ってもんでね そして作品が芥川賞を取ったんで「それ行け!」となった

結局長門裕之、南田洋子主演で脚本監督は古川卓巳でスタートするが・・

当時モダンさにおいて他社より抜きんでいたと思われる日活の活動屋も作者慎太郎からみて余りにも情報不足であった

「東京の片田舎にあった日活村から湘南にロケーションに来ていた活動屋たちには私の作品に出て来るような風物はほとんど未知のものだったらしく 現場で色々滑稽な混乱があった その度プロヂューサーの水の江瀧子は私に質問してき 私は面倒くさくなって私よりその道の専門であった弟を相談役として推挙した

その弟裕次郎は気安く相談に乗っているうちにちょっとした役で出演することになる
ベテランのカメラマン伊佐山三郎がルーペを覗いて「ファインダーの向こうに阪妻がいる」と感嘆した

この映画は「単に筋をなぞっただけ」(慎太郎)であったことは多くの観客が感じたことだが皮肉にも興行的には大ヒット 

プロデューサー水の江滝子は認知され次回作も慎太郎原作脚本「狂った果実」を裕次郎主演で企画 
かねてから才能を認めていた中平康を監督に抜擢して撮った
その旧来の映画よりもはるかに速いセリフ廻し カット割りは当時の若者に圧倒的に支持され 
主演の裕次郎、弟役の津川雅彦 ヒロインの北原三枝は一躍アイドルとなった

この年昭和31年裕次郎は「乳母車」「地底の歌」「月蝕」「人間魚雷出陣す」「お転婆三人娘」
翌年の32年は「ジャズ娘誕生」「勝利者」「今日のいのち」「幕末太陽伝」「海の野郎ども」「鷲と鷹」「俺はまってるぜ」
そして決定打「嵐を呼ぶ男」

映画館のドアが閉まらないほどの客と誰もが口ずさんだ映画主題歌
 
裕次郎は水の江の手を離れて大スターとして飛び出した

白鷺だより(329)松竹新喜劇「人生双六」のこと

2018-07-24 19:25:29 | 松竹新喜劇
松竹新喜劇「人生双六」のこと



 松竹新喜劇(なんでわざわざ松竹を付けなければならないのか、昔は新喜劇でまかり通った 新喜劇=松竹新喜劇これ常識)のHPの裏表十八番、寛美二十快笑の「人生双六」の解説によると「人生に挫折しかけた二人が再会を楽しみに人生双六のスタートを切った そして五年・・・」というあらすじと共に茂林寺文福・館直志合作とある

 松竹が出している「昭和の南座」によるとこの「人生双六」は昭和13年中座「松竹家庭劇」にて初演
触れ込みは過日新聞社会面を賑わせた「出世双六鉄鋼競争」から取材 これぞほんまの「ニュース演劇」であった
(色々調べたがこの出世双六なる記事の内容はわからず)

茂林寺文福・館直志合作
松竹家庭劇「人生双六」全3場

田舎から来た男 宇田信吉 曾我廼家十吾
失業者    浜本啓一  澁谷天外(二代目)
材木商鈴木久三郎     曾我廼家淡海
浜本の妻美沙子      石河薫


 僕はこの話を違うタイトルで読んだことがある 古本屋に積んであった表紙の千切れた昭和初期の喜劇台本を集めた本の中に「日本橋」というタイトルで 日本橋の地下鉄工事で知り合った二人が何年か後に出世していても又していなくてもこの工事現場で会おうと約束して別れる 一人は出世するがもし相手がそうでなかったら・・と昔の汚い作業服を着て会いに行くとやってきた男は案の定 見すぼらしい恰好をしていた・・・
実は彼も出世していてお互い相手を思いやってみすぼらしい恰好をしていたという話
丁度出世双六という文字が新聞に踊っていたので古い本を思い出し手を加えて作り上げたと思われる


昭和13年当時は音楽はレコードをかけるか 生演奏でBGを流すかしかなく 義太夫も生で三味線と演奏されたと思われる 
二人の心情を隣から聞こえる義太夫「勧進帳」で表現するという手はその当時だったら目新しかったのだろうが 
今やあまりに古すぎる
普通のBGで出来ないものか

 幕開きに流れる「ふるさとの話をしよう」は懐かしかった 僕は「ふるさとの話をしよう」という曲は確かにその年にABCラジオで初めて聞いているが昭和40年には町で流れるほどヒットしていなかったと思う
というより時代を昭和40年にした意味が全く判らない 
その頃町でウロウロしていたら自衛隊の勧誘が近寄ってきて入隊させた 僕も何度も梅田のパチンコ屋で勧誘された

この宇田、浜本役は のちに寛美、小島秀哉コンビが有名だが
昭和56年5月の南座では寛美が浜本に回り弟子の山崎怪童を宇田に抜擢 
その年の十六夜会の奨励賞を受賞したと記録にはあるが実際はいじめ斃されて とどの結果彼は新喜劇を辞めたという
(彼は現在 山崎海童という名前で役者を続けている)
昭和62年10月にも浜本に回り 宇田を玉太呂 寛太郎のダブルでやらした
平成17年日本香堂では八十吉の宇田で天外の浜本だった
扇治郎の宇田は寛美のモノマネばかりが目立ってハートのなさを露呈した
九月の松竹座の新喜劇は扇治郎の宇田はそのままで 浜本には天笑と植栗が抜擢、ダブルキャストで挑戦するが二人ともスター性がないだけに大丈夫か?
ともかく浜本役 寛美だったらどう演じたか(その映像はないと思う)考えながら演ってみようか

僕が見た日より小島慶四郎さんが休演した
うどん屋のおやじ役を天外が代役したが やはり慶さんがいないと新喜劇ではないので頑張って下さい

かって松竹新喜劇が演舞場にやってくると 東京に夏が来ると言った風物詩が定着した時代があった 
いつしか東京の若いコメディアンは年に一度新喜劇が来ることを待ちわびた
僕が演出していた頃は志村けんが恋人を連れて幹事室で見ていた
パンフレットによると昭和27年5月に初東上以来ずーっと演舞場に上がっているが
今やお荷物劇団というしかない状態がありありだ

 もう一本の「峠の茶屋は大騒ぎ」は昔からある「七両二分」だがいかにもゲストの久本用の芝居といえる 
脚本・演出の池田君がいかに奮闘しても天外があんな芝居をしているようでは面白くもなんともない 
ちょうど調子が悪かったなど その回のみの客には言い訳が出来ない 
貫太郎の質屋の番頭も浮いていて何をやっても空回り
(寛太郎は明治座とダブって出演 口上も休演 こんなことを許す劇団に成り下がった?)

この「七両二分」新喜劇では寛美(大工長兵衛)・鶴蝶(おかん)コンビが名コンビと言われた
僕がミヤコ蝶々のおかんでやった時 この芝居は「晴れ晴れ街道」というタイトルだった
(相手役は芦屋雁之助だった)
やはりおかん役が久本では・・・・

新喜劇は今年僕と同じく70歳となった
はっきり言って僕の方が若い!!

(2018 7・20 新橋演舞場にて観劇)

白鷺だより(328)高樹沙耶と「大麻」

2018-07-14 13:27:16 | 人物
 高樹沙耶と大麻

 韓国でちょっとヒットした(300万動員)したコメデイ映画で「麻婆島」(まばと)がある こんな映画だ 使っていた女に宝くじの当たり券を持ち逃げされた社長の主人公は悪徳刑事と女を追って彼女の生まれ故郷、地図にもない「麻婆島」に釣り人に変装して渡る その島の住民は5人の婆さんたち 共同で自治管理している そこへ男が久しぶりにやってきたので歓び襲おうとするが・・・最終的に見付かった女は島に渡る船でカモメに辺りくじをカモメに持って行かれたと主張する 婆さんたちはお詫びにと島全体に自生している大麻を差し出す 日本と同じように韓国でも戦後大麻は禁止となったが進駐軍の芽が届かない小さな島にはその影響はなかったのであろ



人気ドラマ「相棒」で杉下右京の元妻で小料理屋「花の里」の女将宮部たまき役の益戸育江が突然降板 所属事務所のオスカープロモーションも辞め引退 かねてより経営していた沖縄石垣島のコテージを運営しつつ 驚いたことにその年の参院選にかっての芸名高樹沙耶名義で立候補
高樹沙耶という名前は1983年のデビュー作 伊達一行作、石井隆脚本、和泉聖冶監督「沙耶のいる透視図」の主人公の名前だ
しかも「大麻は私個人の感覚としてお酒、たばこ、チョコレートよりも安心で安全で多幸感を得られる」と大麻保持を法的に規制するのを反対する立場をあかしたので驚いた そして落選
その年石垣島で大麻を隠し持ったとして大麻取締法違反で逮捕 懲役一年執行猶予3年の有罪判決を受けた 
その後保釈され現在も石垣島で民泊を経営している
立候補して大麻取締法を反対する 
このことは正しい しかしだから逮捕されたと言えよう
しかもこの運動をすれば逮捕されるという前例を作ってしまった もう二度と大麻合法を訴えて立候補する「バカ」は出まい



彼女を逮捕した「大麻取締法」とはどんなものか

大麻取扱者(栽培者及び研究者)でなければ大麻を所有し栽培し譲り受け譲り渡し又は研究のため使用してはならない


この法律で「大麻」とは大麻草及びその製品をいう
但し 大麻草の成熟した茎及びその製品並びに大麻草の種子及びその製品を除く(注)
(注)
大麻の茎及びその製品 白川郷の合掌造りの下地 送り火迎え火 供物に添える箸 松明(たいまつ)花火の麻炭
大麻草の種子及びその製品 七味唐辛子の一味など
つまり大麻を吸うことは罪にはならない 持っていること自体が犯罪なのだ

大戦後 米進駐軍は日本に来て驚いた 大麻があちこちに自生していたからである それがアメリカで流行っている大麻とも知らず自然の中に生えていた
GHQは慌てて米国の法律を日本にも転用した(昭和23年)

この法律は元々禁酒法のことを書いた時にちょっとふれたが 1922年施行された個人の嗜好をとりしまるという禁酒法の捜査に莫大な人数が必要になったFBIは大量に人員を雇い入れた ところが1933年ルーズベルト大統領はこの法律を廃止した
大量解雇の必然を迫られたFBIは当時流行っていた大麻を麻薬として認定し これを取り締まることを口実に人員確保を目指したが 肝心の大麻=麻薬だという結論がなかなか出ない そこで困ってデッチあげたのが「大麻課税法」(1937)である これは大麻の害を防ぐ法律ではなく 大麻製品に課税する法律である これによって 麻製品は値上げして 代わって出現した石油、石炭による合成プラスチックや科学繊維の発達に大いに寄与したのである

1972年大統領であったニクソンは大麻撲滅をスローガンにするため顧問委員会を〈シーファ―委員会)を作って大麻を徹底的に研究 しかし思惑とは外れ大麻が有害であるという結果は得られなかった そのうえ 医薬品として有効であることを発見 御用委員会のはずが全く違う結論を出し怒ったニクソンは委員長シーファを首にした

日本の法律はその研究も犯罪となると書いてあるのでその研究は進むことはない 
 
現在アメリカは次の州が合法化されたている
アラスカ州 カリフォルニア州 コロラド州 メイン州 マサチューセッツ州 ネバダ州 オレゴン州 ワシントン州 ワシントンDC 
アメリカ国民の5人に1人の計算だ

いずれ時の流れの必然で日本も合法化される日がくる
その時は殉教者 高樹沙耶は女神となる

大麻には抗がん剤の副作用(嘔吐、痛み)を和らげる効果が認められており 末期がんの某女優が亡くなる前よくロスアンゼルスに遊びに行ったのもこれが目的であった
 
日本の大麻が不幸だったのは麻という字が 麻酔のまや麻薬の簡潔字と同じ字になってしまったことである 
本来の意味でのしびれ しびれるの字は病ダレに林「痲」が 意味も字も麻に統一された 
これで漢字的に言えば大麻は麻薬の仲間入りをさせられたといえよう もちろんそんな意図があったとは言わないが・・・
  


白鷺だより(326)東京都受動喫煙防止条例

2018-07-01 13:29:58 | 思い出
東京都受動喫煙防止条例

昔 梅田コマでアイエスさんが主宰した「女の演歌まつり」という売れ出した女性歌手を一堂に集めた歌謡ショウを手伝ったことがある 
その時「道頓堀人情」を歌った天童よしみを初めて見たのだがもう少し背があってもう少し美人だったらなあと思うくらい歌が旨かった
その公演でカーテンで仕切った下手の小さな控室から煙が出ている その頃女性歌手にはヘビースモーカーは少なく(女優では中村玉緒をはじめ多くいた)一応喫煙場所も決まっていたから声をかけてカーテンを開けると日本にきたばかりの桂銀淑があぐらをかいて煙草を吸っていた 韓国語でぶつくさ言いながら煙草を消して「これでいいでしょう」という格好をした そのあとで歌った「大阪暮色」「すずめの涙」は絶品だった

その頃の看板役者さんの岡持ちには必ず灰皿が入っており おもむろに二本指を出すとお付きはそこへ煙草をはさみ すばやく火を点けた 
現在は楽屋の隅に喫煙室があればいい方で 最悪建物の外へ行かねば煙草が吸えない

コマで言えば美空ひばりが禁煙宣言した時 舞台付きのスタッフは奈落まで降りて行って煙草を吸った たけどそれはすぐばれた 禁煙で匂いによけい敏感になっていて ショウの最中「誰か奈落で煙草を吸っている」と言って 犯人探しに大騒ぎになったことがある

1990年頃になると喫煙がピークで 受動喫煙が問題となる
この前肺ガン患者が国会で証言した時「いいかげんにしろ」とヤジがはいったらしいが
ヤジった国会議員(彼はジョイフルというファミレスの元社長でこの後ジョイフルは全面禁煙にするとの声明を出した)にはTPO的には加担はしないが彼が直感的に感じている通り こんな証言は気持ちの問題だけだ 単に煙草の匂いが嫌いなだけだ
「いいかげんにしろ」というのも判る

こんなデータがある 1990年代男性の85%以上が喫煙だった副流煙だらけの時代 肺ガンで亡くなった女性は年2000人だった 現在はなんと60000人と約30倍となってここ十年は益々増える傾向にあり肺がんが女性のがんの第2位にランクアップした
国立がんセンターはこの原因を排気ガスが増えたことが原因としている

武田邦彦氏の受け売りだがそれまで女性は少々発ガン性のある煙草の煙の中で過ごして来たお陰で抵抗がつき発がんしなかった ところが一挙に空気がきれいになったので抵抗力が低下し結果 肺癌が増えたという  

この度落ち目の小池知事の元 オリンピック開催を見据えてある法案が可決された
東京都受動喫煙防止条例
これによってJT株は一気に下落した
 
この条例の前提は 屋内での受動喫煙による健康影響を未然に防ぎ 誰もが快適に過ごせる街を実現 受動喫煙が健康に悪影響を与える(肺がんや乳幼児突然死症候群 虚血性心疾患等)ことは科学的に明らかにされています 都民の健康影響を未然に防ぐ必要があります 特に東京都は乳幼児のいる家庭にも禁煙を勧めている

そして「東京都子どもを受動喫煙から守る条例」なるものが施行された(四月一日)
乳幼児がいる家庭では家でも煙草の喫煙が違反となるという これは問題だ
子供の前で煙草を吸えば虐待夫婦で逮捕されるかも
飲食店の大きさによって禁煙が決まる これこそ店の自由、「放っといて」だ 

それにしてもこんな条例どうやって取り締まるんだろう
禁酒法時代はFBIを大量に雇い入れ対処したが 法律が無くなって大量の人が溢れそうになったが その当時流行っていた大麻を禁止することにしてピンチを免れた
つまり大麻が失業対策のためのスケープゴートになり麻薬となったのだ

特にシガーバーが例外扱いになったのでどの店もシガーバーにしてしまえばいいのではないか もはやザル法であることは明白だ 「ごちゃごちゃいうよりいっそ煙草の製造販売も禁止してしまえばいいのではないか」という意見もある しかしかっての禁酒法が悪法だと言われるように人の嗜好には法律にも縛ることが出来ないのだ

果たして煙草は体に悪いのか まだ実際何の結論も出ていない 
血管には多少影響があるのは判っている(僕はそのため禁煙している)が それ以上に
ニコチンが脳、精神安定には確実にプラスとなっているのは明白だ 

煙草の匂いが嫌いという女性と空気が汚いのはいやという集団ヒステリー状態での法案が成立した
そのため2020年 オリンピックの時には世界中の愛煙者から「世にも過ごしにくい都市東京」と言われるのは確実だ

果たして 自分の好き嫌いで他人の自由を奪うことができるのか