白鷺だより

50年近く過ごした演劇界の思い出話をお聞かせします
     吉村正人

白鷺だより(115)沖縄(うちなあ)芝居の名作「丘の一本松」(2)

2016-08-02 07:58:36 | 思い出
 沖縄(うちなあ)芝居の名作 「丘の一本松」(2)


      
曾我廼家五郎が亡くなった昭和23年松竹新喜劇が誕生した時「丘の一本杉」は上演されたが
元々は十吾・天外の「松竹家庭劇」時代の作品である
それを大阪巡業中の大宜味小太郎が家庭劇を見て舞台を沖縄にして脚色したのが「丘の一本松」である 
大正区に多くあった沖縄芝居の小屋で昭和16年に初演 
(杉が松になったのは沖縄では松が育たないので殆どないのである 余談だが花粉症もない)
だが思うように受けない 道頓堀に見に行って改良してもうけない 
思い切って「舞台を沖縄のある村」からはっきり女房の生まれた北谷にし言葉を北谷弁(その違いが判らない)にしたら 
これが当たった 
小太郎が二度目に来阪した丁度沖縄では標準語励行運動の頃だったが 
大阪では方言が自由に使えたからこそなせる業であった 
戦後沖縄にこれを持って帰ったら大当たり 沖縄芝居の代表作になった 
そして歌にもなった

「丘の一本松」
作詞 上原直彦
作曲 普久原恒勇

北谷桑江ぬ前ぬ 村はじし 渡久地小ぬ カンジャー屋よ
(北谷桑江の前の村はずれ 渡久地うまれの鍛冶屋だよ)
親子揃りとーてい 古金打ちやい 馬ぬ爪くまちゃい 見事なむんさみ
(親子揃って古金打ったり 馬の爪はかせたり 見事なものであるぞ)
アネ!良助 評判どー 村中他島までい 音ぬ立っちょんどー
(あれ!良助 評判だぞ 村中他の島まで 評判が立ってるぞ)

参考資料(1)
松竹新喜劇 館直志・茂林寺文福 合作「丘の一本杉」あらすじ

鍛冶屋を営む田中良助、お力夫婦には一人息子の幸太郎がいました 
幸太郎は職人として腕が立ち人柄も申し分なくいい息子なんですが 
どうしたことか父親の良助は何かというと意見の衝突から叱言を繰り返すのでした 
幸太郎も父親のそうした性分はよく心得じっと我慢をしていたのですが 
そこはまだ若い年頃 あまりにもむき出しに叱言を言われ 
ついに女房のおきくの止めるのも聞かず家を飛び出してしまいました
家を出たものの心に掛かるのはやはり年老いた父親のこと・・・
一方父親の良助も子供可愛さから矢も楯もたまらず 追いつけるはずもない足を引きずって後を追います
歩く足が鈍りがちになるのを感じながら幸太郎も歩きました やがて峠に差し掛かった時
幸太郎の足が止まりました ふと後ろを振り向くと老い立った大神木の一本杉・・・・
父と子は一本杉の前で再会し 
涙を流して親子の愛がどれほどまでに堅いものかを改めて知るのでした・・・・

参考資料(2)

昭和12年松竹家庭劇 配役
田中良助(曾我廼家十吾)倅幸太郎(天外)妹おせつ(浪花千栄子)
幸太郎嫁おきく(東愛子)馬喰徳松(志賀廼家淡海)

昭和43年松竹新喜劇 配役
鍛冶屋田中良助(天外)倅幸太郎(寛美)幸太郎女房おきく(鶴蝶)母お力(酒井光子)
医者野澤(秀哉)馬喰徳松(慶四郎)


「丘の一本松」は筋立ては全く同じで 
ただ 主役の父親(グァンクースー 頑固おやじ)は沖縄芝居の形式で「主」と呼ばれ
母親は単に「母」 良助は息子の名前に変わっている 
その嫁の名前はツル子となっている

今や北谷は基地返還後アメリカンビレッジなる若者が集まるスポットになり 賑やかに町になった 
大宜味が脚色するときイメージした松は「ティーチマーチュー」(一本松)の愛称で呼ばれていたが
日本軍の防空壕建設の為 切られたという 

沖縄芝居のヒーローで「ウンタマギルー蕓玉義留」という盗賊がいる 
本土でいえば鼠小僧次郎吉みたいな義賊で たまたま沖縄にいるときに那覇市民会館で見た 
もうその頃は 
沖縄芝居は下火になっていて喝采をおくるのは沖縄ことばの理解できるご老人ばかりであった 
沖縄の若い観客はもはや本土直結の吉本のお笑いに毒されてしまっていた

いつか沖縄国立劇場あたりが企画して 松竹新喜劇にも協力を仰ぎ
第一部「丘の一本杉」
第二部 大阪市役所 標準語励行のお達し
第三部「丘の一本松」
こんな公演が出来ないかな?

 








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1 コメント

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NHKドラマで知りました (POWriter)
2021-03-15 08:51:08
詳しい情報ありがとう。「おちよやん」で「岡の一本杉」が紹介されて、「岡の一本松」を思い出して、検索して発見です。

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