美空ひばりの「ファミリー」
父 加藤増吉
母 加藤喜美枝
美空ひばりこと加藤和枝は昭和12年父増吉26歳母喜美枝24歳の間に横浜にて生まれる 父は「魚増」という魚屋を営んでいた
本人 加藤和枝(美空ひばり)
妹 佐藤勢津子
昭和13年生まれ この人の存在は僕たちはまったく知らなかった
ひばりさんの死後急に登場して何曲かレコーディングしたがヒットせず もっぱら姉の曲を歌って営業していた
弟 かとう哲也
昭和16年生まれ 本名 加藤益夫 昭和32年小野透の芸名で歌手デビュー(そのころひばりと付き合っていた小野満の名前から付けた)
翌年東映で映画デビュー 昭和34年初主演 昭和35年東映はニュー東映を設立 その中心スターに小野を抜擢 何本か主演作を量産 しかし37年ニュー東映が解散 芸能界を引退 翌38年 ひばり御殿に家宅捜査 小野透賭博開帳図利で逮捕 翌年拳銃不法所持で再逮捕 昭和44年かとう哲也の芸名で芸能界に復帰 ひばり公演に参加
同年歌手円山鈴子(後の女優円山理映子)と結婚 翌年長男和也誕生
47年暴行で逮捕 48年山口組系益田組の舎弟頭であることが発覚 「美空ひばりショー」が警察の要請により各地で締め出し 賭博開帳図利等で再逮捕 この服役後 僕は梅コマで彼と会うことになる
ひばりプロダクション社長 ひばりの「人生一路」などを作曲
弟 香山武彦
昭和18年生まれ 本名加藤武彦
昭和34年 花房錦一(中村錦之助の錦の一字を貰った)の芸名でひばり主演の「ひばり捕物帳・ふり袖小判」でデビュー 以後美空ひばり主演の映画の脇役で活躍 37年から始まった「てなもんや三度笠」の駒下駄茂兵衛役で一躍人気者になる 作者香川登志緒の命名で芸名を「香山武彦」と改名 東西コマをはじめ姉の舞台のレギュラーとして活躍
そして梅コマに入ってひばり公演の担当となった僕とともに仕事し その馬鹿さ加減を露呈した 早くこの世界から引退すべきだと思っていたら
しばらくして引退 養老の滝チェーンの店長として働いているとの噂があった
息子 加藤和也(養子)
昭和62年生まれ ひばりさんは彼の両親の離婚後よく劇場に連れてきた 我々は彼の事を「かー君」と呼んでいた 7歳のときひばりさんと養子縁組(1977)
母親喜美枝さんが亡くなったのは1981年(昭和56年)田岡一雄も同じ年に亡くなった 共に68歳だった ひばりにとって両親を一度に失くしたように思えたに違いない
実弟哲也が1983年(58年)42歳で さらにもう一人の弟武彦も1986年(61年)同じく42歳で亡くした これで肉親は養子和也のみとなった
さらに親友ともいえる江利チエミも1982年(57年)に失くした
一度に親兄弟親友を失くしたひばりは寂しさを紛らわせるため酒と煙草の量が次第に増えていき 徐々に彼女の身体を蝕んでいった
ひばりにはこの他にも「自分が気に入った人」「ずっと仕事をしていきたい人」を「兄さん」「パパ」と呼び疑似ファミリーを作っていく
川田の兄貴
昭和12年の結成した吉本所属の「あきれたぼういず」は川田がリーダーで一世を風靡していた 昭和14年新興芸能の引き抜きに合い丁度吉本ショウの女生と結婚したてで仲人が吉本専務であったため川田だけが行かず事実上解散となった 新たにコンビを再結成して「川田義雄とミルクブラザース」で「地球の上に朝が来る」のヒットで吉本で活躍していたが脊椎カリエスを発症 ミルクブラザースは解散 戦後名前を川田晴久と改めメンバーを集め「ダイナブラザース」として再出発 そのときゲストで出ていた小唄勝太郎に花束を渡す役で出会ったのが美空ひばりだった ひばりは川田「兄貴」と呼んで慕った
川田もひばりを可愛がり周囲のいじめから守り芸能界のイロハを教え節回しを叩きこんだ
ひばりが「師匠とよべるのは父親と川田先生だけ」といったという
戦後病気が再発し吉本に養っていて貰っていたのを助けたのは偶然にも田岡一雄であった
そこでひばりとの再会が待っていた
田岡のおいちゃん
「ひばりが福島に連れられて私の家へ挨拶に来たのは昭和23年冬の事であった
ひばりは「神戸松竹劇場」に出演のため福島通人に連れられて初めて神戸へやってきた
むろん母親加藤喜美枝も一緒であった 応接間にちょこんと座ったひばりはまだあどけない少女であった そのときまで私は美空ひばりという少女の名前さえ知らなかった
ひばりは人なつこく私に「おいちゃん、おいちゃん」と問いかけ外連味のない少女であった 服装も質素であった まだ身につける装飾品一つなくズックの靴を履いていた
私がひばりを抱いて新開地を歩くとわっと群衆が殺到してきて押し合いへし合い歩けないほどであった 彼女の人気はすでに浸透していたのである その途中私は新開地商店街の
「とらや」で彼女のために赤い靴を買って履かせてやった」(山口組三代目 田岡一雄自伝)
鶴田のにいちゃん
昭和26年 松竹映画「あの丘超えて」(瑞穂春海監督)で人気絶頂の鶴田浩二扮する大学生を慕う役を演じたが実生活でも鶴田を慕い鶴田を「お兄ちゃん」と呼ぶようになった
錦兄ィ(きんにィ)
昭和29年 歌舞伎界から映画界入りした中村錦之助と松竹映画「ひよどり草紙」(内出好吉監督)で共演 翌年錦之助は東映時代劇の大スターとなり以降ひばりとの共演がスターへの登竜門と言われるようになる この共演後二人は恋仲になるが周囲の猛反対したため
さらに燃え上がり困り果てた田岡が東映の岡田社長に相談した 岡田は二人を諭してわかれさせた その後新東宝を経て移籍した東映で「笛吹童子」が大ヒット一躍スターの座を手に入れた その後二人は親友となり「お嬢」「錦にィ」と呼び合うようになる
澤島のにいたん
澤島忠が初めてひばり映画を監督したのは昭和33年の「ひばり捕物帳 かんざし小判」であった
彼が監督になって3作目 ひばりが東映専属となっての主演第一回作品であった テンポある和製ミュージカルをもざしたこの作品は大ヒット ひばり親子に気に入られた
一発で意気投合して2作目あたりから「にいちゃん」と呼ぶようになった
正確にいうと僕の場合は「にいたん」ですけどねと言っているのを何かの本で読んだ
「毒まんじゅう(暴力、エロ、ハダカ)の入った映画は撮らない」と言っていたが彼の「人生劇場、飛車角」がヒットしてそれが東映ヤクザ映画の魁となったのは皮肉な事だ
御園のパパ
昭和40年から昭和52年まで御園座の4月は美空ひばり特別公演だった
その頃の御園座は1月の三波春夫 4月は美空ひばりが不動の公演だった
何があったかは判らないがひばり公演は突然なくなった その時ひばりが必ず御園座に戻ると約束したのが御園座社長の長谷川栄一氏だった その約束が果たせたのは御園座70周年記念の年昭和60年7月だった その時ひばりさんは母親も弟たちもいない一人ボッチだった
東京のパパ
その御園座公演の第1作目は川口松太郎の「お夏清十郎」と「女の花道」であった
その後家族ぐるみの付き合いが始まって川口のことを「東京のパパ」と呼ぶようになった
御園座公演の直前昭和60年6月その「東京のパパ」こと川口松太郎が亡くなった
川口が取締役をやっていた関係で「いつか明治座の舞台に立つ」そんな約束をして果たせないままパパは亡くなった 最後の明治座公演はこうして決まった 昭和62年川口松太郎追悼公演と銘打った明治座公演は彼女の入院により果たせなかった
義妹 円山理映子
加藤哲也の妻 歌手の頃は円山鈴子と言った 昭和44年加藤哲也と結婚 ハワイへの新婚旅行にはひばりや母たちも同行 10か月で離婚 46年和也生まれる
離婚後映画に出ていた 地上げの帝王早坂太一と結婚話題を呼んだがすぐ離婚した
付き人 のりちゃん チイちゃん
ひばりさんで忘れてはならない人はこの二人である ひばりさんの一番身近にいて その全てを知る人だ
特にのりちゃんこと関口範子さんには僕個人も厄介になった なにせ哲也さんの逆鱗にふれて(理由は姉貴と親しくしているから)コマを首になりかけた時ひばりさんに進言してくれて何とか首を免れたことがあった このときから僕はひばりさんに直接言えないことものりちゃんを介して言えるようになった チイちゃんこと斎藤千恵子さんんとお二人 未だにあるじなきひばり御殿を守っている
婚約者 小野満
昭和28年 ビッグフォアを白木秀雄 中村八大 ジョージ川口と結成
昭和30年 小野満とシックス・ブラザースを結成 そのころジャズも歌っていたひばりのバックも担当した
昭和31年 ひばりと婚約 すぐに解消
国民的歌手であるひばりは「国の宝」であり自分が独占できないと思いいたった
昭和32年 浅草国際劇場でひばり塩酸をかけられる その際ひばりを背負い病院にむかったのは小野満であった
昭和34年 スイングビーバーズを結成 紅白歌合戦の演奏指揮を担当したが白組専属でけっしてひばりのバックでは演奏しなかった
夫 小林旭
雑誌の対談で知り合ってひばりが入れあげ父親代わりだった田岡一雄に自分の意志を伝えるよう頼んだ
結婚を考えてなかった小林も田岡の頼みでは断れずに昭和37年結婚した
ひばりの母親喜美枝はこの結婚に賛同せず 一時期セーブしていた仕事も次第に増やし結婚生活はままならぬものになって行く
この翌年父親増吉が52歳で死去
「家庭では良き妻を演じようとした」ひばりも歌に対して未練が残ったままだったため結局別居後1964年(昭和39年)離婚を決意
ひばり母子から頼まれた田岡から「お前と一緒にいることがひばりにとって解放されてないことになる 別れてやれ」と言われ小林も決心する
一方ひばりも「芸を捨て母を捨てることは出来なかった」と語り これからは舞台中心で活動することを宣言した
この年から新宿コマひばり公演がスタートする その第一作目は川口松太郎作 澤島忠演出「女の花道」であった
最後のセリフはこうだ
「どんなことがあろうと おっかさん 私は一生この芸は捨てません 私は芸で生まれ 芸に生きるんです!」