「新・次郎長物語 海道一の男たち」
読売新聞月曜に連載している前米朝事務所社長の田中秀武さんの思い出話「生涯裏方」で懐かしい芝居を取り上げてくれた
1997年(平成9年)6月2日〜25日
南座
桂米朝芸能生活50周年記念 米朝一門公演
沢島正継 作・演出
「新次郎長物語 海道一の男たち」 だ
コマでよく助手の仕事をした沢島先生が演出ということもあり又トップホットシアターでよく遊んだ仲間が多い米朝一門の芝居なので、また仲のいい松竹の制作だったのでこちらから志願して参加させてもらった
沢島先生が東映映画で錦之助を使ってのお得意のジャンルなので安心出来る台本だ
企画の途中からの参加だったので米朝師匠が出演を最後まで拒否をしたことは全く知らなかった
結局テープで師匠のナレーションを入れるということで落ち着いたらしい
本来は実際も長生きしたらしい次郎長が老人姿で出て若き日の自分を振り返るとこれから始まり、ラストでまた出て来て50周年のお礼の辞を述べるはずだった
ナレーションですませるならそれも良しだ
米朝一門総出演がウリだったので枝雀、ざこば、南光、米団治‥などの弟子、孫弟子、ひ孫弟子など総勢50人 他に二代目桂すずめの三林京子、上岡龍太郎などのゲスト出演
米朝師匠はパンフレットの挨拶に
「まともにやれるはずはありませんがともかく一生懸命相務めます」と書いており
自分が出演しない経緯は全く触れてはいない
この公演には嫌な思い出がある
初日が開いてしばらくした頃、悪役黒駒の勝蔵に扮した上岡龍太郎が花道から出て来る前、子分に扮した雀々がすぐに現像出来るインスタントカメラを持って出て客と記念写真を撮りそれをプレゼントし始めた
雀々を問い詰めると「上岡さんの命令で逆らえない」という
すぐさま辞めさせると上岡が「お前もトップホットにいたんやろ、芸人の気持は判って呉れると思てたがな」というので「みんな苦手な芝居で一生懸命笑いを取ろうと頑張っるじゃないか、それをこんな簡単なことで笑いを取ろうなんて、これは芸人がやるシャレとは程遠いシロモノです、すぐさま辞めること」とタンカを切った
それ以降 舞台を観なかっので辞めたのか、続けたのかは知らない 注 その後米朝一門の若手(当時)と話すチャンスがあり聞いてみたらこのバカ行為は楽日まで続けられ益々エスカレートしていったそうな
NHKBSプレミアムで「無法松の一生」4Kデジタル版を観た
脚本のみが伊丹万作となっているのは伊丹が脚本を完成させた後病に伏したからである 代わりにメガフォンをとったのは稲垣浩であった
人力車夫が軍人の未亡人に恋心を抱く設定であったため内務省に睨まれ稲垣は泣く泣く削除した 稲垣の回想によると内務省の役人は映画に造詣が深い人でこの名作は切るには忍びない、今上映しなくてもまもなく戦争は終わると思う、、それまでこのまま置いておくことは出来ないものかともちかけたが制作費用を早く回収したい会社はそれを許さす、その旨を役人に言うと「私には切れない、君が切れ」と言われ泣く泣く10分43秒切った
阪妻は「江戸最後の日」(1941)で稲垣と仕事をした関係で主役を受けたが一旦断わっている が執拗な頼みに「命に賭けてもやるつもりか」と聞くと「そうだ」と答えたので「判った、私も命を張ろう」と快諾した
吉岡夫人役は難航した 水谷八重子から始まり入江たか子、小夜ふく子まで交渉したが仕事が重なったり妊娠したりで流れた 小夜ふく子が同じ宝塚出身で私にイメージが似た女優がいるのだけど、と連れてきたのが園井恵子だった
吉岡のボン役は子役時代は澤村アキオ、後の長門裕之である
1943年2月から8月まで掛かった
この8月1日 三男正和が生まれる
さてこの年の10月上映された映画は稲垣が「こんなにほめられていいのかしら」と思うくらい絶賛に次ぐ絶賛であった 興行成績も黒澤の「姿三四郎」を抜いて1位の「伊那の勘太郎」に次ぐ第2位となり 作品評価も「映画評論」の1943年度のベスト1になった
4Kデジタル版の映像は凄く見やすく 悪名高き阪妻のダミ声も無法松によくあっていて良かった
(無声映画の大スターだった彼だがトーキーとなって声をきいた客はあまりにも汚さに多くのファンが失望した)
有名な運動会のシーンや祇園太鼓の場面はともかく稲垣が涙を流して切った、無法松の未亡人への思いはフィルムの間からよく伝わってきた
稲垣はこの映画のカットしたことを悔しく思っていて戦後1958年三船敏郎で完全版を作った
僕はこの題材は梅コマの「村田英雄」版しか参加していない
阪妻の息子田村高広さんも劇化しているが観ていない
村田英雄の「無法松の一生」は稲垣監督の再映画を当て込んでリリースされたが思うようにヒットせず お蔵入りとなっていたが村田が同じ文芸路線の「王将」を大ヒットさせたため過去の同路線の「無法松」も売れ始めヒットした
園井恵子はこの一作で一躍スターの仲間入りをしたが2年後 移動演劇の公演で訪れた広島で原子爆弾に会い死亡した
山田洋次はフーテンの寅のイメージを無法松に求め 車寅次郎と名付けた