白鷺だより

50年近く過ごした演劇界の思い出話をお聞かせします
     吉村正人

白鷺だより(338)美空ひばりの「ファミリー」

2018-09-24 15:44:29 | 演劇資料

美空ひばりの「ファミリー」


父 加藤増吉
母 加藤喜美枝

美空ひばりこと加藤和枝は昭和12年父増吉26歳母喜美枝24歳の間に横浜にて生まれる 父は「魚増」という魚屋を営んでいた 

本人 加藤和枝(美空ひばり)

妹  佐藤勢津子 
昭和13年生まれ この人の存在は僕たちはまったく知らなかった 
ひばりさんの死後急に登場して何曲かレコーディングしたがヒットせず もっぱら姉の曲を歌って営業していた

弟  かとう哲也
昭和16年生まれ 本名 加藤益夫 昭和32年小野透の芸名で歌手デビュー(そのころひばりと付き合っていた小野満の名前から付けた)
翌年東映で映画デビュー 昭和34年初主演 昭和35年東映はニュー東映を設立 その中心スターに小野を抜擢 何本か主演作を量産 しかし37年ニュー東映が解散 芸能界を引退 翌38年 ひばり御殿に家宅捜査 小野透賭博開帳図利で逮捕 翌年拳銃不法所持で再逮捕 昭和44年かとう哲也の芸名で芸能界に復帰 ひばり公演に参加
同年歌手円山鈴子(後の女優円山理映子)と結婚 翌年長男和也誕生
47年暴行で逮捕 48年山口組系益田組の舎弟頭であることが発覚 「美空ひばりショー」が警察の要請により各地で締め出し 賭博開帳図利等で再逮捕 この服役後 僕は梅コマで彼と会うことになる 
ひばりプロダクション社長 ひばりの「人生一路」などを作曲
  
弟  香山武彦
昭和18年生まれ 本名加藤武彦
昭和34年 花房錦一(中村錦之助の錦の一字を貰った)の芸名でひばり主演の「ひばり捕物帳・ふり袖小判」でデビュー 以後美空ひばり主演の映画の脇役で活躍 37年から始まった「てなもんや三度笠」の駒下駄茂兵衛役で一躍人気者になる 作者香川登志緒の命名で芸名を「香山武彦」と改名 東西コマをはじめ姉の舞台のレギュラーとして活躍
そして梅コマに入ってひばり公演の担当となった僕とともに仕事し その馬鹿さ加減を露呈した 早くこの世界から引退すべきだと思っていたら
しばらくして引退 養老の滝チェーンの店長として働いているとの噂があった

息子 加藤和也(養子)
昭和62年生まれ ひばりさんは彼の両親の離婚後よく劇場に連れてきた 我々は彼の事を「かー君」と呼んでいた 7歳のときひばりさんと養子縁組(1977)

母親喜美枝さんが亡くなったのは1981年(昭和56年)田岡一雄も同じ年に亡くなった 共に68歳だった ひばりにとって両親を一度に失くしたように思えたに違いない 
実弟哲也が1983年(58年)42歳で さらにもう一人の弟武彦も1986年(61年)同じく42歳で亡くした これで肉親は養子和也のみとなった
さらに親友ともいえる江利チエミも1982年(57年)に失くした
一度に親兄弟親友を失くしたひばりは寂しさを紛らわせるため酒と煙草の量が次第に増えていき 徐々に彼女の身体を蝕んでいった 

ひばりにはこの他にも「自分が気に入った人」「ずっと仕事をしていきたい人」を「兄さん」「パパ」と呼び疑似ファミリーを作っていく

川田の兄貴
昭和12年の結成した吉本所属の「あきれたぼういず」は川田がリーダーで一世を風靡していた 昭和14年新興芸能の引き抜きに合い丁度吉本ショウの女生と結婚したてで仲人が吉本専務であったため川田だけが行かず事実上解散となった 新たにコンビを再結成して「川田義雄とミルクブラザース」で「地球の上に朝が来る」のヒットで吉本で活躍していたが脊椎カリエスを発症 ミルクブラザースは解散 戦後名前を川田晴久と改めメンバーを集め「ダイナブラザース」として再出発 そのときゲストで出ていた小唄勝太郎に花束を渡す役で出会ったのが美空ひばりだった ひばりは川田「兄貴」と呼んで慕った
川田もひばりを可愛がり周囲のいじめから守り芸能界のイロハを教え節回しを叩きこんだ
ひばりが「師匠とよべるのは父親と川田先生だけ」といったという
戦後病気が再発し吉本に養っていて貰っていたのを助けたのは偶然にも田岡一雄であった
そこでひばりとの再会が待っていた

田岡のおいちゃん
「ひばりが福島に連れられて私の家へ挨拶に来たのは昭和23年冬の事であった
ひばりは「神戸松竹劇場」に出演のため福島通人に連れられて初めて神戸へやってきた
むろん母親加藤喜美枝も一緒であった 応接間にちょこんと座ったひばりはまだあどけない少女であった そのときまで私は美空ひばりという少女の名前さえ知らなかった
ひばりは人なつこく私に「おいちゃん、おいちゃん」と問いかけ外連味のない少女であった 服装も質素であった まだ身につける装飾品一つなくズックの靴を履いていた
私がひばりを抱いて新開地を歩くとわっと群衆が殺到してきて押し合いへし合い歩けないほどであった 彼女の人気はすでに浸透していたのである その途中私は新開地商店街の
「とらや」で彼女のために赤い靴を買って履かせてやった」(山口組三代目 田岡一雄自伝)

鶴田のにいちゃん
昭和26年 松竹映画「あの丘超えて」(瑞穂春海監督)で人気絶頂の鶴田浩二扮する大学生を慕う役を演じたが実生活でも鶴田を慕い鶴田を「お兄ちゃん」と呼ぶようになった

錦兄ィ(きんにィ)
昭和29年 歌舞伎界から映画界入りした中村錦之助と松竹映画「ひよどり草紙」(内出好吉監督)で共演 翌年錦之助は東映時代劇の大スターとなり以降ひばりとの共演がスターへの登竜門と言われるようになる この共演後二人は恋仲になるが周囲の猛反対したため
さらに燃え上がり困り果てた田岡が東映の岡田社長に相談した 岡田は二人を諭してわかれさせた その後新東宝を経て移籍した東映で「笛吹童子」が大ヒット一躍スターの座を手に入れた その後二人は親友となり「お嬢」「錦にィ」と呼び合うようになる

澤島のにいたん
澤島忠が初めてひばり映画を監督したのは昭和33年の「ひばり捕物帳 かんざし小判」であった
彼が監督になって3作目 ひばりが東映専属となっての主演第一回作品であった テンポある和製ミュージカルをもざしたこの作品は大ヒット ひばり親子に気に入られた 
一発で意気投合して2作目あたりから「にいちゃん」と呼ぶようになった
正確にいうと僕の場合は「にいたん」ですけどねと言っているのを何かの本で読んだ
「毒まんじゅう(暴力、エロ、ハダカ)の入った映画は撮らない」と言っていたが彼の「人生劇場、飛車角」がヒットしてそれが東映ヤクザ映画の魁となったのは皮肉な事だ


御園のパパ
昭和40年から昭和52年まで御園座の4月は美空ひばり特別公演だった
その頃の御園座は1月の三波春夫 4月は美空ひばりが不動の公演だった
何があったかは判らないがひばり公演は突然なくなった その時ひばりが必ず御園座に戻ると約束したのが御園座社長の長谷川栄一氏だった その約束が果たせたのは御園座70周年記念の年昭和60年7月だった その時ひばりさんは母親も弟たちもいない一人ボッチだった

東京のパパ
その御園座公演の第1作目は川口松太郎の「お夏清十郎」と「女の花道」であった
その後家族ぐるみの付き合いが始まって川口のことを「東京のパパ」と呼ぶようになった
御園座公演の直前昭和60年6月その「東京のパパ」こと川口松太郎が亡くなった
川口が取締役をやっていた関係で「いつか明治座の舞台に立つ」そんな約束をして果たせないままパパは亡くなった 最後の明治座公演はこうして決まった 昭和62年川口松太郎追悼公演と銘打った明治座公演は彼女の入院により果たせなかった

義妹 円山理映子
加藤哲也の妻 歌手の頃は円山鈴子と言った 昭和44年加藤哲也と結婚 ハワイへの新婚旅行にはひばりや母たちも同行 10か月で離婚 46年和也生まれる
離婚後映画に出ていた 地上げの帝王早坂太一と結婚話題を呼んだがすぐ離婚した

付き人 のりちゃん チイちゃん
ひばりさんで忘れてはならない人はこの二人である ひばりさんの一番身近にいて その全てを知る人だ
特にのりちゃんこと関口範子さんには僕個人も厄介になった なにせ哲也さんの逆鱗にふれて(理由は姉貴と親しくしているから)コマを首になりかけた時ひばりさんに進言してくれて何とか首を免れたことがあった このときから僕はひばりさんに直接言えないことものりちゃんを介して言えるようになった チイちゃんこと斎藤千恵子さんんとお二人 未だにあるじなきひばり御殿を守っている

婚約者 小野満
昭和28年 ビッグフォアを白木秀雄 中村八大 ジョージ川口と結成
昭和30年 小野満とシックス・ブラザースを結成 そのころジャズも歌っていたひばりのバックも担当した
昭和31年 ひばりと婚約 すぐに解消
国民的歌手であるひばりは「国の宝」であり自分が独占できないと思いいたった
昭和32年 浅草国際劇場でひばり塩酸をかけられる その際ひばりを背負い病院にむかったのは小野満であった
昭和34年 スイングビーバーズを結成 紅白歌合戦の演奏指揮を担当したが白組専属でけっしてひばりのバックでは演奏しなかった

夫 小林旭
雑誌の対談で知り合ってひばりが入れあげ父親代わりだった田岡一雄に自分の意志を伝えるよう頼んだ 
結婚を考えてなかった小林も田岡の頼みでは断れずに昭和37年結婚した
ひばりの母親喜美枝はこの結婚に賛同せず 一時期セーブしていた仕事も次第に増やし結婚生活はままならぬものになって行く 
この翌年父親増吉が52歳で死去
「家庭では良き妻を演じようとした」ひばりも歌に対して未練が残ったままだったため結局別居後1964年(昭和39年)離婚を決意 
ひばり母子から頼まれた田岡から「お前と一緒にいることがひばりにとって解放されてないことになる 別れてやれ」と言われ小林も決心する
一方ひばりも「芸を捨て母を捨てることは出来なかった」と語り これからは舞台中心で活動することを宣言した 
この年から新宿コマひばり公演がスタートする その第一作目は川口松太郎作 澤島忠演出「女の花道」であった
最後のセリフはこうだ
「どんなことがあろうと おっかさん 私は一生この芸は捨てません 私は芸で生まれ 芸に生きるんです!」


白鷺だより(337)松竹新喜劇創立70周年記念公演

2018-09-13 07:43:55 | 松竹新喜劇
松竹新喜劇70周年記念公演



 9月5日 台風一過の難波に出て行って新喜劇70周年記念公演を観た
前日は台風の中無理やり幕を開けたらしい 役者やスタッフを近くのホテルに泊めて臨んだが 昼の部60名 夜の部80名の入りだった 
その上本番中エレベーターが止まるアクシデントがあったらしい 
こんなことなら思い切って休演にして他の日に振り返るか払い戻した方がまし(?)だった

話は変わるが今年は新派も130周年を迎えるらしく(1888年明治21年大阪新町座において角藤定憲が旗揚げした「大日本壮士改良演劇会」が新派の祖と言われる)記念公演が目白押しだ まず三越で「家族はつらいよ」全国巡業の「華岡青洲の妻」座長八重子が旅(日本香堂)に行ってる間に稽古した「黒蜥蜴」新しい路線開拓としての「犬神家の一族」
そして来春は十八番の「日本橋」で開ける 新しい試み(しかも客を呼べる題材)と古い名作 きっちり使い分けた企画だ 新加入の喜多村緑郎や河合雪之丞を生かす企画+古き良き新派の名作・・・制作の意図が良く出た企画だ

さて一方 新喜劇の記念公演はどうだったか 
この前の新橋演舞場では「人生双六」と「峠の茶屋は大騒ぎ(七両二分)」間に口上
前のブログ(329)に書いたように「人生双六」はひどいし(特に扇治郎がひどい)
「峠の茶屋は大騒ぎ」]は面白くもなんともない 天外に座長の意識が見えない
久本用の企画だろうが客の入り以外久本を使う意味がない

今回の松竹座公演は残念ながら予想通り「古き良き新喜劇の味」も「新しいこれからの新喜劇の試み」も一向に見受けられないまま観終わった
ただ「生ける新喜劇」小島慶四郎さんのお元気な姿を見せてもらって 演舞場では休演だったので安心した 
慶さんが出てきたら舞台がいっぺんに「新喜劇」になる
昔は一人ひとりがそうだった 五郎八 明蝶 伴心平 金乃成樹 長谷川稔 五文楽・・・
前田えみちゃんによる「慶四郎さん、とっても元気で一公演一公演楽ししんではります」との報告も嬉しく読んだ

昔僕がこの世界に入った頃 ミヤコ蝶々の芝居(「女の橋』の初演)で屋台のうどん屋の道具を小道具さんに頼んだ 
舞台稽古で火入れしたら「五年後」の文字がクッキリ浮かんだ 
誰かが新喜劇の「人生双六」の道具だと教えてくれた まだ関西美術はなく(?)高津小道具だった

「人生双六」は浜本啓一役を若手の植栗芳樹と渋谷天笑が務めるというのが売りだが所詮扇治郎があんな芝居ではどうしょうもない 
僕の観た回は植栗だった よくやっているのだが芝居は一人では出来ない 
その役の先輩高田次郎が何と言おうとそれは相手役が寛美だったから良く見えるのであって扇治郎だったらどうであろう 
扇治郎もいいかげんに寛美のビデオの真似事から卒業しないと客に逃げられる もう寛美の芝居を生で見た人の数も年々減ってきて、それを懐かしむ人も減った こういうハートの芝居はカタチより中身が大事だ 「必死に生きてる」それが見えないと何の感動もない
まあ多少の感動は与えることがあればそれは脚本の力だ
制作はこの狂言を扇治郎のために用意したのかも知れないが僕が制作なら記念公演としてチャンとしたキャストでやりたい 
いややるべきだった
例えば現状の役者でいくのなら宇田に八十吉 浜本に天外(2代目天外も初演からやっている)社長に次郎さん うどん屋に慶さん 母親はスポニチの土谷さんの言う通り座員にいないのでゲストの大津さん(直美さんが離さないのがよく判る) 浜本の嫁に川奈美 ルンペンマー公に寛太郎 金を落とす玉ちゃん のベストメンバーで見せる

 もう一本の「八人の幽霊」は大した盛り上がりもなく尻すぼみの芝居を観終わった後「おかしいな 僕が日本香堂で演出したときはもっと面白かった筈」と首を捻って家に帰り台本を読みかえしてみた
日本香堂では喜六・弥八には天外、八十吉コンビとお仙ちゃんに宮園純子 
宮園さんが意外に面白かった  悪だくみの天外が中々いい 八十吉のいいかげんな二枚目も良かった おっかさんの幽霊の千草英子はノリに乗って最高
マイケルジャクソンのスリラー(一応振付もあり)で幽霊たちに大暴れさして背中をひっくり返えすとそこに「お線香は日本香堂」の文字 
受けたなあ  

今回の弥八、喜六 八十吉、寛太郎コンビがギクシャクして空回り 貫太郎のセリフが聞き取りにくいのでうわっすべり 川奈美のお仙ちゃんが出来もしない喜劇的演技で通すものだから白けるだけである 日本香堂でこの役は宮園純子さんがやったが始終ちょっと頭の悪い二枚目で通し面白かった 次郎さんの元番頭も昔悪番頭役の次郎さんばかり見て来た僕には女将を殺して主人の座を奪った男としか思えなかった(これは次郎さんのせいではない見てる僕のせいだ) 死んだオッカサン役の天外はあれでは特別出演とは言えずただただ失笑のみ

これも僕だったら もう一本がベストメンバーでいくとしてこちらは喜六、清八は扇治郎と植栗(天笑)の若手コンビと若手女優のお仙ちゃん 元手代に天笑(植栗)ともう一人の若手女優のお嬢さん 宿屋の主人・番頭は江口 甲斐 都築あたりで 幽霊にはベテラン陣総出演で暴れていただくというのはどうだろう おお 丁度8名だ 全員顔出しで出て貰おう

もしくは新人作家の書下ろしで扇治郎を生かす新作+新しい演出家を呼ぶかだ 

新喜劇が誕生したのは1948年の12月なので70周年は来年のほぼ一年間は有効である
南座の来年正月公演を「裏町の友情」と「お祭り提灯」という「鉄板狂言」で開けることになった 
そもそも「裏町の友情」は初めて新喜劇を日本香堂でやった時の狂言(演出は僕)でその笑い声の大きさで会館が揺れたことは今でも忘れられない 見に来た新喜劇制作陣も驚いて さっそく その後中座でやってみたがこれはいつも通り全く受けない 
やはり田舎でしか通用しない古臭い狂言であった それをまたやろうとするのか 
もう一本の「お祭り提灯」は今でも新しい古典として通用するし扇治郎が出来る役は丁稚、これしかない
そういえばこの「お祭り提灯」は1956年ミヤコ蝶々 南都雄二で映画化されて(「漫才提灯」のタイトル)時代劇専門チャンネルで時々見られる

先に書いたが70周年記念公演は来年一年通用する 
演舞場、松竹座とそれにふさわしい企画が上がって来ることを期待して・・そうでなかったら新喜劇なる劇団の将来はない 
なるほど新喜劇が松竹の屋台骨だった時代がある 松竹東劇ビルをみて寛美が「あれは新喜劇が建ててやったのだ』とうそぶいたという 
その頃どん底だった歌舞伎(特に関西歌舞伎)が今や立場をひっくり返して「何をやっても客が来る」時代になったようには新喜劇はなるまい いつまでもバカの一つ覚えの「台本が財産だ」という考えを卒業して 新しい企画で新しい脚本で新しい演出でとにかく一歩進んでみる 
これが大事だと思う

今回の芝居の劇評に「珠玉の芝居が次世代に引き継がれる瞬間を見た気がする」とあった
僕がそんな歯の浮くような美辞麗句を並べることが出来なくて色々ゴタゴタ文句ばかり言うのはけっして新喜劇が嫌いなわけでない 
それは僕と新喜劇が同じ昭和23年生まれという縁だけじゃなく平成5年から26年にかけて約30本の芝居を共に作って来た同志的愛といったものであろうか 
健闘を祈る!がんばれ松竹新喜劇!

(9月5日松竹座夜の部観劇)


白鷺だより(336)福田善之と大島渚

2018-09-08 18:15:49 | 映画
福田善之と大島渚

 昭和29年麻布高校から東大仏文科に入った福田善之は在学中同窓の渡辺文雄や遠藤利男(NHKプロデューサー)らと共に大学を超えた演劇集団 「合演」を結成 福田は早稲田の藤田朝也(のちのふじたあさや)と共作で「富士山麓」を書いて五月祭で上演 注目される
そんな彼の元に京大の学生演劇集団「風波」の東良睦弘(とうらむつひろ、後の戸浦六宏)から彼の書いた台本が送られて来たので当時やっていた芝居のガリ版刷り台本を送ったことがあった その時は手紙だけのやり取りで会ったことはなかったが後にその劇団のスター男優が大島渚だったことを聞いて驚く 後年福田は東映京都撮影所の前の酒屋のおばちゃんに「リリオムの主役をやった時の大島さんすてきだったわよ、 ハンサムで細くて」なんてことを聞いている

「日本の夜と霧」
家が近所だった大学時代演劇仲間の渡辺文雄にちょっと見に来いと言われ大船撮影所に行くと最後がまとまらないので大島が苦しんでいた 福田がたまたま読んだ「赤旗」に「統一と団結」というのがあったので「バカの一つ覚えで統一と団結をただ繰り返すアホなのがあった」といったら助監督の石堂が「それだ!」と叫んで事務所から「赤旗」を持ってこさせて読み始めた 「それだけで終われないだろう」というと「いいんだ これを繰り返してる間に暗い中でおわればいい」と石堂が言った 
それを決めるのは監督だろうというと大島が笑って「それでいい」と言った
この映画では普通の役者では出せない雰囲気を求めて早稲田劇研(当時はブンド系だった)の学生が多数出演した
津川雅彦や桑野みゆきも学生役ででていたが「スターリニスト」と言えなくて何度も噛んだ 「何ですかスターリニストって」と学生にきいていたが出来上がった映画を見ると本物の学生はチンピラみたいに見え津川が一番インテリ学生に見えた さすが役者は違う

「ブル―スを歌え」
映画が上映禁止になったのでその「日本の夜と霧」を大幅に翻案した「ブルースを歌え」を菅孝行と共作で書いた 映画をそのままやっても意味がないので当時始まっていた内ゲバを入れ込んだり安保から一年後の状況を取り入れた
なおその後劇団新演で演劇版「日本の夜と霧」も上演された

「天草四郎時貞」「真田風雲録」
評論家の扇田昭彦に「真田風雲録」はごく微細な登場人物に至るまで60年安保における現実にいた人物をあてはめていると褒められたが そんな器用なことが出来るわけがない
ところが「天草四郎」を観たら60年安保の群像を反映していてびっくりした

「日本春歌考」
建国記念日が制定された日大雪が降った 何かの仕事で山の上ホテルに缶詰めになっていた時 下の坂道でロケをするからすぐ降りてこい と言われ どんな役が知らないまま雪の道を観世栄夫さん、伊丹一三さんらと黒い日の丸を掲げ「反建国記念日」デモするシーンを撮った 
福田が関係していた劇団の宮本信子や自由劇場の串田和美や吉田日出子らが出ていたのでみんないろいろなアイデアを出し合ったらしい
そんな中 この映画で伊丹と宮本が出来て結婚した

「白昼の通り魔」
役者として出演したが殴るシーンがうまくいかず佐藤慶にこっぴどく怒られた
「みんな 監督を信じて監督の為にうまくやろうと集まっているのにお前が言うことを聞かないのはなんだ」と
「聞かないんじゃなくて出来ないんだ」と答えると
「それは監督だけじゃなく俺たち全員を侮辱していることになるんだ」と言われ「悪かった」というしかなかった 
反論する気もないくらい自分でもそう思っていた

「忍者武芸帳」
無風道人の声で出演した 福田の妻は「名犬ラッシー」の声優だったので二人で吹き込みにいった 
今度の映画は松竹もATGもついていないと聞いていたので制作が主演料の交渉で5と3と書いたので二日拘束で5000円と3000円だろうと思い お金がないから芝居人らしくそれでいいと思っていたが貰ったのは5万と3万だった 
その話を飲み屋で戸浦六宏に言ったら「バカ 俺たちだってそんなんじゃ出ないよ」と言われた
映画と芝居ではそれだけの違いがあるのか と思ったと福田の回想である