その著作「その時は笑ってさよなら」より抜粋
僕は今71歳ですが 役者としてのピークは65歳からの2、3年でした
これをいうと皆さん驚かれるのですが50年以上役者をやっていて65歳でようやく自分が納得して演技が出来たんです そしてその絶頂を味わうことを出来たのは2、3年程でした 65歳と言えば体力的にもパワーが落ちておらず、それでいて台本が良く見える 私はそれを「周りが見える」と言いますが要するに台本に込められたスジやカラミ、キャラクターが全部よくわかる 芝居の全体をよく理解した上で自分の役ドコロをきっちり押さえ思う存分その役を生きられるようになった それまでは自分の役を「演じて」いたが65歳からはこの役を「うまく生きられるかな」と感じられるようになったんです
中村勘三郎さんは役者に対して「あいつ、化けやがったな」と感想を漏らすことがありましたが 僕も65歳になってようやく「化ける」ことが出来たんです
本当は40代で化けなきゃいけなかったんですが20代は軟弱で、30代は酒色に走り
40代は女色に溺れ、50代は鳴かず飛ばず、60代になってようやく目覚めたんです
ところがそうなってみると袖で出番を待っている間 震えが止まらなくなった
今までは出番前までシレッと話ていてキッカケで出て行き演技が出来たのに
舞台の上でも客席が良く見え、また見る余裕もあったのに65歳からは見えなくなった 演技する苦しさ、恐怖感‥‥上手く表現出来なうがそんな物を感じるようになって袖で武者震いが止まらなくなっただと思います
しかし舞台に一歩踏み出せばそんなものはピタリと止まります ウケを取るべきトコロで受けようという気持ちも無くなった ウケようとウケまいと関係ない 良い悪いの評判もアタマから気にならなくなりました
もちろん監督や演出家のツボは外しません、その上で「自分が役の中で生きている」と納得出来る演技が出来るようになったんです
この上ない爽快感と愉しさでした こんな境地があるなんて知らなかった
どんな芸でも「名人になればなる程震える」と言いますがひょっとしたら俺もその領域に達したのかな、なんてね
とにかくこんな2、3年を味わえたのだから何の心残りはありません
こんな僕が鳴かず飛ばずだった50代に戻り癌を宣告されていたらジタバタするでしょうね でも僕は精一杯な事をやって自分なりに達成感を味わえた
「どうぞ何時でもお召になって下さい」と本心から言えるのはこれがあったからです
僕はこの絶頂期に入川さんと共に芝居が出来たことを誇りに思う
僕個人的な思い出はある芝居で座敷から降りて来たヤクザ者二人が喋りながら旅草鞋を履き出て行くシーンの稽古で小道具を呼び草鞋を用意させ ずーっと草鞋を履きながらの稽古をし 本番では客に「なるほど草鞋ってあんなふうに履くのか」と納得させ、日によってその手際の良さで手が来る時もあった
入川保則
関学高等部より関学へ 僕の大先輩なのだ
昭和35年 大島渚のTVドラマ「青春の深き淵より」に主役に抜擢
その年の芸術祭大賞を受賞し注目される
関学中退して上京
その後 吉田喜重の「水で書かれた物語」で岡田茉莉子の息子役に抜擢
続いて篠田正浩の「沈黙」にもかくれキリシタンの重要な役で出演
以降 TVドラマ 映画で脇役として活躍
三度の離婚歴があり 三度目の妻はホーンユキ
平成22年藤山直美の巡業中 沖縄にて鼠径ヘルニアの手術を受けた際 精密検査で
直腸がんが発見され、癌は既に全身に移転しており医師に「余命半年」を宣言されるが延命治療はしない事を決意 映画を一本主演で撮ることを目標にする
その新聞がこれだ
そして遺言書というべき「その時は笑ってさよなら」を発表
そして念願の主演映画「ビターコーヒーライフ」を撮り終え
個人的の映画試写会を終え
平成24年12月24日入院先の病院で死去