白鷺だより

50年近く過ごした演劇界の思い出話をお聞かせします
     吉村正人

白鷺だより(102)美ち奴と中野弘子のこと

2016-06-30 09:31:41 | 人物
      美ち奴と中野弘子

 前回の日本タップダンス史~中野ブラザースのこと~(1)で兄弟が
たまたま京都に焼け出されて来た美ち奴に預けられた話を書いた。
何故美ち奴はそんなことをしたのか
 
ウィキペディアに興味ある話が載っているので引用する

「ああそれなのに」や「うちの女房にゃ髭がある」などのヒット曲を持つ芸者歌手美ち奴は
戦時となりかってのヒット曲が歌えない時節になってきた 
「軍国の母」や「霧の四馬蕗」などの戦時歌謡をひっさけて
楠木繁夫(美ち奴の恋人だった・「緑の地平線」、「人生劇場」、「馬と兵隊」など)とともに大陸を慰問で廻った 
昭和18年北海道から両親をわざわざ呼び寄せ浅草に住まわせたが昭和20年の大空襲によって亡くしてしまう 

当時 美ち奴は浅草で人気を博していた女剣劇役者中野弘子の芸に惚れこみ 
中野とのコンビで数々の舞台を務め その活動拠点を京都に移していた
(兄弟を預かったのはこの頃であろう)
しかし恋仲であった楠木繁夫が別の歌手と結婚したり、両親を一度に失くすという悲しみを振り払うように 
美ち奴は中野弘子とともに全国興行に専念した

戦後の一時期はヒット曲がなかったが
昭和25年朝鮮動乱による特需景気によってお座敷ソングブームが起こり「炭坑節」が大ヒットする 
年下の歌手真木不二夫と恋仲となり妻子持ちの真木と同棲するが真木の度重なる浮気によってストレスを感じ
自律神経失調症を患い同棲生活を解消する
 
浅草のアパートで一人自律神経失調症の再発と闘病する美ち奴の不遇を知った中野弘子は
恩義ある彼女を支えるべく隣室に引っ越し再起を支えた

おりから昭和40年代の懐メロブームに乗って「なつかしの歌声」など仕事は増えたが
病気が再発 都内の病院を転々とする 
昭和58年江東区の特別擁護老人ホームに入所
引退公演を終えた中野弘子も同じホームに入所し 所内の演芸会では美声を披露したり 
二人で寸劇を演じたりと身寄りがないながらも穏やかな晩年を過ごした 

平成8年大腸ガンのため中野弘子に看取られながら78年の人生の幕を降ろした(5月29日) 
中野弘子も美ち奴の49日を執り行った後 後を追うように亡くなった(8月3日)

中野弘子に惚れたのは美ち奴だけではない 加藤喜美江 そうひばりのお母さんである

母親はいつもひばりに「あの目をちゃんと見習いなさい」と目配りの良さを誉めていた
本人とも親交があたようで 引退記念公演では着物を送られた

なおビートたけしの師匠深見千三郎は美ち奴の実弟である 


私事だが 明日から吉村は来年の日本香堂の作品を執筆するため ブログの更新は控えます
      2016 6・30
申し訳ありません
よかったら今までの記事に対してご批判・コメントなどがありましたら お送りください



白鷺だより(101)日本タップダンス史~中野ブラザースのこと~(2)

2016-06-29 08:43:09 | 思い出
日本タップダンス史~中野ブラザースのこと~(2)

昭和29年 東京キューバンボーイズショウで全国を回る
      米軍キャンプ ナイトクラブ 劇場など活躍の場が広がる

昭和30年 渡辺晋とシックスジョーズのショウで全国を巡演


江利チエミのお兄さんが誰かチエミにふさわしい踊り手はいないかと探していた時です
キャバレー「フロリダ」で中野ブラザースが掛かっているのをたまたま見て「これだ!」とピピピッときた
 日を改め今度はチエミの父親も一緒に連れて来て舞台のあと二人を席に呼んだ  
チエミの父親は即座に「あんたら中野チンピラ劇と違うか」と言ったら「そうです 兄貴は中野カオルです」と
 父親はびっくりして「当時吉本にいた三亀松のピアノを弾いていたからチンピラ劇はよく見ていたんだ 
とくに兄のカオルのお気に入りだった」と意気投合 奇しき因縁だった
チエミの父親久保益雄はよしもと専属のピアニストだった


昭和31年 4月名古屋毎日ホール杮落し公演で江利チエミと共演
      5月 日劇「江利チエミショウ」に出演
      (これがいかに凄いことか 日劇には専属のダンサーがいたのだが 
      チエミが二人を入れないと出ないとだだをこねて実現)
      続いて大阪北野劇場 関西九州での「江利チエミショウ」で巡業

昭和32年 日劇「江利チエミショウ」で三人で踊った「おてもやん」が好評
      日劇「秋の踊り」でタップダンス

昭和33年 大阪大劇 日劇「江利チエミショウ」
      映画「サザエさん」「青春航路」などのミュージカルシーンに出演

昭和34年 ラスベガス「ホリデイインジャパン」のメンバーとして
      ベガスのニュー・フロンティア・ホテルに出演 (美術中島八郎)
     この公演はシャリ―・マックレーンの旦那がプロデュースした 日本では小森和子が協力
初日の客 シャーリー・マックレーン フランク・シナトラ 
          ゲーリー・クーパー クラーク・ゲーブル
      アンコールが9回あった 「リド」のショウを抜いたと言われる
     大好評で一年間のロングラン この間タミー・モリナロにジャズダンスを学び
     アメリカの一流芸人の舞台や生活に接してますます発奮
 
     この年チエミ高倉健と結婚

昭和35年 日劇「江利チエミショウ」新宿コマ初出演 
12月から翌年6月まで日劇ダンシングチームと共にロンドン他イギリス7都市とコペンハーゲン公演に参加

昭和36年 2月より一年半 「シオノギ・ザ・ヒット・ショウ」に踊るホストとしてレギュラー出演 
      来日したジョージ・チャキリスと踊る

昭和37年 新宿コマ「スター誕生」

昭和38年 新コマ 菊田一夫作チエミ主演ミュージカル「百万人の天使」
の劇中劇「四十七分忠臣蔵」の主役大星由良の助に南風カオルを抜擢

昭和39年 江利チエミ主演ミュージカル「アニーよ銃を取れ」に振付と出演

昭和39年 梅田コマ「アニーよ銃を取れ」再演

昭和40年 東京宝塚劇場「キス・ミ―・ケイト」
 同年 「水谷良重ショウ」

 43年 宝塚公演の振付
 
 45年 ジョージ・チャキリスショウに出演

 46年~ 日劇のショウ振付 
同年 江利チエミ 高倉健と離婚

昭和51年 江利チエミ25周年記念
    梅コマ「スター誕生」再演
この公演が僕の唯一の江利チエミ体験だった
陽気に明るく振舞っているが ふと見せる寂しさはこの歌の寂しさだった

酒場にて(昭和49年)

好きでお酒を 飲んじゃいないわ
家にひとり帰る時が こわい私よ
あのドアを開けてみたって あなたはいない
暗い闇が私を 待ってるだけよ
また長い夜をどうして すごしましょう
愛の香りも 消えたあの部屋


昭和52年 江利チエミ 新コマ「鼻のお六」弥次喜多で出演
道中をデイスコビートのリズムで舞踊化大好評
なお この作品は藤山直美バージョンの原型となった

昭和56年 「踊り続けて35年記念リサイタル」博品館

昭和57年 赤坂に「タップチップス』誕生
男性タップダンサーの中の天宮良が一躍人気者に
「昨日 悲別で」主役を射止める

昭和62年 「踊り始めて四十年 アニバーサリー公演」シアター・アプル
ゲストに南風カオル 吉田タケオ

昭和63年~
     章三 福岡でタップダンス教室
啓介 日本テレビ音楽学院内のタップダンス教室

平成4年 東京芝メルパルクホール「踊り始めて45年アニバーサリー公演」

平成9年 福岡サンパレス「中野ブラザース50周年記念公演」

平成14年 西鉄ホール 銀座博品館 「中野ブラザース55周年記念公演」

平成19年 福岡市民会館 銀座博品館 「60周年記念公演」

平成21年 南風カオル 死去

平成22年 啓介 死去

章三は福岡で今も元気にタップダンス教室を続けている




吉村は昔飯塚の嘉穂劇場のお囃子部屋に貼ってあった「中野ブラザース」のカッコイイ写真を見たことがあった





白鷺だより(100)日本タップダンス史~中野ブラザースのこと~(1)

2016-06-28 10:58:17 | 思い出
日本タップダンス史~中野ブラザースのこと~(1)



僕が最初に本格的なタップダンスを見たのは 
江利チエミ25周年記念公演「スター誕生」の中野ブラザースだ。


まずは日本におけるタップダンスの歴史より 

 宝塚の後追いで松竹が作った松竹楽劇部
その東京松竹座公演を機に東京松竹楽劇部を作るとき
「何か新しい物はないか?」と松竹から坂東十助という人が頼まれニューヨークに渡り 
そこでジヨージ堀と川畑文子のタップを見て「これだ!」と思い
ジョージ堀をスカウトして日本に連れてきたのが事の始まりのようです
 
ジョージ堀は楽劇部以外でも様々な役者の指導にあたり大船撮影所などで振付を行った。
例えば日本初映画でタップを踊った林時夫 新派の大部屋から来日した川畑文子に気に入られコンビで全国を回った白幡石蔵 
日本で初めてタップダンスの教則本を作った稲葉実 日劇のトップスター荻野幸久 
日本一のタップダンサーの名を欲しいままにした中川三郎らの優秀な弟子を育て 
また日本劇場の杮落しに川畑文子と共演 素晴らしいステージを見せたそうです
 
松竹楽劇部は宝塚と同じように女だけの集団であったが(教えた中で秋月恵美子らの女性タップダンサーが出た)
それとは別に少年5人(歌舞伎役者子弟ら・のちの加東大介・片岡半蔵 益田隆ら)が出演していた 
その中で男役でも女役でも子役が出来た吉田タケオがいた。
 彼は貴重がられたが 正規のレッスンは受けられず楽劇部のレッスンを見よう見まねで覚えたようで
ジョージ堀には特に可愛がってもらったようです


さてこの吉田タケオが戦後中野ブラザースの師匠となるのですが その前史は


中野ブラザース 中野啓介(昭和10年生まれ) 中野章三(昭和12年生まれ)
父親は大洲橋次郎(義士廼家由良の助)大衆演劇の劇作家・演出家
母親 大洲トリ(三條八重子)看板女優
兄 大洲肇 (南風カオル)(昭和6年生まれ)チビッ子スター
 中野義士団 のちの中野弘子劇団
中野弘子13歳の丹下左膳に6歳のチョビ安のカオル人気を呼ぶ

中野弘子は中野児童歌舞伎のスターで一人立ちして「中野弘子劇団」が誕生

その穴を埋めるべく 父が子供たちのために「中野チンピラ劇団」という芝居を作る
子供だけで演じる新国劇のようなもので子供が主役を演じ 大人が脇役を演じるというもので
 カオル7歳(カー坊) 啓介5歳(ケイ坊) 章三3歳(ショー坊)の時「中野チンピラ劇団」は日劇に進出 
都内の各劇場を廻るうちに吉本の女社長に惚れこまれ 中野弘子劇団は大坂の吉本興業に移る(昭和15年と思われる)

(その頃吉本は新興の引き抜きにあい手持ちの芸人が少なくなっていた 
このころ入ったのがミヤコ蝶々も同じ理由だった)

昭和20年3月10日 大阪大空襲で家を焼け出され
(南風さんに聞いたが天下茶屋にあったらしい)
一家全員命からがら助かるが この疲労心痛で父は他界 中野チンピラ劇団は解散

敗戦とともに下二人の子供は東京空襲で焼け出されて 
たまたま京都に来ていた「ああそれなのに」「うちの女房にゃ髭がある」の歌手 美ち奴さんに預けられる 
兄と母は劇団活動を続け仕送りを続ける(座員に後の新喜劇に入った義士の家みどり・丘みどりがいた)

(南風さんの話 「ひもじい思いをしてないかと稼いだ金を一生懸命仕送りしたがなんのことはない 
あいつら俺たちよりええ生活をしてたんや」)

昭和22年
京都の旅館「さくらや」の女将の娘のプロデュースで二人を中心に子供達を集めて「小雀劇団」を結成 
初公演は12月京都花月で「たばこと悪魔」と歌と踊りの「小雀ショウ」の二本立て 
振付はOSKの泉氏と山田道子 二人の踊りの最初

同劇団は映画にも進出 23年から26年にかけて20数本の映画に出演 主な作品
「春爛漫狸祭り」木村恵吾 「忘れられた子等」稲垣浩「レミゼラブル」伊藤大輔など

東横映画「無頼漢長兵衛」に出演した時 村祭りのダンスシーンがあって吉田氏が振付だった
二人がタップ踊れる?と聞いてきたので「もちろん」と答えるともう撮影そっちのけで
教えてもらった

昭和24年 吉田タケオからタップダンスのレッスンを受ける
      この頃から進駐軍のキャンプ周り
       この二人の査定はAランク

昭和27年 章三の中学卒業と同時に兄弟二人で吉田タケオスタジオに入る
      吉田ダンシングチームのメンバーとしてキャンプ廻り
      母は劇団を辞めて兄弟の世話に入る

昭和28年 母を伴って上京 「中野ブラザース」を名乗る 18歳と16歳(以下次回)


白鷺だより(99)「高津小道具」について

2016-06-27 10:20:58 | 思い出
小道具 高津商会の歴史

鶴田浩二の「人生劇場」に客演していた片岡知恵蔵はドスを抜いて眺めるシーンで
「こんな偽もんじゃ芝居にならねえ 本物を用意してくれ」と言われ困って高津小道具のIさんに相談したら
「よっしゃ 内緒で持ってきたあげる」と言ってくれて翌日「見つかったら銃刀法違反や」
と新聞紙にくるんだドスを抜いて見せてくれた そのドスは怪しく光っていた
片岡御大が気に入ったのは言うまでもない


さてその高津小道具の歴史を紐解いて見ると

明治35年 高津嘉之 愛知県知多半島富貴村に生まれる 
     本名 高津義家(たかつよしいえ)

明治40年 父親の従兄 高津梅次郎(京都市一条御前下るにあった高津道具店を営む)の 
     養子となり同店に奉公

明治45年 同店の斜め向かい法華堂横に横田商会が「法華堂撮影所」を建設 
     目玉の松ちゃんこと松之助映画の量産  
     同年 日活が設立され法華堂撮影所が日活撮影所となる

大正2年 梅次郎が所有する北野天満宮北柏野の土地地価高騰する
     この頃から店の前の壁撤去で撮影所(池永浩久所長)の通勤路短縮、
     小物を貸し出すなどの近所付き合い始まる

大正7年 日活撮影所 大将軍へ移転

大正10年 牧野省三 日活から独立 牧野教育映画製作所 設立
      等持院境内に撮影所建設 改名を重ねて「マキノキネマ」となる

大正11年 嘉之の実弟 南正守が富貴村より高津道具店に奉公に来る
     9月牧野省三の依頼でマキノキネマに小道具貸出を始める

大正12年 高津道具店が正式に関わった「天竺徳兵衛」封切
     関東大震災により関東の映画人が京都に流入 日活は大将軍に従来の時代劇部      
     門に加え 現代劇部門を併設 松竹は下賀茂撮影所で映画製作を始める
     本格的な映画小道具貸出業が始まる

昭和2年 マキノキネマの棟梁 河合広始 双ケ岡撮影所を創設
     この頃スターの独立が活発となり 各スタープロが集まるが
     (阪妻プロ 片岡知恵蔵プロ 市川右太衛門プロら)
     その小道具を請け負い多忙を極める(一月に36本)

昭和5年 嘉之らが閉鎖された双ケ岡撮影所の管理を行う
     経営難の同業者を高津道具店に吸収する(古田小道具店 長沼小道具店)

昭和6年 嘉之 双ケ岡撮影所を嵐寛寿郎プロに貸し出す
     会社組織高津道具店となり大将軍に100坪の土地を購入 二階建ての倉庫建設

昭和7年 高津家一条通に新居を構える
     元日活制作部長築山某が洋服部に衣裳貸し出しの権利を得るが資金難で梅次郎      
     が共同出資して「京屋洋服店」を設立 嘉之 出向重役として常勤

昭和9年 日活現代劇部門 東京多摩川移転に伴い 南正守が東京方面を担当

昭和11年 双ケ岡撮影所 松竹第二撮影所となる

昭和14年 第二次世界大戦起こる 従業員次々と徴兵 総人員が6人の時も

昭和26年 有限会社より(株)高津商会となる

昭和33年 北野白梅町に倉庫建設(ここへはよく打ち合わせに行った)

昭和45年 京都市上之町に鉄筋三階建ての倉庫建設
      特に貴重なコレクションの保存スペースを設ける
      (これもみせて貰ったが博物館以上のコレクションだった)


なおこの高津の読み方であるが本名は「たかつ」ですが
この名前は名古屋から東は「たかつ」と読み 西は「こうづ」と読む 
西で商売してるからみなは「こうづ」というてくれるので それでいいのとちゃいますか
ということです ですから我々は「こうづしょうかい」といわしてもらいます

なお藤山寛美が松竹芸能の勝社長とでっちあげた小道具トンネル会社「関西美術」のAさんは
もともと高津の社員であった 最初は道具なしではじめて全て高津から借りて上乗せして商売を
していたが 徐々に小道具は増えないものは全て買っていた
例えば名鉄公演などでは名鉄スタッフ(社員割引きが受けられた)とボクを連れて
仏壇を買ったことがある

白鷺だより(98)三重県立上野高校

2016-06-25 08:01:16 | 思い出
県立上野高校



ベビーブームの真っ盛りに生まれ、この小さな町でも小学校、中学校も10クラス以上あった・・
所謂団塊の世代でなんでも競争 競争と言われてきて初めての受験
もちろん地元名張にも高校はあったが あえて電車通学の三重県立上野高に入学 
(白鷺だより(72,73)西田猪之輔(1)(2)を読んで戴いた人は判っていただけるが
僕は当然のことのように上野高校(昔の三重三中)へ進学した)

近鉄大阪線で名張駅から伊賀神戸まで出て(6分)伊賀線に乗り換え(2分)単線の電車で畑の真ん中を行き 
上野市駅まで25,6分 合計片道40分

白鳳城と言われた上野城の真下にその高校はあった(元々お城の馬場だったところだ)

駅を降りて先ほど渡った踏切を渡るとまず右に上野市役所(当時:現伊賀市)その横に
上野西小学校 その横が上野高校だ その横に赤門の向うに昔の藩校 崇廣堂があり
崇広中学があるといったふうに文教地区を形成している
その向こうにお堀があり 石垣の上に上野城がある上野公園になっていて
芭蕉の旅の姿を模した「俳聖殿」「芭蕉記念館」などがあり サクラの季節は綺麗だった

校歌2番

城の石垣 底深く
堀に据えたる さまを見る
崇廣堂を 庭つづき
学のしづけき さまを見る


上野高校の校訓は 自彊不息 (易経)  自ら求めてやまず

自彊不足時候(人が自ら励み一生懸命になっているときは)
心地光光明明(その心は光に満ち明るく)
何妄念遊思 (つまらない考えとか遊びたいとかの気持ちはなく)
何嬰累罣想 (わずらいことや気にかかる思いはないものである)


上野高校の出身者には
新感覚派の作家 横光利一 政治学者の猪木正道 元厚生・運輸大臣の斎藤昇 
歴史学者の益田四郎 書道家の榊莫山  NHK解説委員田畑彦右衛門 
俳優の椎名桔平 歌手の平井堅 
「売らいでか」の原作「ある開花」の作者 岸宏子 「忍ぶ糸」の作者 北泉優子
もちろん西田猪之輔も僕の大叔父吉村貞一もそうである

お城には若き日の横光利一が肝試しの逆立ちの競争をしたという伝説がある石垣があった


文芸部に入る 顧問は京大出(大島渚と同じころか)の浜川先生(古文) 
神戸出身で 山がある方が北だと思っていたが この盆地の地方に赴任して 北ばっかりだった 
という述懐はよく覚えている

映画好きで古典の授業中にクラシック映画の紹介、
「哀愁」「グランドホテル」「旅路の果て」など一時間たっぷりかけて紹介した
(中でも「哀愁」はよく覚えていて蛍の光の場面は印象深い お話がうまかった 
愛の形見のビリケンさんは大阪お通天閣で見た 
後に映画も見たがロンドンに行った時どうしてもウオーターロウブリッジを見たくて スケジュールを都合して行った)
初めてのデートで駅前の映画館でみた「ブーベの恋人」の中でこの映画が出てくる 
ヒロインクラウデイアカルデナーレがチャキリスを待てず身を落としそうになる時にこの映画を見て考え直す場面だ

あとは文芸部仲間で亀井勝一郎の文庫本をもって 大和路 京都を散策したことを覚えている


浜川勝彦先生はその後高校教師の枠を超えて奈良女子大名誉教授(近代日本文学)にまでなった方である
中島敦 梶井基次郎 横光利一などが研究対象だった

並行して入っていたESS 英語劇「ベニスの商人」「ハムレット」に主演 
拍手の快感 多くの役者 芝居屋が陥る錯覚にボクも陥り大学で演劇をやることに

入学した年に舟木一夫が出した「高校三年生」が大ヒット

(翌年の運動会はこの曲でフォークダンスを踊った)

翌年にでた梶光夫の「青春の城下町」の方がこの街 上野にぴったりだった


そして我々は校歌3番のように旅立っていった

四方を囲める 山々も
丘に登れば 低く見ゆ
吾等の望み 山々を
越えて溢れて 外に出ん