二人の付き人
この1月15日、読売新聞の朝刊の一面の広告欄をみて驚いた 「サンミュージックなお笑いの夜明けだった〜付き人から社長になった男のものがたり〜」という本の広告だった
幾つかの疑問が湧く この社長はお笑い出身だろうが東京のお笑い事情にうとい私は「ブッチャーブラザース」なんて知らない、それよりも創業者相澤一族はどうなったんだ その頃のお付きをとるタレントといったら森田健作しかいないが僕がお手伝いした彼の唯一の座長公演「森田健作特別公演」に参加していたのだろうか?
新社長の「ブッチャーブラザース」のリッキーこと岡博之が森田健作の付き人になったのは1979年でその2年後1981年にコンビ結成だから 僕が参加した森田健作特別公演は1986年名鉄ホールだから接点がない(*)
70年代、打ち合わせに行った四谷4丁目の大木戸ビルの小さな事務所は森田健作、桜田淳子、都はるみを擁し 破竹の勢いだった 続いて松田聖子、早見優、岡田有希子、酒井法子、田村英里子などを排出、女性アイドルグループ=サンミュージックという絶頂期を迎える 1986年岡田有希子がビルの屋上から飛び降り自殺をするまでは、以降松田聖子の独立、桜田淳子の統一教会問題、酒井法子の覚醒剤事件と相次ぐ不祥事続きで相澤会長は引退、息子に譲った そこで何があったのか解らないがアイドル路線の影で新興してきた「お笑い路線」に会社の行末を任せたのか かっての栄光を知るだけに一抹の寂しさを覚える広告であった 現役の漫才コンビの「社長」ぶりを注視していこう
* 1986年名鉄ホール 森田健作特別公演 谷口守男作・演出「俺は三四郎」
その同日、ネットでもう一人の「付き人あがりの歌手」の訃報が駆け巡った 「歌手の小金沢君」の死亡記事だ わざわざラインで教えてくれた方が何人もいた
彼のお付き時代は共に北島三郎についていたのでよく知っている 北島のお付きといえば昔の歌手仲間だった「しゅうちゃん」こと鈴木修一さんが長い間努めていたため 同じ頃付き人となった山本譲二のお付き姿は見たこともない (なおしゅうちゃんの歌声は北島の幻のデビュー曲「ブンガチャ節」のキュッキューキュッキューというコーラスで聞ける)
小金沢が入ったころはもうしゅうちゃんはいず お付きのすへを教えるものもなく北島の末弟拡克さんが厳しく仕込んだ
一度新コマの近くを彼に案内してもらったが声掛けてくる人間が余りにも「ワル」が多く お付き前、どんな仲間と暮らしていたかよーく解った 続いてお付きとして入ってきた和田青児と入れ替わるように1988年「おまえさがして」でデビュー、順調に歌手としてスタートを切る だが彼の不幸は名前を売り出したのは「歌」ではなく「CM」であったことだ
「歌手の小金沢君」このCMが大流行するのは1992年のこと 「フニッシュコーワ」(口腔用ヨード剤) 「歌手の小金沢君が使っているフニッシュコーワ」が評判になりその年の新語・流行語大賞・大衆部門を受賞してしまう
その勢いで「おまえだけ」河合奈保子とデュエット曲「ちょっとだけ秘密」がヒットする その前に出した「ありがとう‥感謝」はロングヒット、他に「北の三代目」「南部酒」などのヒット曲がある
2014年 他の歌手とともに北島音楽事務所から暖簾分けの形で独立 「ジャパンドリームエンターテイメント株式会社」を設立、新たに再出発を図ろうとしていた2020年酒気帯び運転で逮捕、2022年コロナに感染 入退院を繰り返す 2024年 1月11日 呼吸不全の為 神奈川県内の病院で死去
莫大な借金が残されと聞く 彼と同じく暖簾分けで北島音楽事務所から独立したYさんは大丈夫だろうか
もんたよしのり、大橋純子と「弟子」たちの訃報が続く北島御大は
「縁あって出会い、今日までの泣き笑い、沢山の思い出を置いたまま旅立ってしまった 形あるものいつかは壊れ、命あるものいつかは終わると言われてもあまりにも66歳は若すぎる お前のことは忘れないよ ありがとう‥‥感謝」