白鷺だより

50年近く過ごした演劇界の思い出話をお聞かせします
     吉村正人

白鷺だより(445) 新宿コマの福田善之

2023-06-22 16:55:39 | 演劇資料

新宿コマの福田善之

 昭和50年代から60年代後半の福田善之は演劇界の旗手であり当時の演劇青年の憧れの的だった 関西の某私大の演劇サークルにいた僕も同じだった 

ふじたあさやとの共作の「富士山麓」(1954)でデビューし、「長き墓標の列」(1957)「オッペケペ」(1958)「オッペケペー」(1961)「真田風雲録」(1962)「袴垂れはどこだ」(1964)と矢継ぎ早に発表しいずれも岸田国士賞の候補にノミネートされ 最後の「袴垂れはどこだ」が受賞したが審査員への不信を理由に辞退する……そんなかっこいい存在だった (辞退は師匠の一人木下順二氏がからんでいたと思われる )

歌手加藤登紀子の書いたものによると1963年東大に入ってすぐ劇研に入部 「長き墓標の列」の主人公の妻役を演じたとある

そんな彼が「江利チエミが見出した演出家」として華々しく「大衆演劇の殿堂」新宿コマにデビュー(昭和46年)したので新劇評論家は驚きの声と批判的な批評をした( 何年か後の蜷川幸雄がそうだったように) この前年、福田は東横劇場で清川虹子主演の「女沢正 あほんだれ一代」の作・演出で上演し、評判をとっていた なかでも主役の女沢正を演った清川虹子に気に入られ彼女の推薦で江利チエミ公演を担当することになった 

(女沢正とは当時清川のヒモだった沢竜二の母、阪東政之助こと酒井マサ子の一代記) 

ちょうどチエミは高倉健と離婚のすぐ後で 沢竜二の思い出によるとチエミに相談されて母親の十八番「葛の葉」をアレンジした「白狐の恋」を提案したとある 原案沢竜二とクレジットされたらしい

昭和46 年11月 コマスタジアム開場15周年記念 江利チエミ新コマ10周年記念 昭和46 年芸術祭参加 チエミの「白狐の恋」作 谷口守男 演出 福田善之

江利チエミ、清川虹子、中村嘉葎雄、花柳喜章、田崎潤、茶川一郎

新劇の批評家は「カネに転んだ」「志をもって演劇を変えようとした人が何だ」と言ったが その演出料はわずか30万だったらしい これは何年かのち僕が松原のぶえのショウの構成・演出のギャラが50万だったことでわかる 

しかし この作品の成果で江利チエミは芸術祭優秀賞を受賞する

翌昭和47年4月も春の東西大喜劇と題して清川虹子主演「おんな赤帽物語」とお笑いバラエティ「花吹雪かしまし一座」の二本を作・演出する

清川虹子、かしまし娘、茶川一郎、石井均、曾我迺家五郎八

そしてその年の10月 山本周五郎「糸くるま」より 作・演出 福田善之      「恋ぐるま」を上演

江利チエミ 勝呂誉、清川虹子、井上孝雄、田崎潤

昭和52年8月 山城新伍芸能生活20周年記念 福田善之作・演出        「泣き笑いチャンバラ一代」

山城新伍、由利徹、西川峰子、東八郎、花園ひろみ

(山城新伍お気に入りの作品でその後何度も再演)     

昭和53年芸術祭参加 福田善之作・演出                  「今竹取物語」 石川さゆり、宝田明、佐山俊二、ジェリー藤尾

昭和54年7月  名作ミュージカル 小川未明原作 福田善之作・演出    「赤いろうそくと人魚」 石川さゆり、園佳世子、茶川一郎

昭和55年6月  福田善之作・演出 谷口守男演出                    江戸慕情 「江戸っ子嬢はん」 都はるみ 曾我迺家五郎八、沢本忠雄                

ギャラは上がったタメシがなかった そんなわけで福田は新コマに対してずいぶん奉じしたわけで昭和56年の「ピーターパン」はそれに対するボーナスみたいなものだった サンデーダンカン主演の舞台をブロードウェイまで観にいったがそのままの演出でやろうとすると色々と条件が煩いので自前の演出でやろうということになった だからブロードウェイミュージカル「ピーターパン」はメイドインジャパンの作品なのだ さて吉村はこの作品が梅田コマで再演するとき(昭和57年4月)初めて福田演出に出会うわけだが実際は演出補の新見正雄が仕切っており(フライングは同じく演出補の樫村君が仕切っていた)その片鱗にも触れることなく終わった この作品で彼のギャラは初めて大台に乗った

何年かのち新しく出来たシアタードラマシティの杮落し公演の野口五郎主演「ミスターアーサー」で親しくなった春風ひとみに一人ミュージカルの話があるのだが迷っていると相談を受けた 演出は誰かと聞いたら福田善之だというそれは是非演ったほうがいいと返事をした

平成6年春風ひとみ一人ミュージカル「壁の中の妖精」上演 

その成果により紀伊国屋演劇賞を受賞

 

( 近代演劇デジタルオーラルアーカイブ 福田善之を参考にした)

 

 

 


白鷺だより(435)ミヤコ蝶々 ひとり芝居とふたり芝居

2023-04-05 09:57:45 | 演劇資料

ミヤコ蝶々「ひとり芝居」と「ふたり芝居」

 僕が梅田コマに入った頃、蝶々先生は日向企画という会社を興し「蝶々新芸スクール」を始めた その頃大阪三越劇場にて「蝶々ひとり芝居」を竹内伸光先生の演出で上演した 僕はコマに入る前に北條秀司先生の「王将」でこの劇場を使った経験があったので少しお手伝いした 昭和51年1月公演「おんな寺」から翌52年12月の「河内の女」の梅田コマの本公演の間のことであろう 残念ながらこの2作共内容も入りもいいものではなかった それから何年かのちこの「ひとり芝居」は美術家朝倉摂との鳴り物入りで名鉄ホールで再演される   朝倉、蝶々の2大女傑の組み合わせは評判を呼び 翌年8月中座での再演が決まった

ここにその中座公演のチラシがある

昭和59年4月5日〜9日   ミヤコ蝶々ひとり芝居 「おもろうてやがて哀し」  日向須津子 作 竹内伸光 演出

(1)赤線の灯が消えて(2)愚かなる母(3)海暮色 (岩間芳樹原作)

そうだ、思い出した3つ目の「海暮色」は先生がラジオドラマでやって気に入った作品でその頃はまだ著作権が浸透してなかったので吉村がでしゃばって原作者を入れることを勧めたのだ

名鉄ホールの「ひとり芝居」は評判を呼んだので翌61年11月タイトルもズバリ「ふたり芝居」を芦屋雁之助の共演で上演した(詳しい事は判らず)

そして昭和61年中座、南座、翌62年12月名鉄ホールでの「ふたり芝居」決定版が上演される 

蝶々、雁之助のふたり芝居 第一話「電話」第二部「親買います」だ

雁之助は蝶々を「喜劇の頂点に立つ人」と尊敬し、蝶々は雁之助を「色んな色を持ち、滲み出るものがタップリある、夫婦愛、男女の愛、肉親愛、仕事仲間などなど様々な関係の役どころを組める方」と高く評価する こんなふたりがガッチリ組む、面白くない筈が無い

このふたりの共通項を挙げてみると                   (1)小さい頃から旅回りを体験していること                                                              - (2)大阪喜劇の土壌で育ったこと                                                       (3)主演、脚本、演出の兼ねることの出来る俳優であること

あらすじ

第一部「電話」                          

 間違い電話から知り合い、奇妙にウマが合いデートを重ねる中年男女の裏哀しい物語

第二部「親買いますか?」

 老女が一人住まいの豪邸に空き巣に入り、逆に無情な子供たちをおどろかせるために誘拐してくれと頼まれる泥棒の話

もうこの頃の僕は松竹の仕事が増えこの作品は観ていない 

中村朋唯さんこと芦屋凡々さんにお借りした昭和61年南座のパンフレットをみてこんな公演があったことを知った なおこのパンフレットには解説を大阪日日新聞の岡崎文さん(梅田コマ文芸部岡崎公三さんのお姉さん)が担当していてこの一文を書くのにおおいに参考にさせて頂いた 感謝         

 

                         

 


白鷺だより(434) 沢竜二「人生まわり舞台」の思い出

2023-04-01 12:16:43 | 演劇資料

沢竜二「人生まわり舞台」の思い出

またしても「浮草」、「人生まわり舞台」関係の話題で恐縮だが沢竜二の思い出話に面白い話があったので紹介する  (ウェブ浅草、沢竜二波乱万丈俳優記16 より抜粋)

若い頃からお互いの苦労を知り「まこちゃん」「さわちゃん」と呼び合い励まし合う仲だった ある日松竹撮影所の楽屋で出番待ちをしていたら「必殺仕事人」の撮影に来ていたまこちゃんがひょっこり顔を出し、「大切な話があるからちょっと出られない?」と云う しかし顔に大きな傷のメイクがあった私は現場を離れることが出来ずたったワンシーンを撮るのに深夜まで掛かったかそれでもまこちゃんは待っていてくれた

まこちゃんからの大切な話と云うのは自身の企画する新作舞台への出演依頼だった 小津安二郎監督の映画「浮草」をベースにある旅役者の栄枯盛衰、人生の悲哀を描くと云う これは名作になる予感がした 事実予感は的中し「旅役者駒十郎日記 人生まわり舞台」と題されたこの作品は大成功を収めることになるのだが最初の名古屋名鉄ホールの公演で大事件が起きてしまった

この名鉄ホールの公演は昭和58年1月(2 〜29)   原作 野田高悟 小津安二郎 脚本 梅林貴久生 演出 竹内伸光 藤田まこと、辺見マリ、西村晃、芦屋小雁、林美智子

公演の中盤1日休みがあったので私は石井ふく子先生の芝居の立ち回りの仕事を請け東京に戻った 翌日は11:30 開演だから始発に乗れば充分に間に合う計算だ ところが乗り込んだのはいいがその列車が待てどくらせど発車する気配がない 流石に不安になり辺りを見渡すと何とそこにまこちゃんがいるではないか! 私と同様仕事で東京に来ていたのだ そしてもう一人まこちゃんの相手役の辺見マリも隣の車両で泣いているではないか 座長を含め主要役者3人がいなくては芝居にならない 急遽中止を決めた劇場は翌日以降の切符に振り替えせっかく劇場まで来てくれたお客さんに大阪からまこちゃんゆかりのコメディアンや芸人を呼び場を繋いでくれた 共演の西村晃さんに「沢ちゃんは運がいいよ 座長と一緒じゃなかったらもっと責められていただろうね」と妙な慰め方をされたが これは申し開き出来ない大失態だ 案の定翌日の地元紙に3人の顔写真がデカデカと踊っていたが 驚くことにこれが美談になっていたことだ 男の友情 藤田まことの昔の仲間が大阪から駆けつけピンチを救ったと ものは言いようマスコミの力恐るべし 以後如何なる場合でも千秋楽まで公演の地を離れまいと堅く誓ったのは言うまでもない

とあるがこれは前代未聞の大事件だ 果たしてどんな理由で新幹線か止まったかはイロイロ調べたが判らなかった、劇場側の対応も全く判らない こうなりゃこの作品の美術担当だった元名鉄の萩原章生さんにでも聞いてみようか

 

 

 

 

 

 


白鷺だより(431) ミヤコ蝶々「おんなと三味線」

2023-03-06 02:43:23 | 演劇資料

ミヤコ蝶々「おんなと三味線」

 

   昭和51年梅田コマの近く(北区茶屋町1-1 共信ビル) に「蝶々新芸スクール」が誕生した  同時に出来たのが㈱日向企画で松竹芸能から来た野田嘉一郎と云う方が仕切っていた 何故かこの日向企画は東京(乃木坂秀和デジデンシャルビル) にも事務所を構えていて主にTBS系の舞台制作を手掛けていた

この野田さんとは仲良くさせて貰っていた関係でその仕事のお手伝いをさせて貰っていた(参照白鷺だより141 日向企画の頃)  昭和51年に南田洋子と長門裕之夫婦のダブル主演で「極楽夫婦」という作品を九州巡業でやった時蝶々さんが社長の立場で観に来て興味なさげに「ふーん」と言って帰った  蝶々さんにあった芝居なのになあと思っていたので意外だった

長門裕之さんの染丸と石浜裕次郎さんの春団治がマッチ棒を並べて女の数を子供のように比べ合うシーンは何度みても面白かった

この「極楽夫婦」と云うのは1969 年NHK銀河ドラマで亡くなった林家トミさん夫婦をモデルに南田洋子、金田龍之介主演で放送され評判を取ったドラマで原作田辺聖子「でばやし一代」富士正晴「紅梅亭界隈」で茂木草介さんの脚本だった 南田はこのドラマが気に入り茂木草介さんに舞台化して貰っての公演であった 

翌52 年中座の前を通って驚いた  6月公演のポスターを見るとミヤコ蝶々特別公演「おんなと三味線」とあった なんだ蝶々さんはこの芝居を気に入っていたんだ、しかし著作権は大丈夫なのか と心配になって見ると田辺聖子「でばやし一代」より 茂木草介原作 日向鈴子脚色・演出となっていて彼女にとって初めての脚色作でありモデルが存在する作品だった

さてここに「おんなと三味線」のパンフレットが3冊ある トップホット時代からの盟友芦屋凡凡こと中村朋唯さんからお借りしたものだ 昭和53年7月名鉄ホール公演、昭和54年南座だ それに僕がポスターを見て驚いた昭和52年の中座のものもあった

中座の配役は西村晃さんの林家染丸、品川隆二の桂春団治 初恋の相手は本郷功次郎、林家とみさん役は58歳のミヤコ蝶々だ 

名鉄ホールは初演と同じで西村晃さんの染丸、春団治は沢本忠雄 初恋の相手は荒谷公之 

南座公演はいかにも決定版として芦屋雁之助の染丸、小島秀哉の春団治と関西の役者で固めた 二枚目は川地民夫 しかも蝶々さんは紅梅亭の御簾内で出囃子を実際弾くし 雁之助は落語「野崎詣り」のサワリを聞かせたりサービスタップリだった

林家とみ

明治16年生まれ  当時の風習通り6つの年の6月6日から三味線からの稽古を始め、好きこそものの上手で16.7歳の頃から寄席のお囃子部屋に出勤するようになった そこで二代目林家染丸に見初められ夫婦となったのが大正9年.とみさん32歳の時だったというから晩婚であった その時染丸は48歳、もちろん初婚ではなくすでに3人の子持ちであった そして結婚してからも染丸の放蕩は続く しかしとみさんはそんな染丸にまめまめしく仕え貧乏世帯をやり繰りし、そして自らは寄席のお囃子部屋に座り 例えば亭主の十八番の「電話の散財」を演る時は三味線を弾いて夫を助けた

「昔の落語家はんの嫁はんちゅうものは亭主の浮気と金の苦労は付きモンやった 頼りない男やけど自分がついていてやらなければほんまにどうしょうもないような男、そんなグウタラ亭主にトコトンまで付いて行くアホな女のいじらしさ 女として夫を愛して芸人として三味線に打ち込んだそんな女の芝居です」 そう云う蝶々さんだんだん主人公とダブってくる

進行(舞台監督)に堀本太朗さんの弟子で身体が小さかったので「コタロウ」との愛称で呼ばれていた井原共和さんの名前がある この後中座の芝居ではよく助けて頂いた

 

 


白鷺だより(428)立田豊さんのこと

2023-02-01 11:57:53 | 演劇資料

立田豊さんのこと

1935年昭和10年大阪生まれ

父親は当時引き抜いたワカナ一郎らを擁し破竹の勢いだった(当ブログ 引抜き参照)新興芸能が仕切っていた浪花座はじめ道頓堀のいくつかの劇場の棟梁を務めていた そのような環境に育ちながら彼は。演劇というものを見た事がなかった むしろ建築の仕事がしたくって専門の学校に進み、さる建築会社に就職したが3日で家に帰された そんな彼が初めて生の舞台をみたのは無理やりアルバイトとして連れて行かれた中座のOSKの公演だった 19歳の若い彼が若いダンサーたちが繰り広げる華のような世界に惹かれるのは当然のことだった 当時中座を仕切っていたのは藤田大道具という父親の友人が棟梁をやっている会社でアルバイトが終わって正式に中座に就職させられた(1954年) 

そしてその友人が亡くなり中座の後を父親が継ぐことになった(立田組)

10年ばかりした頃 中座で働きながらこっそり京都太秦にある東映の入社試験を受けたことがある 映画の宣伝の仕事がしたかったのである 試験が受かり「出社日は追って連絡する」と云われて待っていたが一向に連絡が来ない たまりかねて電話すると「母親から断りの電話があった」とのこと 母親が父親に相談してのことだった 親にくってかかると昔から会社にいてる人から「東映に入ったら定年まで只のサラリーマン、ここで働いていたら大将、棟梁にもなれる」と諭された 彼の言ったように1972年父親が亡くなり、3年前「立田舞台」と改めた会社の社長に就任した 

昔で言ったら「家業を継ぐ」と云うことだがOSKの華やかな世界にだまされました

僕が立田さんと初めて会ったのは丁度彼が社長に就任した直後で「よっしゃん」と呼んて親しくして貰った

中座と松竹新喜劇はきっても切れない関係だが数々の寛美さんとの思い出を少々

初日の朝、6時ころ大道具を作成していると いかにも遊び帰りの寛美がやってきて「お前らまだやっとんのか?」と云われ「やらな幕あきまへんがな」といいかえした

松竹芸能勝社長曰く「芝居にはダメがつきものや ダメ出されて嫌な顔するのも解るけど なんぼ嫌でもどうせやらなアカンのやったらニコッと笑って受けんかい ほんなら云うたほうかて気持ええ」

新喜劇がリクエスト狂言をやった時、「大道具も舞台に出て道具飾るのをみせてくれ」と云うので「それはおかしい お客さんに顔晒して大道具を飾るんなら役者になってるわい」といいかえした そしたら寛美が「定式幕の前で俺が喋ってる間に幕の後ろで飾ってくれ」と  渋々承知して幕裏で飾っていたら急に幕を開いて「これが大道具の仕事です」と観客に見せ更にマイクを差し出してインタビューを始めた ペテンにまんまと引っかかりました

平成2年     藤山寛美死去(60歳)  中座にて劇団葬 舞台一杯の藤の花

平成9年 中座閉館

同    松竹座開場 大道具一切を担う

平成18年   社長を長男 薫に譲る 会長に就任

平成24年   文化庁長官表彰

平成29年  日本演劇興行協会 表彰

この文章は興行協会会報に載ったインタビュー記事をまとめました