白鷺だより

50年近く過ごした演劇界の思い出話をお聞かせします
     吉村正人

白鷺だより(425) 浪花千栄子著「水のように」

2023-01-11 08:45:24 | 読書

浪花千栄子著「水のように」

 浪花千栄子に新喜劇時代には代表作というものがない理由を第二章「私の芸歴」で述べている 

私は座長渋谷天外の妻と云う誇りを捨て、一座の立て女形( トップ女優)である責任も放棄して一生懸命、この20年間一座のために奔走いたしました 当然私がやらねばならぬ役も他の人に譲らねばならぬことが往々にしてありました それは天外さんが一座の脚本家でもあったからで「亭主の脚本で一番いい役を取る」と云われては「統制上支障を来す」ということが大義名分になっていたからです ですから思いもよらない若い役がきたり、やった事もないし老婆の役が来たりその芸域の広いこと、つまり人の嫌がる役、蹴られた役の一手引受けという訳です それを20年やり抜き通した

そしてそれをやらした天外にお礼をこめて

「よくひっぱたいて下さいました よく騙して下さいました よく阿呆にして下さいました ありがたくお礼を申しあげます だからこそ今日の浪花千栄子がどうやらここまで歩いて来られたことを感謝致します 20年のあなたとの辛酸の体験にもの云わせて人間渋谷天外を平伏さすような立派な仕事を遺したいものと念願いたしています」

そんな浪花千栄子に対して長谷川一夫のアドバイス

「20年かかって二人で撒いた種が実ったと思うたら他人に刈り取られてしもうた、と思うたら腹が立つ しかしそれをその人は食べて生きてなさるんや、まるまる捨ててしもうたんなら惜しいけれど それでその人が命を保つていまさるんならええやないか、許してあげなさい 許してあげるのがあんたの道や、そして今度はあんたは勇気をふるい起こしてあんた一人で種をまきなはれ、今度実ったら誰も持っていかへん、こんなことでヘタってしまらんとさっぱり昨日を捨てて新しい種をまきなはれ 及ばずながら出来るお手伝いはさせてもらいますからね」

本の中で気になった名前を見つけて色々調べてみて勝手に想像してみました

 第三章「わたしの住居」に住居造りにお世話になったと登場する川上拙似さんは我々の子供時代の大スター川上のぼるの父であったが有名な日本画家であると同時に松竹家庭劇時代からの「渋谷天外」の「タニマチ」であった 本名登少年は幼少から南座などに出入りする熱心な家庭劇ファンであると同時にチャプリンやヒットラーのモノマネが見事で子供がなかなか出来なかった渋谷天外に「養子に来てくれ」とまで言わしめる程だった のほるは次男であったため(長男晃は東映美術部) 養子には問題はなかった これが実現していればどうなっていたか 

のぼるのその後を見てみよう 

のほるは旧制中学5年の時 アメリカの腹話術師エドガー・ベルゲンの出演する映画に感激し 彼のようにヌイグルミを用い見様見真似で腹話術を会得、学校の文化祭で披露した すると敵国アメリカ批判などを取り入れたブラックユーモアが受けに受け各地の余興にも呼ばれ挙げ句には中村メイコ一座にも参加する 戦後民放ラジオが出来、彼は大学在学中から専属タレントとして朝日放送と契約する 学生タレント第一号であった 「ハリスクイズ」のスポンサー名のハリス坊や(人形)をもっての腹話術は「イットーショー」のフレーズとともに人気を博し 後に同じく専属だった桂米朝が「あの頃一番儲けてはった」と言わしめる程 儲けた学生であった 

 天外、千栄子の養子になって渋谷登となった場合、子役で使わず彼に充分な教育をさせるだろう(自分達が出来なかったから)  そして大学まで進学させるだろうから腹話術の習得はするだろう そして民放ラジオの登場により専属タレントになっただろう、曽我迺家五郎師匠の死によって川上拙似らの尽力で「松竹新喜劇」を創立した天外夫婦の最初の試練は五郎劇残党の女形の大量の脱退だった それによる観客の減少はラジオが産んだ人気タレント渋谷のぼるを一目でも見ようと中座に押し寄せる客によって救われる 人気の中村メイコ劇団からの申し出も鼻であしらう そもそも天外の浮気の原因の一つは夫婦間に子供がいないことだったので立派な養子の存在はそれも解決する という事は浮気も離婚もないはずだ それ以上にこのラジオの人気スターの実演は今までとは違う観客を呼び込むだろう しかしそうなると曽我迺家十吾のプライドはそれを許すのか? 

そしてそんな中で新喜劇の救世主 藤山寛美は出現するのか? 

もしかしての話しは妄想がいくらでも膨らんでいく

 

 

 


白鷺だより(325)認知症の芦屋小雁

2018-06-23 08:09:01 | 読書

  認知症の芦屋小雁

フェイスブックのメッセンジャーを使って小雁の奥さんでありマネージャーでもある勇家寛子さんから長文のお便りが届いた 
それによると

ご無沙汰しております
TBSの金曜日七時からの「情報フライディ」という番組が小雁さんと私の密着をしてます
第一回の放送は6月22日になります
小雁さんの病気のことをカミングアウトする形です
血管性認知症
お受けするにあたって主治医の京大の先生や同級生のご主人 脳神経科の先生や色々相談もしています
一番は小雁さんが死ぬまで仕事がしたい、芦屋小雁で居たいと言います
ディサービスも二か所行きましたが一つは脱走、一つは喫煙室立てこもりで辞めました(笑)
今は買い物ヘルパーのお兄さんがお気に入りらしく月曜日から金曜日の毎日一時間お願いしています
でも芦屋小雁で仕事をするときはシャキッとします
不思議です
小雁さんの病気も何かの役に立てば それが芦屋小雁として生きることかと思います
病気の旦那を売って儲ける みたいに思う方もいると思いますけれど マネージャーとして妻として 芦屋小雁を最後まで送ってあげられたら それが私の仕事かと思います

宜しくお願いいたします
              西部

             (6月14日(木)10・55)


「のみとり侍」が終わって流れるスタッフのテロップに時代所作指導 勇家寛子の名前を見て「ああ元気で仕事をしてるんや」と安心していた矢先だったので(噂では聞いていたけど)ショックだった
そうだ 芦屋凡々が深夜 早朝にも拘わらずの小雁さんからの電話攻勢にあって 困って電話で文句を言うと全然覚えてないと言われたとぼやいていたのは少し前のことだ


昭和49年僕が初めて商業演劇の舞台監督を担当した時の看板さんで唯一生き残っているのが小雁さんだ 
他の看板さんは殆ど亡くなった 芦屋雁之助 雁平 有島一郎 花ノ本寿 立原博 旭輝子 内海カッパ 今宮エビス 平井昌一・・・・
いや生き残っている方を数えた方が早い 僕、芦屋凡々 清里流号そんなものだ しかも三人とも70を超えた


 前のブログに御園座で骨折したとき見舞いに行って大勢の女性がこぞって看病していたのに出くわした話は書いた 
ほおっておけないと思わせる 母性本能をくすぐる 女達がそんな小雁さんを見て 競って看病している この人は持って生まれて女性にモテる要素が揃っているなあと感心した この時の中心は大阪から駆け付けたディスクジョッキーのAだった のち彼女の書いたものを読むとこの後二人は別れる

最初の結婚は1960年 兄雁之助と大村崑 三人で合同テレビ結婚式を挙げた佐久間和美 OSK出身の歌手だった すぐ別居 しかし離婚は出来ず この頃が小雁さんが一番もてた時代である 人気デスクジョッキーのAはじめ全国津々浦々に女ありのいい時代
1087年 やっとのことで離婚成立 その後は紀伊田辺の殺されたドンファンのオッサンには負けるけど小雁さんも若い嫁を二代連続貰った 一人は28歳差の斎藤ともこ 続いて30歳差の勇家寛子 
勇家寛子は先代の恋人がスペイン人だったので スペイン語を喋れる


さて番組を見た感想を書こうと思う

小雁さんは昔からセリフ覚えは悪かった セリフが出て来なくなったら両手をクネクネさせて「ぼ、ぼ ぼくらは少年探偵団」などと誤魔化す これが一つの「芸」だった
これがいけなかったのかなあと思う 
必死で思い出す努力すらしなかったのだから

僕も一度だけディサービスの施設に見学に行ったことがある 
老人たちが楽しく運動をしているのを見て またカラオケを歌って過ごしているのを見て 気持ち悪くなり いたたまれなくなりすぐ退散した覚えがある
こんなところにいると同じように老いぼれてしまうのではないかという恐怖すら感じた
小雁さんが何度も施設を脱走したのもよーく判る

小雁さんの病気 血管性認知症 この認知症という言葉は昔痴呆症と言われた病気でイメージが悪いという理由で認知症なる意味が判らない言葉になった 正しくは認知不全症とでも言うべき言葉である

細川智のプロデュースした芝居の本番中 「ここはどこや」と言い出し病気が判ったというくだりのあとで智さんが出てる運転免許所返還のCMが出て来たのは皮肉だ

足にGPSの装置を付けて徘徊を防止する話は辛い
しかしそれでも芦屋小雁は施設に入って芦屋小雁としてみっともなく生き続ける
これはこれで役者芦屋小雁らしく 戦いの最中に戦死した兄雁之助とも その辺のおっちゃんとなって死んだ弟の雁平さんとは違う役者らしい生き方だ

がんばれ 芦屋小雁 ‼
がんばれ 勇家寛子‼ 


白鷺だより(318)澁谷久代著「ぼちぼちいこか 今日も前を向いて」を読んで

2018-05-19 10:15:39 | 読書
澁谷久代著「ぼちぼちいこか 今日も前を向いて」を読んで



元松竹新喜劇女優 滝由女路こと澁谷久代さんは二年前2016年5月「膵臓がん・ステージ4」を告知された この本は彼女の壮絶な闘病記のように見えるが そこは「喜劇役者」渋谷天外の女房、楽しくおもろい闘病生活を綴っている
告知を受けた彼女が一番思ったこと 澁谷天外こと「おっちゃん」を残して死ぬわけにはいかない おっちゃんの芝居の切符の手配はどうするのか 犬の世話は誰がするのか
この年は天外と結婚して25年目を迎える年だった

医者に余命を聞くと「三か月ですかね」
ステージ4の5年生存率2%未満

とにかく死ぬわけにはいかない
どうせ死ぬ命みんなで楽しんだらええやん

まず やりたいことをやっていこう

バンド率いて歌いたい
実はこの年BOROの協力のもと夫婦の25週記念としてネット配信する積りで吹き込んだアルバムが企画中であわててCDにしたばかりだった アルバムはジョー中山の「ララバイオブユウ」 越路吹雪の「ろくでなし」「大阪の女」「浪花恋しぐれ」(天外セリフ)という曲が収められている それを中心としたライブ 
8月「澁谷久代オンステージ<夢の路>」道頓堀ZAZAハウスにて
BOROらのゲスト 一流ミュージシャンによるバンド
わずか150といえそなかなか小さな劇団では満員に出来ないZAZAを満員札止めにして
公演は成功に終わった 急遽販売したCDも売れに売れた

この公演の二日前 これも生まれて初めての経験をした 映画出演だ
井上泰冶監督作品「すもも」がそれだ 幕末の信州が舞台の身障者と教育がテーマの時代劇で里見浩太朗さんがちょこっとゲスト出演した映画で天外夫婦は農民の夫婦の役だった天外が監督に事情を話し 「夫婦で画面の隅に出して」と頼んだ結果だった

さらに9月なんと25年ぶりに女優として舞台に立った
新喜劇の曾我廼家寛太郎が日頃演技指導しているサークルと新喜劇の若手がコラボする公演で題名は「裏町の友情」演出は天外で 昔娘役ででた芝居なのだが今回はその母親役
久しぶりの舞台は全く声が出ず 素人さんの中で一人うわずって天外に「お前あがっているのとちゃうか」と言われる始末

さらに翌2017年6月 アメリカ・ロスアンゼルスのワインバーでライブコンサートを行った 「ララバイオブユウ」「ろくでなし」「愛燦々」「サン・トウ・アマミー 」「フライミートウザムーン」これらを普段はワインを提供しそのバックで生演奏を聴かせるバンドをバックに歌い上げた

これらの目を見張る活動は彼女のFacebookで我々はリアルタイムで知ることが出来た
その破天荒な生き方に感動した読者が日に日に増えて行った

その文章のラストには
「今日も元気玉イッパイいっぱい集めて楽しく過ごしましょうか
よろしゅうお願いいたしますぅ~~!!」

で締めくくられる

彼女 澁谷久代は「高田浩吉劇団」のバンマスと女優の間の子供で母はやがて松竹新喜劇に入団して「瀧見すが子」と名乗って幹部女優の一人として活躍していた 高卒の頃(1975) 母が藤山寛美に「そういやあお前の娘どないしてるねん 女優にならへんのか?」と言われ すでに呉服屋に就職を決めていたのを辞めて入団 滝由女路と名乗る 名付け親は寛美と当時劇団付の作家香川登志緒先生 

その翌年2代目澁谷天外の息子天笑が入団
母親に「気いつけや あの男は」と小指を立てて「あれはこれが早いからな」
当時天笑は学生時代「子供が出来て」結婚した嫁と二人の娘がいた
劇団の二世通し 寛美はこのコンビを売り出そうと画策 共演も増えた
そして若い二人は結ばれるべくして結ばれる
これが寛美にバレて 当時は劇団員同士の恋愛はご法度、(自分のことは棚に上げて)すぐにほされた
 
当時天笑が干されて東京に行ったという噂は近くにいた僕らにも聞こえて来た 
しかしそれが劇団内恋愛だとは知らなかった
そして東京に出た天笑はとある有名女優との恋に落ち マスコミを賑わせる
kとの同棲だ 僕はこの頃本多劇場に梅沢公演を見に来た二人を見ている
kが大スターのように立派なコートを羽織っていたから お正月公演だったと思う その脱いだコートを後ろで抱えていたのが天笑だ 
これによって天笑は新喜劇を休団させられる

実は後に中座の新喜劇公演でこの二人を共演させたのは僕だ 
天外こと澁谷喜作 作の「おくてと案山子」という本だ
ダメで元々の提案だったが 巧い具合に誰も反対するものがいなくて拍子抜けだったことを覚えている
この本を読むと滝ちゃんは反対だったろうなあ

僕が新喜劇に関わった頃は滝由女路はもうすでに劇団を辞めていて芝居でご一緒したことはなかったが天外が個人事務所「オフィスてん」を作った頃はよく今里のマンションにお邪魔したのでちょうど同居し始めた天外の娘さん共々お世話になった

今月おっちゃんは東京に他流試合に出掛けている
友人の勝野洋さんの自主公演「スナック・ラ・ボエーム」に出演中だ
なんとうらぶれたオカマ役だ
稽古が長いため その間滝ちゃんは病院に入って おっちゃんの帰りを待っている

この5月で告知から丸3年を迎える
余命3か月が3年だ

         (5月19日)

追記
6月8日 澁谷久代さん死去

     これまでの頑張りに拍手を送りたい
     そして残された天外氏の頑張りに期待したい



白鷺だより(315)芦屋小雁著「笑劇の人生」その(2)

2018-04-27 08:26:31 | 読書
その2
巻き

僕の初めての商業演劇の舞台は昭和49年5月の中日劇場での中日喜劇「どんこな子」「花のお江戸の悪太郎」という芝居で前者が雁之助の作演出で もう一本は小野田勇作 津村健二演出だった 貸し切り公演の日 何かテンポが速いなあと思っていたら1時間チョットの芝居が40分ほどで終わってしまった 製作や営業にはこっぴどく叱られたけど小雁ちゃんに文句を言う前に「判ってる、けどセリフ抜いたか カットは一切してないはずや」と言われた よくよく考えてみると一つのセリフのカットもない 
これについて小雁さんはこのように書いている
「今日の客は食いつきが悪いなと思ったらセリフの数は同じでも30分も巻いて早く終わることもあった どうも全体に笑いが少ない セリフに対するノリが悪いと判断したら芝居中でも指をクルクル回して「巻き」のサインを出す 芝居のテンポを早くしろという合図です 笑いが少ないときはテンポよくパッパッというてあげた方がええんです」

芦屋雁之助のこと


僕と違って雁ちゃんは堅い芝居が好きなんです 基本的に人前では面白いこと言うのに根は居たってマジメ 強いものへの反発心みたいのがあって「お客にも媚びない 使う側にも媚びない」とよう言うてました 
そういうわけで三本立てやったら 一本目は雁平ちゃんら若手の芝居 二本目は僕と雁ちゃんがやる堅い芝居 三本目はお笑いの芝居というふうに構成していました
その二本目の芝居の為にわざわざ自分で池波正太郎さんや司馬遼太郎さんを訪ねて「芝居をやらせてください」とお願いしてましたね 看板は喜劇と出しているけど僕らがやっていたのは真面目な人情喜劇 人間悲喜劇でした この他に当時の喜劇座の台本を書いていた作家の中から藤本義一、茂木草介など後に名を成す作家たちがいました
雁ちゃんも脚本を書くのですがこれが早いこと早いこと そやけど僕の役にあてて ややこしい長いセリフを書いてくるのには困った 稽古で僕がちょっとでもセリフ間違えたら
皆の前でボロクソに怒鳴り散らすんやから困った
雁ちゃんはどっちかいうと「社会派」やった 一度赤旗の時集記事の取材が来た時 そんなのの広告塔になったらあかんと引き留めました でもお客さんとしたらお笑い路線を期待してたのに僕らがやっていたのは真面目なシリアスな劇で 期待外れ
「どうにも北海道やと思たら九州でした」と言うたのをよく覚えています

ブログ(46)芦屋雁之助のこと ブログ(94)優しい目をした戦士の休日 参照

芦屋雁平のこと

雁平は僕と6歳年が離れているし芸能界へ入ったのも遅かった 僕に直接言わなかったけど僕の嫁はんには「芦屋三兄弟の中で上の二人は看板が大きいけど 自分はいつも小っちゃいなあ」とよく言っていたらしい ずっとコンプレックスを持っていたみたいやね
雁ちゃんは本人の前では「何やってんねん」と強いこと言うけど おらんとこでは「雁平はどこへ行っても好かれる ちゃんと仕事をしてる 偉いやつや」と褒めていた そやけど雁平は自分が褒められてるとは知らなかったみたいやね 「ふつうのオヤジさんになりたい 芸能界には定年がない 自分で決めようと思っていた」
そういうて65歳で芸能界を引退したんやけど 平成27年 76歳で兄の僕より先に亡くなった

ブログ(19)思い出カバン 参照

藤田まことのこと

売れっ子になってから雁ちゃんに自分の舞台の演出してほしいとか 脚本を書いて欲しいとか出演してほしいとか僕を通じてよう言うてきたけど雁ちゃんは「そんなもん出られるかい」となかなか首を縦に降らへん デビュー前から雁ちゃんを「オッキイ兄ちゃん」僕を「小っちゃい兄ちゃん」と呼んでた そんな時代を知ってるから自分の方が先輩やというライバル意識があったんやろな そやから僕だけ出ることがようありました(昭和53年7月中座の「必殺仕置き人」が最後の共演である)

中座 貼り紙事件の真相

昭和38年のこと 「笑いの王国」で「土性っ骨」という芝居をやったときのこと
花登筺が初めて書いた根性もの(のちに「あかんたれ」としてテレビドラマ化)
主役は大村崑、雁之助は「阿保ぼん」と言われる憎まれ役で 初日が開いてしばらくした頃 雁ちゃんがスッピンで舞台に出た 
それを聞いた花登さんは怒ってこんな貼り紙をした
「舞台稽古通りに芝居するように 誰とは言わないが舞台化粧もせずに出演している不心得者がいる 絶対に許せん」
そういった内容でした 僕は花登さんのところへすっ飛んで行って「お前、表に出え、話つけよ」と楽屋の外まで引っ張り出して怒鳴り上げた 貼り紙なんて卑怯なことするより
直接本人を呼んではっきり口に出して注意すりゃええやないか そう思ったんです 彼はこの時の僕を「私にとっては小雁君のその時の抗議は狂っているんではないかと思うほど激しかったのだ」と書いているが それほどに僕は怒ってた
花登さんは僕とは仲が良かったから僕に雁之助との仲を取り持ってもらおうと思っていたみたいですね 彼が僕を可愛がってくれたことは間違いないし 劇団の中で一番可愛がってくれていたかも知れない 
 翌年「笑いの王国」は解散する

小雁さんの女のこと

最初の結婚は昭和35年 雁之助や大村崑との合同結婚式の相手で東京から連れて来たデユット歌手で 二人の間には年子の息子も出来た 因みに雁之助の相手はOSミュージックのダンサーの中山某 中山喜久郎、現在の芦屋雁三郎の母親である 雁之助のペンネームの一つに中山十戒がある おそらくここからきている 大村崑は橘瑤子
小雁夫婦は五年ほどで事実上破綻 別居するが離婚が成立したのは昭和61年 その間ディスクジョッキーのAと同棲 半ば夫婦と言ってもいい関係だったが昭和58年 小雁が御園座の舞台で骨折して三か月ほど入院している間に逃げられてしまいました・・とある
この時は僕も傍にいて小雁さんの名古屋のマンションにお見舞いに行くと そのマンションの女性と某日活ポルノ女優とAさん(いかにも本妻というふうに見えた)が仲良く三人で看病しているように見えて驚くやら羨ましいやら思っていたのだが・・・
その後は「娘よ」の巡業で斎藤とも子と出来たことを写真週刊誌にスッパ抜かれて翌年前妻との離婚が成立してすぐ結婚した 小雁さん53歳 斎藤とも子25歳 歳の差28歳の結婚で話題になった 二人の間には一男一女をもうけるが平成7年 離婚 
それから一年後30歳年下の勇家寛子と再再婚 

昭和49年5月僕が初めて中日劇場で芦屋兄弟と仕事をした前の月 芦屋雁之助は梅田コマミュージカルチームのダンサー大島久里子と結婚した


白鷺だより(314)芦屋小雁著「笑劇の人生」その(1)

2018-04-23 17:40:07 | 読書
芦屋小雁「笑劇の人生」その1



小雁さんが本を出した

「僕らが日夜走り回っていた上方芸能の世界を知る人は今となっては殆ど見当たらなくなってしまいました そこで今回上方芸能の歴史の一コマとして残しておきたいというささやかな望みもあり 僕が今まで見聞きしてきたことを一冊にまとめておくことにしました
よう その歳までスカタンやってきたなあ どうぞ そう笑ってやってください」


そのタイトルは「笑劇の人生」という

僕は小雁さんのことは何でも知っていると自負していたが この本を読むと初めて知ることが多い まさに衝撃の人生だ

師匠のこと 芸名のこと

二人の師匠は漫才の芦乃家雁玉 当時ちゃんとした弟子筋でないと一流の寄席(戎橋松竹、富貴)には出られなかったのでツテを頼って弟子入りした 当時「上方演芸会」の司会で人気絶頂だった 雁玉は笑福亭門下の噺家出身 相方の林田十郎は仁輪加の女形出身 二人のしゃべくりが微妙に食い違うという面白さで人気だった(二人の肉声が残っているが聞いたことのある喋り方だと思っていたら雁玉師匠は芦屋凡々そっくりだった) 二人は弟子入りして「芦乃家雁之助 小雁」の芸名を貰う 後にOSミュージックに出るとき古くさ過ぎると勝手に乃の字を取ってしまって破門されるが有名になって許してもらえた

小雁ギャグ


・・・さらに「笑いの王国」を結成してからは舞台もやるようになった それも昼夜6本立 それにテレビのレギュラーが週に8本もある 芝居の合間にテレビ局に駆け付け生放送をやってまた舞台に戻る もう滅茶苦茶もいいところであった どうやったらそない仰山セリフ覚えられます その頃僕がよくやったギャグがあります 両手をねじり合わせて突然「おかーちゃん おかーちゃん」と奇声を上げて叫ぶんです このギャグはセリフを忘れた時によくやったもので・・・とある
僕もデビュー作「星の砂」でこれをやられた しかも人気絶頂の小柳ルミ子が踊りながら全盆で上がってきて踊りが決まって 満員のお客が万雷の拍手 次の第一声が小雁さんの父親の酋長のセリフを詰まり それをこのギャグで胡麻化された

大宝芸能

僕が不思議だったのは「笑いの王国」以降「喜劇座」でも松竹に籍を置いていた芦屋三兄弟が 僕が入った時は何故 同じ東宝芸能関西に所属していたかということである
これについてはこういう文章がある
「実はその頃 東宝から梅田コマ劇場の裏に劇場を造る計画がある そこで専属に芝居をやってもらいたいという話があった アチャラカとは違う真面目なシリアスな芝居をしたいと思っていたぼくらはこの話に飛びついて松竹を辞め東宝に移った ところがなかなか劇場を造ってくれない 僕らは本拠地もなく大阪、名古屋、東京の劇場を廻っていました」 とある
要するにこの新劇場をエサに東宝に呼び戻したということである
この予定の劇場はボーリング場跡に出来た阪急ファイブ(昭和53年)の中のオレンジルームのことだと推測されるが結局商業劇場は出来ず しかし大阪小劇場運動の拠点となって「そとばこまち」や「新感線」を育てた
   
浪花千栄子さんのこと

あんまり芝居には出ない人なんですが 僕と雁ちゃんが話し合って出て貰った
浪花さんは暴走するんです 舞台の上でセリフを言いながら乗ってきたら早口の京都弁で
客の喜ぶようなことをどんどん言い続ける こうなったらもう止まりません 僕は彼女の表情を見てて まだやというサインやったら黙ってる OKのサインが出たらやっと自分のセリフをいう そんな感じやったね

松竹新喜劇のこと


新しい役者が欲しかったんでしょうね 僕と雁ちゃんに松竹新喜劇に入らへんかという話があった もし僕らが入っていたら松竹新喜劇はどないなってたかな 雁ちゃんは「芸風」が違うと言って寛美とは一緒に芝居をせんかった

吉本新喜劇について


毎日放送は昭和34年3月に放送を開始を控えていた すでに大阪では読売TV 関西TVが放送を開始していて 毎日は後発組になっていた それに放送会社は毎日新聞の社屋を改造した建物だったのでスタジオが狭かった そこで開局記念番組を吉本と組んでうめだ花月杮落し公演として上演したのが吉本バラエティー「アチャコの迷月赤城山」を放送した これが吉本新喜劇の始まりです
(ずっと後昭和55年12月に梅田コマで上演した「雁之助主演」「僕の脚本」・「むちゃくちゃでござります物語」のラストシーンはこの芝居がモデルになっている)

実は僕ら兄弟は吉本に在籍していたことがある そやけど僕らの芸は吉本とは肌合いが違っていた 僕らはミュージックホールから出て来たいわばコメディアンです コメディアンと芸人の間には少し違いがある というか座長がいて台本があり それに合わせてやっていくのが基本的なスタイルだった吉本は僕らにとって古かった 売れていたので僕らを呼んだんでしょうが 特に雁ちゃんが吉本の芸風が嫌いやったこともあって わずか一年で辞めてしまった 「今の若いもんは辛抱たらん」なんて言われたけど僕らには別の思いがあった 花登さんも同じ考えやったね 要するに戦前までの関西の笑い 吉本とは違ったものをやろう ということで僕らもそれについて行った 

以下 その(2)へ