白鷺だより

50年近く過ごした演劇界の思い出話をお聞かせします
     吉村正人

白鷺だより(395 ) 及川洋の名調子

2021-10-25 11:55:34 | 思い出
  及川洋の名調子

 コマの北島三郎公演の司会は僕が知っている限り及川洋だった
及川さんは大正14年東京市本郷に生まれ 浅草の只野凡児劇団を経て歌手の司会者となる 東海林太郎、菅原都々子、三橋美智也、村田英雄などの大物歌手の司会を経て北島三郎の専属司会者となった
名調子の曲紹介があり「歌うは北島三郎です」とすっと北島三郎の出の方向を指し飛んで袖に入るそのカッコ良さは今でも目に浮かぶ
もっともコマは舞台が迫り出しているので飛んで袖に入るより客席に何度落ちたことか 
実はデビュー前の大野穣少年とは三橋美智也函館公演の時 会っており歌手デビューしたら司会をやるとの約束を果たした
実は及川さんは美少年が大好きなのだ
糟糠の妻がいる癖にどうも美少年に弱いのだ
コマ文芸部には何人かの犠牲者がいた

それではその名調子の数々を紹介することにしよう
七五調を意識して声に出してお読み下さい

兄弟仁義
義理が男の命なら
地肉を分けた血縁(ひと)よりも
今酌み交わす酒のうまさよ
男同士の眼と眼が濡れる
兄弟仁義!

喧嘩辰
恋にはぐれて人目を抜けて
涙拭った夜もある
広い世間の裏通り
七つ転んで八つ目で
きっとお前は押し通す
朧月、泣きを見せるな喧嘩辰

薩摩の女
火の国と云われる九州を
南に下れば鹿児島の
山の煙が目に痛い
我が胸の燃える思いを誰か知る
燃えてなお旅路は続く
薩摩の女

加賀の女
日本海を吹き抜ける風は厳しく
北陸の雲は暗く重くとも
伝統と歴史の街、金沢に
風雪の愛はいつまでも
第七話です
加賀の女

博多の女
見果てぬ人の面影を
訪ねて遠く来てみたが
誰をなかすの裏通り
渡辺通りの灯も消えて
恋の天神 噂が揺れる
東中洲のたそがれのドラマです
博多の女

与作
真っ赤な夕陽が
あの白壁を染めている 山間に
薄むらさきの黄昏が もう近い
汗した今日に感謝して 辿る家路
そこには安らぎの女房が待っている
与作です

貸した情けは流しても
受けた恩義を忘れちゃならぬ
怒涛の道に生きるとも
せくな 騒ぐな 男なら
奥歯を噛んて 明日を待て
男の挽歌 漢字で一文字 
川です

男の涙
広い世間に 縁あればこそ 結ばれて
俺とお前は生きている
幾春願って 幾秋嘆いて
やがてはきっと 花開く
せめてそれまで
許して欲しいと歌います
男の涙を

終着駅は始発駅
昨日にすがる思い出よりも
涙のあとの幸せを祈ろう
出逢いがあるから 別れがある
サァ、涙をお拭き
これが若い二人の 新たなる
旅立ちの日なのだから
終着駅は始発駅

あじさい情話
逢うは別れの始めとは
誰が言い初めた 言の葉か
別れてもなお
いで湯の町にその人を
訪ねて遠い春を知る
白から赤に、また青に
情け変えるな
あじさい情話
 
ふと亡き及川さんを思い出し書いてみました

なお写真は平成3年3月新宿コマ劇場にて戴いたサインで
「泣き笑い あってこの道 やめられず」とある




白鷺だより(394) 藤井薫著「楽屋の独裁者」

2021-10-22 07:04:52 | 松竹新喜劇
  藤井薫著「楽屋の独裁者」
 
 
 やっと探していた本が手に入った
 
まだ学生運動の後遺症が残り大学へ行かなくなってしばらく経った頃
籍だけ置いて卒論だけ書けば来春は卒業させるとのゼミの教授に声をかけてもらい 一年間の在籍費と食い扶持を得るため吹田にあった女が置いていった文化住宅を拠点に仕事を探すことにした
見付けた仕事は地下鉄の掃除で終電までに入場して最終が発車したらホームの掃除、線路の掃除(大量の小銭が落ちていた)、ゴミ箱のゴミ集め、そして最後にホームの水撒きをして終了、そのまま始発まで地下鉄の北端にある宿泊所で過ごすという極めて自分のペースでやれる、しかもかなりいいギャラであった 僕は朝まで集めた新聞紙や週刊誌を束にして(それを清掃会社が集めて現金化する) まとめたらその新聞や週刊誌をよんで朝の始発まで過ごした それから外に出てまず朝食を食べ帰って卒論を書いた 
その頃が僕が一番読書した時期だった
 
そのなかで大スポ(大阪スポーツ)に連載されていたのがこの「楽屋の独裁者」だ なによりヒットラーそっくりの天外がマンガっぽく描かれた挿絵が面白かった そして主人公と女優との濡れ場がエロっぽく描かれ(夕刊紙の連載には必要条件)ついつい読んでしまった
勿論、作者の藤井薫がどんな人物か、新喜劇という劇団もTVでチラっとみる程度で何も解らす読んだが後年この劇団と深く関わることになろうとは夢にも思ってない 
 
それから数十年経った
あの新聞連載の小説が本になっている事を知った
古本屋のネットで取り寄せて見ると例のマンガっぽい挿絵ではなく普通のイラストが何枚か入っていた
 
改めてジックリ読んで見るとタイトルから推察される作者を辞めさせた新喜劇への、いや天外への嫌みや攻撃ではなく 愛情をもって劇団を見、天外を観察していた作者が浮かんでくる
 
そして今でもそうであるが新喜劇文芸部のぬるま湯的存在を浮かび上がらせる
当時は星四郎が部長で平戸敬二と前狂言を分け合い新しい作者が現れると自らの利権を守ろうとする その挙げ句、主人公が自ら取ってきた五郎八主演のTVドラマの収録日に芝居の稽古をぶつけたりする (この時は天外に直訴し事なきを得る)
しかしこの両名の作品が現在使われることはめったにない
演じられるのは館直志(天外のペンネーム)と茂林寺文福(蘇我迺家十吾のペンネーム)ばかりだ
 
藤井が初めて名前が出た時のことをかいてある
僕もトップホット第一作の時 西宮北口駅の看板が作者の名前が出ていたことが記憶にあって 見に行ったことを思い出した
作・演出 吉村正人の文字が光っていた
 
名作「鼓」の出来上がる過程も面白く描かれている
次の日が初日という時に天外宅に文芸部が全員集まり出来上がるのを待つ ある者はガリ版切り(天外の字を読める人は数人)、ある者は印刷、製本係と分担でことさら天外が上がるのを待つ 
出来上がったらすぐに作業に入り手分けして劇場に運ぶ 舞台にはセットが組んてあり役者はそれを読みながら出入りを確認する
舞台稽古はそれだけだ
しかし本番には文芸部がプロンブにつく
これが文芸部の月一の大仕事だ
 
天外はかねがね言っていた
芝居は寛美という跡取りが出来た
しかし脚本はまだや
 
こんな仕事に甘んじていたら いい作者は生まれない
脚本の跡取りはいないと嘆いてみせる天外には果たして育てる気があったのか極めて疑問だ
 
主人公(作者)の恋人となる女優はおそらく当時人気のA .N.だ
最終的には作者と前後して新喜劇を辞めることになる
作者藤井薫はこの小説では触れられてはいないがオール読物の新人一幕物戯曲の募集に昭和35年、36年と連続で入選している
同じように入選した野口達ニや榎本滋民の大活躍に比べ不運な生涯だった
 
話はやがて日生劇場の事件となる
この真相は全くよく解らない ただ主人公は自分の作品をよろこんで天外に使ってもらったのであり それよりいい作品を書けばいいのだと決意していた
天外が一人で疑心暗鬼になり主人公が盗まれたと言いふらしていると思い込んでいたのだろう 丁度週刊朝日に連載していたエッセイにその思いを書いたのが拙かった 当然藤井薫の方が悪く思われるのは当たり前だ そのため一年間の謹慎処分を受け それがまもなく解ける昭和40年7月天外は南座の楽屋で倒れた処でこの小説は終わる
 
新喜劇はこの頃から変わってはいない
 
寛美は役者も残さなかった ましてや作者を育てることなど思ったことも無いだろう
 
相変わらず新喜劇は天外作品(館直志) ばかり上演している 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

白鷺だより(393) 「新・次郎長物語 海道一の男たち」

2021-10-21 17:38:13 | 思い出

     「新・次郎長物語 海道一の男たち」

 読売新聞月曜に連載している前米朝事務所社長の田中秀武さんの思い出話「生涯裏方」で懐かしい芝居を取り上げてくれた

1997年(平成9年)6月2日〜25日
南座
桂米朝芸能生活50周年記念 米朝一門公演
沢島正継 作・演出
「新次郎長物語 海道一の男たち」 だ

コマでよく助手の仕事をした沢島先生が演出ということもあり又トップホットシアターでよく遊んだ仲間が多い米朝一門の芝居なので、また仲のいい松竹の制作だったのでこちらから志願して参加させてもらった
沢島先生が東映映画で錦之助を使ってのお得意のジャンルなので安心出来る台本だ

企画の途中からの参加だったので米朝師匠が出演を最後まで拒否をしたことは全く知らなかった
結局テープで師匠のナレーションを入れるということで落ち着いたらしい
本来は実際も長生きしたらしい次郎長が老人姿で出て若き日の自分を振り返るとこれから始まり、ラストでまた出て来て50周年のお礼の辞を述べるはずだった
ナレーションですませるならそれも良しだ

米朝一門総出演がウリだったので枝雀、ざこば、南光、米団治‥などの弟子、孫弟子、ひ孫弟子など総勢50人 他に二代目桂すずめの三林京子、上岡龍太郎などのゲスト出演

米朝師匠はパンフレットの挨拶に
「まともにやれるはずはありませんがともかく一生懸命相務めます」と書いており
自分が出演しない経緯は全く触れてはいない

この公演には嫌な思い出がある
初日が開いてしばらくした頃、悪役黒駒の勝蔵に扮した上岡龍太郎が花道から出て来る前、子分に扮した雀々がすぐに現像出来るインスタントカメラを持って出て客と記念写真を撮りそれをプレゼントし始めた
雀々を問い詰めると「上岡さんの命令で逆らえない」という
すぐさま辞めさせると上岡が「お前もトップホットにいたんやろ、芸人の気持は判って呉れると思てたがな」というので「みんな苦手な芝居で一生懸命笑いを取ろうと頑張っるじゃないか、それをこんな簡単なことで笑いを取ろうなんて、これは芸人がやるシャレとは程遠いシロモノです、すぐさま辞めること」とタンカを切った
それ以降 舞台を観なかっので辞めたのか、続けたのかは知らない 注 その後米朝一門の若手(当時)と話すチャンスがあり聞いてみたらこのバカ行為は楽日まで続けられ益々エスカレートしていったそうな



白鷺だより(392) 阪妻の「無法松の一生」

2021-10-08 09:22:42 | 映画
   阪妻の「無法松の一生」



NHKBSプレミアムで「無法松の一生」4Kデジタル版を観た
脚本のみが伊丹万作となっているのは伊丹が脚本を完成させた後病に伏したからである 代わりにメガフォンをとったのは稲垣浩であった
人力車夫が軍人の未亡人に恋心を抱く設定であったため内務省に睨まれ稲垣は泣く泣く削除した 稲垣の回想によると内務省の役人は映画に造詣が深い人でこの名作は切るには忍びない、今上映しなくてもまもなく戦争は終わると思う、、それまでこのまま置いておくことは出来ないものかともちかけたが制作費用を早く回収したい会社はそれを許さす、その旨を役人に言うと「私には切れない、君が切れ」と言われ泣く泣く10分43秒切った

阪妻は「江戸最後の日」(1941)で稲垣と仕事をした関係で主役を受けたが一旦断わっている が執拗な頼みに「命に賭けてもやるつもりか」と聞くと「そうだ」と答えたので「判った、私も命を張ろう」と快諾した
吉岡夫人役は難航した 水谷八重子から始まり入江たか子、小夜ふく子まで交渉したが仕事が重なったり妊娠したりで流れた 小夜ふく子が同じ宝塚出身で私にイメージが似た女優がいるのだけど、と連れてきたのが園井恵子だった

吉岡のボン役は子役時代は澤村アキオ、後の長門裕之である

1943年2月から8月まで掛かった
この8月1日 三男正和が生まれる

さてこの年の10月上映された映画は稲垣が「こんなにほめられていいのかしら」と思うくらい絶賛に次ぐ絶賛であった 興行成績も黒澤の「姿三四郎」を抜いて1位の「伊那の勘太郎」に次ぐ第2位となり 作品評価も「映画評論」の1943年度のベスト1になった

4Kデジタル版の映像は凄く見やすく 悪名高き阪妻のダミ声も無法松によくあっていて良かった
(無声映画の大スターだった彼だがトーキーとなって声をきいた客はあまりにも汚さに多くのファンが失望した)
有名な運動会のシーンや祇園太鼓の場面はともかく稲垣が涙を流して切った、無法松の未亡人への思いはフィルムの間からよく伝わってきた

稲垣はこの映画のカットしたことを悔しく思っていて戦後1958年三船敏郎で完全版を作った

僕はこの題材は梅コマの「村田英雄」版しか参加していない
阪妻の息子田村高広さんも劇化しているが観ていない

村田英雄の「無法松の一生」は稲垣監督の再映画を当て込んでリリースされたが思うようにヒットせず お蔵入りとなっていたが村田が同じ文芸路線の「王将」を大ヒットさせたため過去の同路線の「無法松」も売れ始めヒットした

園井恵子はこの一作で一躍スターの仲間入りをしたが2年後 移動演劇の公演で訪れた広島で原子爆弾に会い死亡した

山田洋次はフーテンの寅のイメージを無法松に求め 車寅次郎と名付けた