行友李風のこと
まだ演劇協会が北条秀司の会長で築地の市場の二階を間借りしていた頃 全国の劇場から送られてきたパンフレットを整理していた([演劇界]という雑誌の原稿であった 協会はこれをまとめて「演劇年鑑」を出していた)Hさんが分厚い本を出して来た 背表紙には「行友李風戯曲集」とあった「これは天皇が李風さんの為に精魂込めて作った本ですが売れません 勉強のために一冊買ってくれませんか」と泣きつかれ なけなしの出張費を巻き上げられた
もちろん李風の名前は「月形半平太」や「国定忠治」の作者として知ってはいはたが実際その芝居も見たこともなく 何かの劇中劇で「赤城の山も今宵限り~」の場面だけはコントなどで良く知ってはいた そうして無許可で上演されることを憂いて北條さんが本に纏めて著作権を主張したのである
大正4年芸術座を脱退して沢田正二郎が新国劇を結成 新富座で第一回公演を失敗
岡本綺堂作「新朝顔日記」野上彌生子作「事件」額田六福作「暴風のあと」
松井松葉作「寝台列車」
続いて京都南座公演も失敗 この公演を見た松竹合名会社の白井松次郎が「興行のことは私にまかせ あんたは舞台の事だけ心配すればよろしい 公演は昼夜二回 劇場は道頓堀弁天座だ」と金300円の山口銀行の小切手を差し出した
李風は大坂新報社の演芸記者であったが白井の勧めで松竹の文芸部に入って間もなく新国劇の座付き作家となった
その時の持ち込み台本に「国定」や「月形」はすでにあった
大正8年「月形半平太」初演 同年「国定忠治」初演 神戸中央劇場 国定忠治は初演時は国定忠次
大当たり 以後劇団の財産演目となる
大正12年 関東大震災 李風 退団 大阪に帰る 小説を書き始める
昭和4年 沢田死去 享年38歳
昭和9年 李風の長男卯一郎死去 小説も戯曲も書けなくなる 再演料のみで生活
昭和34年 李風死去 享年81歳
李風 全作品
その夜の謙信 助太刀 金山嵐 七本桜 函館夜話 舞衣草紙 月形半平太 春告鳥うぐいす
河内山と尚侍 金子市と丑松 国定忠治 新選組 異説安中草三 千葉周作 間新六
安宅丸 沢田正二郎の死 風説地獄双紙
北條天皇が戯曲集のあとがきに書いた文章
「演劇協会さんのお陰でドンドン脚本料が入ってくるようになりほんまにありがたいことやと思ってます(中略)風呂屋に行くために芝居小屋の前を通るとわての書いた芝居の看板がでていますのや 作者の名前も書いて無く もちろん十円の礼金も入ってきまへん
貧乏のどん底ににいる作者が手拭ぶら下げて看板を見てることも知りませんのや」
この翌日李風は亡くなったとあるから昭和34年の話だ
お子さんも亡くなっていたので「どうか私が死にました後は脚本料は全部芝居のために使って下さい」が遺言になった
桐ケ谷新国劇会計の話
桐ケ谷さん いつも言っていますがあの台本は新国劇の財産 私は沢田先生から過分な台本料、また給料も頂きました
ですから再演料は頂けません
どこかの劇団の座長さん お父さんが残した莫大な台本はいわば劇団の財産です 身内にはもう少し安く使用できるようには出来ませんか
それによって値打ちが下がるとは思われません そうすることによって作品の良さが外にも知らしめることになるのです
ある大衆劇団の座長が酒を二本持って来た
「先生、実は今月の15日から10日間難波の大劇場で先生の国定忠治を上演させて頂きたくお願いに来ました」と座長は深々と頭を下げた
李風は恐縮して、また吃驚して黙っていた
座長は許して貰えないと思いさらに頭を下げた
「いや実は私は吃驚してるのです 貴方のように上演を許して下さいと言ってきたのは初めてです 私は自分の作品が大衆演劇で無題上演していることを人から聞いて知っています しかしそれを咎めたことは一度もございません 大変失礼ですが旅回りの大衆劇団ではとても上演料を払える余裕はないでしょう」というと座長は
「先生、実は先生の作品は九州で何年も無断上演してきました 申し訳ございません」
と深々と頭を下げた
新国劇が新歌舞伎座や梅田コマへきて国定忠治を再演しても島田、辰巳は一度も李風宅を尋ねたことがない
家は二軒長屋、借家 電話 風呂もない
物を書く人は決して生活に、お金に恵まれてはいけない
生活のどん底にあって その苦しさに負けない人間でなければ本当の物は書けない
新国劇が地方回りで公演していた時 ある山陰の小さな町の劇場で上演したことがあった その小屋の楽屋の一室か二室 ある大衆劇団が鳥屋をしていた 行き先のない劇団は次の公演が決まるまで劇場に鳥屋をするのである この劇団は劇場の片隅で新国劇の芝居を見ていたが私は何と哀れなものかと思った 自分たちが恵まれていることに何だか悪いことをしているような気持だった
ここまで書いてフト筆が止まった
果たして行友李風を知っている若者はいるのだろうか
国定忠治の赤城山のコントを見たことのある人は?
「春雨じゃ濡れて行こう」といって判る人は?
まだ演劇協会が北条秀司の会長で築地の市場の二階を間借りしていた頃 全国の劇場から送られてきたパンフレットを整理していた([演劇界]という雑誌の原稿であった 協会はこれをまとめて「演劇年鑑」を出していた)Hさんが分厚い本を出して来た 背表紙には「行友李風戯曲集」とあった「これは天皇が李風さんの為に精魂込めて作った本ですが売れません 勉強のために一冊買ってくれませんか」と泣きつかれ なけなしの出張費を巻き上げられた
もちろん李風の名前は「月形半平太」や「国定忠治」の作者として知ってはいはたが実際その芝居も見たこともなく 何かの劇中劇で「赤城の山も今宵限り~」の場面だけはコントなどで良く知ってはいた そうして無許可で上演されることを憂いて北條さんが本に纏めて著作権を主張したのである
大正4年芸術座を脱退して沢田正二郎が新国劇を結成 新富座で第一回公演を失敗
岡本綺堂作「新朝顔日記」野上彌生子作「事件」額田六福作「暴風のあと」
松井松葉作「寝台列車」
続いて京都南座公演も失敗 この公演を見た松竹合名会社の白井松次郎が「興行のことは私にまかせ あんたは舞台の事だけ心配すればよろしい 公演は昼夜二回 劇場は道頓堀弁天座だ」と金300円の山口銀行の小切手を差し出した
李風は大坂新報社の演芸記者であったが白井の勧めで松竹の文芸部に入って間もなく新国劇の座付き作家となった
その時の持ち込み台本に「国定」や「月形」はすでにあった
大正8年「月形半平太」初演 同年「国定忠治」初演 神戸中央劇場 国定忠治は初演時は国定忠次
大当たり 以後劇団の財産演目となる
大正12年 関東大震災 李風 退団 大阪に帰る 小説を書き始める
昭和4年 沢田死去 享年38歳
昭和9年 李風の長男卯一郎死去 小説も戯曲も書けなくなる 再演料のみで生活
昭和34年 李風死去 享年81歳
李風 全作品
その夜の謙信 助太刀 金山嵐 七本桜 函館夜話 舞衣草紙 月形半平太 春告鳥うぐいす
河内山と尚侍 金子市と丑松 国定忠治 新選組 異説安中草三 千葉周作 間新六
安宅丸 沢田正二郎の死 風説地獄双紙
北條天皇が戯曲集のあとがきに書いた文章
「演劇協会さんのお陰でドンドン脚本料が入ってくるようになりほんまにありがたいことやと思ってます(中略)風呂屋に行くために芝居小屋の前を通るとわての書いた芝居の看板がでていますのや 作者の名前も書いて無く もちろん十円の礼金も入ってきまへん
貧乏のどん底ににいる作者が手拭ぶら下げて看板を見てることも知りませんのや」
この翌日李風は亡くなったとあるから昭和34年の話だ
お子さんも亡くなっていたので「どうか私が死にました後は脚本料は全部芝居のために使って下さい」が遺言になった
桐ケ谷新国劇会計の話
桐ケ谷さん いつも言っていますがあの台本は新国劇の財産 私は沢田先生から過分な台本料、また給料も頂きました
ですから再演料は頂けません
どこかの劇団の座長さん お父さんが残した莫大な台本はいわば劇団の財産です 身内にはもう少し安く使用できるようには出来ませんか
それによって値打ちが下がるとは思われません そうすることによって作品の良さが外にも知らしめることになるのです
ある大衆劇団の座長が酒を二本持って来た
「先生、実は今月の15日から10日間難波の大劇場で先生の国定忠治を上演させて頂きたくお願いに来ました」と座長は深々と頭を下げた
李風は恐縮して、また吃驚して黙っていた
座長は許して貰えないと思いさらに頭を下げた
「いや実は私は吃驚してるのです 貴方のように上演を許して下さいと言ってきたのは初めてです 私は自分の作品が大衆演劇で無題上演していることを人から聞いて知っています しかしそれを咎めたことは一度もございません 大変失礼ですが旅回りの大衆劇団ではとても上演料を払える余裕はないでしょう」というと座長は
「先生、実は先生の作品は九州で何年も無断上演してきました 申し訳ございません」
と深々と頭を下げた
新国劇が新歌舞伎座や梅田コマへきて国定忠治を再演しても島田、辰巳は一度も李風宅を尋ねたことがない
家は二軒長屋、借家 電話 風呂もない
物を書く人は決して生活に、お金に恵まれてはいけない
生活のどん底にあって その苦しさに負けない人間でなければ本当の物は書けない
新国劇が地方回りで公演していた時 ある山陰の小さな町の劇場で上演したことがあった その小屋の楽屋の一室か二室 ある大衆劇団が鳥屋をしていた 行き先のない劇団は次の公演が決まるまで劇場に鳥屋をするのである この劇団は劇場の片隅で新国劇の芝居を見ていたが私は何と哀れなものかと思った 自分たちが恵まれていることに何だか悪いことをしているような気持だった
ここまで書いてフト筆が止まった
果たして行友李風を知っている若者はいるのだろうか
国定忠治の赤城山のコントを見たことのある人は?
「春雨じゃ濡れて行こう」といって判る人は?