白鷺だより

50年近く過ごした演劇界の思い出話をお聞かせします
     吉村正人

白鷺だより(355)演じる料理人 程一彦(その2)

2019-07-17 15:51:12 | 人物

      演じる料理人(その2)

 爆笑、拍手、大歓声、舞台の魅力は言葉では表せない
そんな舞台の味が忘れられず もう一度と思ったのが正直な気持ちです

平成12年12月 サンケイホール
 忠臣蔵外伝 「大坂昆布屋人情ばなし」
時は元禄 大坂・天満に軒を並べる昆布屋が赤穂浪士菅野三平と関わって・・・・

原案・監修 難波利三 脚本・綾羽一紀 演出・吉村正人
主な出演者 程一彦 奥村彪生 紅萬子 難波利三 大村崑 岡村瑤子 桂小米朝 旭堂小南鐐 浜村淳 海原さおり
      雪代敬子 小林勝彦 浅川美智子 曾我廼家貫太郎 南条好輝


天満の昆布屋で作詞家の喜多條忠さんの実家にお邪魔した 彼のお姉さんが跡を継いでいて協力して頂いた
なまじっか芝居の経験がある程さんより 全くの素人を押し通した奥村さんの方がうまく見えた

結論的に言えば 我々の力及ばず二匹目のどじょうはいず 程さんはこの公演で芝居作りはお金がかかるということを勉強出来たと思う
大赤字を出し 奥さんにはこっぴどく叱られたらしい

程一彦はそれ以来芝居をやろうと一言も言わなかった 

程一彦 本名 根本一彦 6月23日 グルメツアーで訪れた台北のホテルの部屋で亡くなった 享年81歳
                                                  合掌


白鷺だより(354)演じる料理人 程一彦(その1)

2019-07-17 15:15:52 | 人物
     演じる料理人 程一彦 (1)

 程一彦が亡くなったという この6月23日仕事中の台北でだ
ホームページによると「台湾グルメツアーシリーズ最終回」なる催しで前日22日スタートだった
3泊4日の行程でおひとりさま168000円だった
かように彼は料理人として命を全うしたが彼にはもう一つの顔があった
料理人でありながら昔憧れたことから 今でも自分の店でマイクを持ってジャズを歌っている彼の顔がある

程一彦の大学時代からの友人四方邦夫氏(三社電機制作所社長)の日系のコラム「交遊抄」によると
「関西学院大学で生涯の友となる程一彦君と出会った 大学時代は彼を京都の日本料理屋に連れていったり 彼がボーカルを務めるライブを観にいったりした 当時はテレビ放送の黎明期で音楽番組が多かった ある日何気なくテレビを見ていると大阪梅田の街頭で歌う彼の映像が流れて驚いたことは今でも強く印象に残っている 彼は集客上手で実家の中華料理店で時折ライブも催した 最近の楽しみは彼が年二回程度
開くライブに行くことだ 互いに年を重ねたこともあり健康第一。 健康なままで いつまでも彼の歌を聞かせてもらいたいものだ」
この友情溢れる文章のタイトルは「歌う料理人」だ

彼の舞台記録によると
昭和62年 サンケイホール「一世一代ワンマンショー」
昭和63年 ニューオータニ「歌う料理ショー」
平成4年  京都全日空ホテル「歌う料理ショー」
      大阪ロイヤルホテル「歌う出版記念会」

いや僕は彼の歌も料理も一切知らない 有名な龍譚という店も行ったこともない

僕と彼との結ぶイトは終戦直後梅田の闇市で商売していたのが彼の父で それを取り締まっていたのが当時曽根崎警察署長の叔父山口行太郎
だったということだけである 余りの取り締まりのキツさに警察署に押し寄せた民衆に窓からピストルをぶっぱなしたのはその叔父だ
そんな彼の芝居を演出することになったのは 紅萬子さんから頼まれたのと 彼が関学の先輩だったからだ

彼のお芝居での記録は殆どないので関係者の一人として ここに記することにする これは「演じる料理人」の記録である

平成9年12月 サンケイホール  難波利三 原作 田中徳三 演出 
   蕎麦屋元助人情話 「旗とに八そば」
 「時は天保8年 ところは大坂 腐敗極まるお上に命を懸けて反乱を起こした大塩平八郎 その混乱のさなか に八蕎麦屋の元助はひょんなことから平八郎の軍旗をひらってしまう お上に届ければ褒美がもらえると周囲にそそのかされて元助は奉行所に持ち込む
お上は反乱の戒めを狙って 元助を武士として召し抱えることに いざ武士となった元助を待っていたのは仲間の冷たいまなざしだった」

 元助に程一彦 他に 難波利三 大村崑 紅萬子 入川保則
 堂々3時間に及ぶ大作で二日間昼夜二度とも満員 収益は阪神大震災の孤児救済基金に100萬円寄付した
 公演日は還暦を迎えた程一彦の誕生日でもあり 大爆笑、大声援の中 サンケイホールは大坂の人情芝居に酔いしれた
 この作品は僕は知らない ただやtら道頓堀のあちこちに貼ってあるポスターは記憶にある
                                            (2)に続く

 

白鷺だより(353)高島家の少女A

2019-07-07 16:24:08 | 思い出
                          高島家の少女A       

 この6月26日 糖尿病、アルコール依存症、うつ病、果てはパーキンソン病までの病気と闘いながら高島忠夫は老衰の為自宅で死亡した 享年88歳

僕と同じ関学の先輩の映画俳優ということもあり興味を持っていたが 格別映画では代表作といったものもなくテレビの家族団らんだけが売り物のスターといったところか
息子たちも結婚が遅く兄政宏とシルビア・クラブの夫婦は子供がなく 弟の政伸のところにかろうじて孫が出来 86歳の遅いおじいちゃんになったのがせめての救いか

 東宝の銀幕スター高島忠夫とタカラジェンヌの寿美花代というビッグカップルが誕生したのは昭和38年 新婚旅行は当時としても珍しい「世界一周旅行」 世間は憧憬と好意を持って二人を祝福した

ここに1人の少女がいた 仮に名前をAと呼ぶことにしょう
Aは新潟佐渡の出身、農家の4人姉妹の末っ子で昭和38年地元の中学を卒業した
高校受験に失敗し上京、東京墨田区にある「三和化工」に就職、女工として働いていた
その会社に高島夫妻を良く知る人がいて 新婚旅行から帰ってきた夫妻がお手伝いを探していると聞き Aは彼に頼み込み 昭和38年の暮れ高島家の住み込み家政婦として就職する もともと芸能界に憧れを持っていたAは夫妻に良く尽くし 夫妻も年が若い(16歳)Aを可愛がった、、、、翌年長男道夫が生まれるまでは

 翌39年長男道夫が生まれたので高島家では道夫専属の看護婦Bを雇う Bは大学病院での勤務体験もあり給与はAの3倍と言われた その上ちょうど高島が芸術座での舞台出演がありAは付き人として舞台に付くことになったため ベテランの家政婦C(69)を新たに雇い家の中の仕切りはCに任すようになった 自分一人が夫婦に可愛がって貰っていると思っていたAは道夫が生まれてから疎まれているようになったと思うようになった
また夫妻はその年の8月また海外旅行に行くことが決まりBやCには「お土産は何がいい?」と言っていたが自分には何にも言って貰えなかったため不満がつのる

事件のあらまし
昭和39年8月24日未明 世田谷在住の俳優高島忠夫方より警察及び消防署へ「息子が風呂に沈められ 部屋が荒らされている」との連絡があった
調べによると同日午前2時頃 住み込みの家政婦Aが長男道夫5か月の姿が見当たらないと夫婦に連絡し ただちに夫婦とAはAが見たという怪しい男を家中探し廻った 部屋は物色された跡があり高島は鉄の棒を持って探した そして風呂場でキチンと蓋のしまった風呂桶に沈められている長男を発見、大騒ぎとなった 長男はただちに近くの病院へ輸送されたが既に心肺停止状態だった

Aが見たと言う怪しい男も誰も見たものがいず 長男の泣き声も聞いた者も居なかった
不審者が近づくと激しく吠える番犬が吠えていない 物色しているところを赤ん坊に観られたといって殺す必要がない、死体を湯舟に隠してキチンと蓋をする必要があるのか・・・など不審な点が多くAを問い詰めると自供した

自供によると 犯行当日食事の後片付けをした後午前1時過ぎに1人で風呂の入った
入浴後自室に戻ったところ隣の部屋から長男のぐずる声が聞こえたので入って行くと長男はAの足を掴むなどをしてきた Aはこの姿を可愛いと思い長男を抱き上げ 夕涼み目的で庭先に出て長男を抱いたままあやしたりしていた その後汚れた足を洗おうと長男を抱いたまま風呂場に戻ったが この時に
「この赤ん坊さえいなければ 高島夫婦の愛情は自分に戻るのではないか」
と考え 気が付いたら長男を湯舟に沈めていたという 長男は激しく咳き込んだがAはなおも湯中に抑えつけた このままでは犯行がバレると思い風呂から出て物とりの犯行と見せかける為 室内を物色されているように装ったという

事件翌日25日高島邸にて通夜が営まれ映画関係者や芸能人などが弔問に訪れた 祭壇にはわずか五か月の長男の笑顔の写真が置かれお気に入りだったろうヌイグルミが飾られ弔問客の涙を誘った

昭和40年東京地裁はAに懲役3年から5年の不定期刑という至って軽い量刑を言い渡した 出所後結婚して新たな生活を送っているらしい
一方寿美花代はトラウマで湯舟には入れずシャワーのみの入浴である

高島一家の不幸はこの様な哀しい過去があるにも関わらず 仲のいい夫婦でいつまでも明るい一家を演じなければならなかったことである

先に高島忠夫には代表作がないと書いたが長男と共演した1988年森田芳光監督の「かなしい色やねん」の老親分夕張の役は良かった









  

白鷺だより(352)「王将」(4)1973年版

2019-07-01 11:56:39 | 思い出
「王将」(その4)1973年版

北條天皇(北条秀司)の「王将」は昭和22年新国劇で辰巳柳太郎主演で上演
これが評判を呼び翌23年大映にて阪妻(阪東妻三郎)主演 伊藤大輔監督で映画化 これまた大ヒット 
その後昭和30年 伊藤大輔は辰巳柳太郎,島田正吾ら新国劇メンバーを使い新東宝で「王将一代」を作った
(小春 田中絹代、玉江 木暮美千代)
 
昭和46年 西条八十作詞 船村徹作曲、村田英雄が歌った「王将」がヒットさせた

それにあやかって伊藤大輔は東映で三国連太郎主演で「王将」を監督した(昭和47年)、翌年「続、王将」を発表

 大映で大スターだった勝新太郎が裕次郎、三船敏郎らと同じように自らの制作会社(勝プロ)を立ち上げて久しい昭和58年 将棋好きの勝の企画で「王将」を製作する(配給は東宝)
今までの伊藤大輔色を一切外して東宝専属で黒沢明の弟子の堀川弘通を監督に笠原良三脚本で6度目の映画化 共演の玉緒さん曰く「キチンと台本通り喋り監督の言うことに一切従った」唯一の作品と言わしめた映画ある 
想像だが何年か先 勝が降板することになる黒沢の「影武者」の話が進んでいたかも?

さてYouTubeでこの作品を見つけたので早速観た
この映画は勝新太郎 中村玉緒という実際の夫婦に三吉、小春の夫婦愛を演じさせるのがセールスポイントになっている 果たしてこれが成功したか? 否、これが失敗だった
我々は小春の内助の功を見るにつれ 赤字会社勝プロを支える中村玉緒を観てしまう
小春が将棋狂いの三吉に理解を示すのに 映画狂いの勝新にダブってしまう

関根名人に黒沢の優等生 仲代達矢
長屋の隣のうどん屋の新吉には藤田まこと
ちょこっと審査長役に 村田英雄
掛け将棋の相手に懐かしい石浜裕次郎
後援者高浜にこれまた懐かしい谷口完
菊岡博士に永井達雄
小林東伯斉に佐々木孝丸

今年の巡業でご一緒した音無美紀子が三吉の娘玉江役で出ていたので 映画をみたこと 若き日の音無さんが綺麗だったことをラインで送ったら

きゃあ 懐かしい!!まだ21歳ですもの綺麗だったかも(笑い)
勝新太郎さんに将棋を教えてもらい 撮影の待ち時間にはいつも対局させて貰った思い出があります

との返事が来た
 
長屋の下を走る関西本線の汽車の煙を見たら狭い大阪三越劇場の舞台でけこみの後ろを這いつくばってスモークマシンを炊きながら匍匐前進したことを思い出した
南禅寺近くの旅館 座布団を並べる女中さん役の一人が上がってしまい何べんやっても出来なかったこと
新聞カメラマンがたくマグネシウムのライトがうまくいかなかったことなどが思い出される

ときおり映る「夜景に輝く通天閣」をみていたら北條天皇が「この通天閣は僕が子供の頃に見た通天閣とイメージが違う、気が乗らん 稽古中断!」と女優を連れてお茶に行き 照明のプランナーに「天皇は休憩がしたかったんだ このままで大丈夫」と言われ戻って来た天皇に本明かりでみせたら「これだよ これが昔見た通天閣だよ」と叫んだ 僕と照明さんは顔を見合わせて笑った

村田英雄の「王将」をテーマソングに使った歌謡映画だと思えば腹が立たないが
「小春の死」「銀が泣いている」まで細かく描いた割にはこのメンバーでこの出来だったら左程ヒットしてないなあ

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