白鷺だより

50年近く過ごした演劇界の思い出話をお聞かせします
     吉村正人

白鷺だより(456) 僕が会った「宝塚演出家」

2023-12-24 13:42:08 | 思い出

 僕が通っていた関学(関西学院大学)の隣の駅に宝塚があったが観にいったこともなかった 通学電車でも生徒さんをよく見たが声一つかけたこともなかった

関学では小さな劇団で芝居などを演っていたが全く宝塚に興味を持てすにいた

 そんな僕がトップホットに潜り込んでいた頃(1971) 関学全共闘だった先輩のMさんが一人の男を連れて来た 彼は早稲田全共闘の活動家でその名前をよく知っていた その頃はバリバリの活動家が身分を隠して大企業に潜り込むのが流行っていて、かくゆう我々(僕とNさん)も東宝系の劇場に入りこんだ先輩であった その彼は村上信夫といい宝塚歌劇団の演出部に入って出身の大阪に戻って来て同級のMさんに聞いて東宝、阪急系の先輩として僕を紹介したのであった

その頃の宝塚は全然人気がなく 我々には「女子供」の見世物といった感覚であった

 その後僕は色々あって梅田コマの文芸部になっていた頃毎日放送創立何十年記念公演を梅田コマで演った時、関西の色々な芸能の中で宝塚のショーが入っていた ショーは演出が岡田敬二、演出補が村上 その下にダンサーから「イケコ」と呼ばれて早替りで脱ぎ散らかした衣装を走って集めていた小池修一郎がいた その頃はダンサーに完全にバカにされていた この時僕は初めて宝塚のショーを観たのだが 梅田コマのダンシングチームのソレとは大違い 洗練されたショーであった

 岡田敬二さんは競馬好きで場外馬券場でよくお会いした

 岡田さんとは1988 年 松本伊代主演のミュージカル「愛のシンフォニー」でご一緒した 往年の名作「オーケストラの少女」の焼き直しでソツない演出だった 

そうそう、それ以前の1983年桜田淳子主演「アニーよ銃を取れ」(シアターアプル)の演出補として参加したが ショー場面を表に出した演出で良かった 彼が連れて来たスタッフにはソレ系の人は多かったがそれはこの世界では普通のことだった

 北島三郎の舞台美術担当の渡邊正男さんが大きな風呂敷包を抱えているので何かと尋ねると今度宝塚でやる「ベルサイユのばら」の道具帳だという この植田紳爾の「ベルばら」の大ヒットのお陰でドン底に喘いでいた宝塚は息を吹き返した

1979年その植田紳爾さん✕市川猿之助の「不死鳥よ、波濤を越えて」につく お二人の熱い情熱には参った 人目はばからず才能をぶつけ合う姿は二人は「出来ていた」と思う

中身はいかにも宝塚調でひたすら猿之助演じる平知盛のカッコ良さだけを追求しただけの内容で演劇的にはたいしたことはなかったが意外と客が入り公演は大成功だった

 1992年梅田芸術劇場の地下に「シアタードラマシティ」が出来 その杮落し公演に「ミスターアーサー」を公演した 演出は宝塚の酒井澄夫 演出補が僕、その助手に後に宝塚初の演出家になる植田景子がいた 酒井さんの演出は女っぽく決断が遅く、演出を無視して主演の野口五郎と作りあげた 宝塚ファンで酒井演出至上主義の植田景子にはどう写ったことだろう 

この公演の途中で関学時代の同じ劇団の女性から電話があり、なんでもパンフレットに僕と酒井さんの名前が並んで載っているのを見て 娘が宝塚を受けるのだが是非酒井さんを紹介してくれという 僕は宝塚の内部がいかに汚いものであるかを話し そんなところで娘さんの青春を無駄にするな、と力説して電話を切られた

 それから村上が演出家デビューしたとのニュース(1979)とプロデューサーになった(1997)に何故かなったとの噂

 植田景子は5回目の受験で宝塚演出部に入った やがて一本立ちして宝塚初の女性演出家となった

 さて今週の「文春」を読んで驚いた あの「イケコ」こと小池修一郎は宝塚の理事となっており その彼が若い演出部の青年に対してセクハラをしたとの記事であった 記事によると「人から才能エキスを吸い取るんだから、しっかり肉体労働で返してもらおうか?」と迫ったという これから推測出来ることは小池が今まで先輩たちから教えを乞うとき、身体でお返しして来て(彼は40まで結婚しなかった、相手はCA) 出世ラインをひた走り、また理事となってからは助手に「肉体労働」を強いていたのだろう 去年セクハラで退団した原田諒、今回同じくセクハラで記事となってる野口幸作などは小池学校の「優等生」と言えよう この二人の経歴をみたら小池もやたらメッタラ迫ったとは思えない (特に原田の華麗なる受賞歴を見よ)   それなりの才能を見つけたのであろう 決して二人が二枚目だけではない だから「演出部A君」、君の才能を見つけて近寄ってきたのだ まさか訴えるなんて馬鹿な真似はしないでおくれ

 

 

 

 


白鷺だより(455) 団鬼六「美少年」のモデル

2023-11-30 18:52:06 | 思い出

団鬼六「美少年」のモデル

大学に入ったら演劇をやろうと思っていた僕は関学に入ってまず訪ねたのは「劇研」だった その頃「劇研」は三田和代がいてフランス・ナンシーで行なわれた世界学生演劇祭で「夕鶴」を演じ優勝したばかりであって人気だった

 へそ曲がりの僕はもう一つあった創作劇団「エチュード」にもぐり込んだ その汚い部室にあったOBたちの現状報告の小冊子に映画脚本を書くかたわらオール読物の新人杯を「浪花に死す」で取り教師をしながら時期を待つという自虐的な文章が何故かひっかかり、その黒岩松次郎という名前と共に記憶に残った

3年後 全共闘運動の挫折で中退も考えたがゼミの教授のアドバイスを得て1年留年していた僕はー下鉄梅田駅の掃除の仕事(終電までに駅に入り水洗の仕事、ゴミ箱の整理) をしていた時ゴミ箱に捨てられた山ほどのSM雑誌(その頃ブームだった、家に持って帰れずゴミ箱に捨てたのだろう、中には精液がついた本もあった) の中に黒岩松次郎の名前を何度か見た そのライバルとして台頭してきた花巻京太郎と同一人物だと判って驚いていたら 名作「花と蛇」の作者団鬼六も同一人物と知って驚いた 僕がSM小説を一番読んだ時代であった

さて久しぶりに団鬼六を読んだ この「美少年」は団には珍しい自伝的小説で( ( SMは実際経験はなかった営業用) 関学在学中の話である 実際団は劇団エチュードと同時に軽音楽部のスターでもあった 同じ軽音には高島忠夫がいた、

軽音楽部の隣の部室は邦楽研究部であった 「私」はそこで気品溢れる美少年菊雄と出会い倒錯の世界にのめり込んでいく やがて応援団の学生ヤクザ山田に知られ、その愛人マリーや「私」の恋人久美子を巻き込みクライマックスの「私」の目の前で3人の男女に菊雄がレイプされるシーンで終わる

「私」がセックスの相談する東郷健は実際関学の先輩で「おかま」を公言していた 某大銀行の重役木村某と恋仲でその相手は宝塚スター扇千景の父親という両党使いであった

菊雄は関西有数の舞踊家元、若松流の御曹司で若松菊雄を名乗った 家のしきたりからか小学生まで女の着物を着せられて躾された いよいよその着物を脱ぐ日は悲しくなって泣いたという そして17歳の時義理の叔父さんに犯され、色々仕込まれたという この流派は花柳流だ 小説では事件の2年後 ヨーロッパ巡業を終えた菊雄は服毒自殺してしまう しかし実際は僕もコマ時代振付でお世話になった花柳雅人さんがそうだ その後日本舞踊飛鳥流を起こし初代家元飛鳥峯王を名乗った 今年6月亡くなった、その死亡記事

飛鳥峯王(あすかみねお 日本舞踊飛鳥流初代家元 本名武田欣治郎 94歳)    喪主は3代目家元飛鳥左近(長女)

65年.日本舞踊アカデミーASUkAを創立、80年に飛鳥流を創設し宝塚、OSK日本歌劇団 コマ、新歌舞伎座などの振付、演出を手掛けた 桂米朝さんら関西の多ジャンルの若手が芸を語り合うグループ「上方風流ぶり」のメンバーだった 歌舞伎俳優の市川右團次は長男  

 

 


白鷺だより(439) 北島三郎の漢字一文字の歌

2023-04-27 14:26:40 | 思い出

北島三郎の漢字一文字の歌

北島三郎の楽曲には漢字一文字の曲がかなりの数がある

 僕が初めてコマで北島公演を担当した頃は一文字のタイトルは「步」(昭和51年)だけだった  (昭和45年に「盃」、「誠」をだしているがヒットせず)  そして昭和62 年 デビュー25周年記念曲で一文字の「川」を出す その前年、北島が暴力団との付き合いが発覚して紅白歌合戦を降板した年であった 順風満帆で成長して来た北島音楽事務所の初めの躓きだった しかし北島は記者会見の席で一切余計なことは言わすただ「北島三郎の不徳の致すところです」以外何も言い訳も言わななかった 翌年の正月2日 我々スタッフも事務所のメンバー全員が八王子のご自宅に集合して新たに決起集会を行なった

専属司会の及川洋は川のイントロ前にこんなナレーションを付けた

「貸した情けは流しても 受けた恩義を忘れちゃならぬ 怒涛の道に生きるとも せくな、騒ぐな、男なら 奥歯を噛んて時を待て 男の挽歌、漢字で一文字、川です」

川の流れと 人の世は/ 澱みもあれば 渓流(たに)もある/ 義理の重さを 忘れたら/ 立つ瀬無くして 沈むだろ/ 黙って男は   川になる

この曲は当時の北島の心情を見事に歌い上げてヒットした

その後同じ人生路線の「年輪」がヒットした

「幾星霜の人の世に 耐えて忍んていればこそ 冬は必ず春となる 振り向かず 立ち止まることなく 明日を拓け そこに生きてる者の証しを刻め 年輪です」

「雪の重さを 跳ね除けながら/背伸びしたかろ 枝も葉も/  山に若葉の 春がくりぁ/ よくぞ耐えたと 笑う風 /苦労年輪樹は育つ」

平成になり「山」がでる 

「流れる雲の 移り気よりも/動かぬ山の 雪化粧 /  ガンコ印の 野良着を纏い/  生きるオヤジの 横顔に/  俺は男の山を見た 俺もなりたい山を見た」

ショウの担当としてこの3曲をひとまとめにしてワンコーナーをつくった 

あと同じ路線の「橋」や「竹」などがヒットした

そう言えば一文字の曲としては他に「一」(いち)、「斧」、「鉈」(なた)、「舵」(かじ)、「道」、「狼」「空」、「母」、「峠」、「風」「友」「宴」、「道」「和」、「緑」「友」などもある

難読漢字としては「魂」(こころ)   、「拳」(こぶし)、「纏」(まとい)、「塒」(ねぐら) 、「鬣」(たてがみ)、「轍」(わだち)、標(しるべ)などがある

 

 

              

 

 


白鷺だより(438) 梅田コマ一年生

2023-04-21 16:38:11 | 思い出

梅田コマ一年生

 竹内志朗先生描く昔の梅田コマである この建物の左手には環状線が走っていてそのガード横の通路に楽屋口があった

  • 僕はこの劇場に昭和50年から平成7年までお世話になった いや話はその前年昭和49年からと言っていい(まだトップホットシアターに在籍していた )  中日劇場での「中日喜劇」公演でコマ文芸部のMさんがチーフの仕事に参加した(芦屋雁之助、有島一郎W主役) 翌年(その時はもうトップホットは辞めていた)  Mさんが構成・演出のショウの舞監の話が来た 東宝芸能所属の元宝塚の南原美紗緒を中心とした有名キャバレーを廻る大人向けのショウでコマミュージカルチームのダンサーやヌードさんまでいた   京都、神戸を無事終え東京の赤坂のキャバレーで稽古中、Mさんから電話があり「旅はもういいから明日僕と一緒に打ち合わせに行ってくれ」と云われ旅はもう一人の舞監Tさんに任せて打ち合わせに参加した 行った先は大スター阪妻の旧邸で息子さんの田村高広さんと演出の山本紫朗さんとの梅田コマ6月公演の打ち合わせであった そのまま6月公演に演出部で付いた そして何となくコマの契約社員となった

翌月はまだ短期公演(20日間)だった)北島三郎公演のショウ担当 後に友人となる北島の末弟拓克さんと知り合う

 その頃梅田コマの夏の恒例となっていた渡辺プロとの提携公演(アグネスチャン、天地真理、小柳ルミ子、森進一)を一つも覚えてないのは他の仕事をしていたせいか?

 京阪枚方パークで菊人形をやっていてその期間中コマミュージカルチームのショウをやっていたことがあった そのメンバーの間で公園前の喫茶店「コハク」にかわいい男の子がいると評判になった その道の大家であったMさんと見に行くと なるほどかわいい男の子であった 翌年その子はジャニー喜多川さんに引き抜かれ上京、川崎麻世と名乗りあっと言う間にスターとなる

 Mさんのことをその道の大家といったがMさんは僕には手を出さなかった 名古屋での公演ででも「風俗帰り」の僕を「女臭い! クサイ! クサイ!」とからかったが僕の仕事には一目おいてくれた 同じコマの文芸部のKさんが女子社員へのセクハラで厳重注意されたとき Mチャンはええなあ相手が男だとセクハラにならん(当時) とくやしがった

この年は9月藤田まこと「浪花放浪記」(安達靖人作・竹内伸光演出)、10月美空ひばり「弁天小僧」(まだ哲也さんは出所していない)  11月森繁久彌「にっぽんサーカス物語・道化師の唄」(小幡欣治作・演出)12月Mさん構成演出の「アデュー1975 」12月後半のミュージカル「蟻の街のマリア」は翌年1月公演ミヤコ蝶々「おんな寺」の稽古で不参加

 

 

 

 


白鷺だより(437) ミヤコ蝶々「おんなの橋」

2023-04-18 13:26:45 | 思い出

ミヤコ蝶々「おんなの橋」

芦屋凡々こと中村朋唯さんより古いパンフレットを貸していただいた中に 僕の名前〜演出補吉村正人〜がスタッフの一人として明記されている作品を見付けた 昭和58年10月南座公演「おんなの橋」がそうだ 何故梅田コマ文芸部の僕が松竹の作品のスタッフに入ったたかは記憶にない 当時「売れっ子」だった脚本の大西信行先生の引きか、あるいは制作に故大谷幸一さんの名前があるので彼の引きかも知れぬ 実は僕はこの作品の初演のスタッフなのだ 梅田コマに入ってすぐの昭和52年サンケイホールでの「蝶々リサイタル」の手伝いに行かされてその中のお芝居がこの作品の原型「大阪の橋」であった 第一部で使う屋台を高津小道具に注文したら後に関西美術を興すSさんが「人生双六」で使う屋台を持ってきた そう言えばこの「リサイタル」を制作したのは我らが師匠竹内伸光であり、その事務所「ショウビジネス」のスタッフの一人が大谷さんだった

昭和58年の8月に中座で「おんなの橋」と改題して再演 日向鈴子作・演出 大西信行脚本 この時に当時天笑と名乗っていた三代目天外が出ていて花道で出を待っていた蝶々先生が僕の耳元で「観てみい、親がダイコンなら子もダイコンや、何とかならんか」と言ったのを聞いた記憶があったので新喜劇の公演記録をみてみたらこの月新喜劇は演舞場に出演していて天笑も出演していた では天外=ダイコンの話をきいたのはいつの中座であろうか?

一杯セットの大阪堂島川にかかる水晶橋がいわば主人公  彼(橋)が見守る戦前、戦中、戦後にわたる様々な人生

第一部 いとはんの橋

第二部 かあさんの橋

第三部 たそがれの橋

この「おんなの橋」の大劇場版(中座、南座、名鉄)は好評を得てその後何度も再演された そのうち何度かお手伝いした記憶がある 

ある時大西先生がその後の再演作品に大西信行脚本の名前が無い、名前を復活してギャラを払えと松竹を訴えたことがある 確かに昭和60年名鉄ホールでは「日向須津子作・演出」となっているし、関西の役者岡大介さんより頂いた中座の平成二年の台本には日向すず子作・演出となっている

当時の中座のパンフレットの松竹永山会長の挨拶文によると「今回は日向鈴子ことミヤコ蝶々さんの原作を俊才、大西信行氏がこの公演のために密度の高い娯楽大作とすべく練りに練り上げて脚本化した愛と感動の珠玉編」云々とあって当時一般的ではなかった日向鈴子=ミヤコ蝶々の箔を付けるために大西先生の名を使ったのは明白で例え実際は演出補のOさんやNさんが口述筆記したものであってもこの裁判は大西側の勝利であった 

ここで僕の疑問だが初演のサンケイホールでの「大阪の橋」の口述筆記は誰がやったのか? 怪しいのは竹内伸光先生?

僕の勝手な推論、昭和48年「女ひとり」の大ヒット以来日向鈴子原案口述、竹内伸光台本化 たまには逢坂勉さんが手伝った

因みに昭和58年というと梅田コマの公演記録を見ながら思い出してみると1月鶴田浩二公演「関の弥太ッペ」、3.4月JACミュージカル「ゆかいな海賊大冒険」6月北島三郎公演「北島三郎おおいに唄う」7月細川たかし公演芝居「北酒場」8月中座ミヤコ蝶々「おんなの橋」10月南座ミヤコ蝶々「おんなの橋」11月村田英雄公演芝居「人生峠」12月ファミリーミュージカル「愛のシンフォニー」    よくやるわ!!