白鷺だより

50年近く過ごした演劇界の思い出話をお聞かせします
     吉村正人

白鷺だより(22) ミヤコ蝶々のこと

2016-03-31 20:18:18 | 人物

はじめて蝶々さんとあったのは昭和49年
ボクが梅コマに入った年でありサンケイホールでの「蝶々リサイタル」を手伝った時である。

「お前、吉村いうんか 死んだ雄さんも本名が吉村言うねん 吉村朝冶」と言われたのが最初であった。
 
このリサイタルは蝶々さんの集大成というべき舞台で藤間勘吉郎振付の人形振りの「八百屋お七」歌も何曲か歌い 芝居は「おんなの橋」であった。 この作品はこの後何回か上演しているが一杯の橋だけがセットで大正・戦時中・現代と描き おのおの桂朝丸 森田健作、伴淳三郎がゲストであった。 蝶々さんは出番前に必ずトイレに行きオシッコをしなければ舞台に上がれないほど緊張しいだとわかった。 
そのため五分遅れは当たり前であった
 
この年か次の年か覚えていないが 三越劇場で「おんなの一人芝居」三本立て「おもろうてやがてかなし」も演った。 
これは後に中座で上演する作品の原型みたいな作品ばかりで短編ながら名作揃いであった。

梅コマではあと「おんな寺」(51年1月)と「河内のおんな」(52年12月)が上演された。 
どちらも演出部でついたが暗転で迎えにいくと「おしっこ」と叫び上手のトイレまで担いで走った思い出ばかり(ボクが27彼女55
小ちゃくてかわいかったので細いぼくでも抱えられた)で ひいき目で見てもどちらもいい内容ではなかった。
 結局蝶々さんの芝居は2,000人キャパのコマではあわなかったのである。

その頃梅コマ裏のビルを借りて「蝶々新芸スクール」が始まった。 
我々の仕事は事務机や本棚を高津小道具に発注することだった。 
この学校の備品はすべて借り物で賄った。 
その整理も手伝ったが一期生の受験生はビックリするくらい多かった。 
(生徒の中には関西の大きな組の娘もいた。)  
必須科目は演技、ダンス、日舞であり あと三味線、漫才が選択だった。 
その中からミヤ蝶美・蝶子 大原ゆう 西嶋敦子、吉野悦世、森川隆士らが出た。

コマでは駄目だったが 同じころスタートした中座公演ではその芝居のよさはフルに発揮された。
何故かそのうち何本かは手伝った記憶がある。「遺産のぬくもり」「おんなの橋」がそうだ。 
記録によると昭和55年56年の南座名鉄中座がそうだ。 
何故そうなったか覚えてはいないが よく終演後に新歌舞伎裏のゲイバーに連れて行ってもらったことは覚えている。
(先生はオカマちゃんが好きだった) 
そのころは関西歌舞伎のどん底時代で歌舞伎座裏には三階さんが大勢いた。 
蝶々さんの弟子で歌舞伎界に入ったIちゃんはそのころの仲間だ(彼は今も現役の歌舞伎俳優です)

中座では水を得た魚のように次々とヒット作を飛ばし その殆んどが意欲作で取り上げるテーマもいつもユニークなものであった。 
特に公演終了後の「辻説法」は人気を呼び おしゃべりの天才ぶりを発揮した。
新喜劇もそうだが中座で良さを発揮する芝居というものがあるならば 蝶々さんは自分でその芝居を見つけたのだ。
そして蝶々さんはご本人の足腰が不自由になり 楽屋にいく階段にリフトをつけてまでも平成8年まで舞台を勤めあげた。 

平成10年ボクの演出の中座京唄子公演の初日終演後に二人で中座事務所に来てくれと支配人が呼びに来て行くとそこに蝶々さんがいらして「吉村お前偉なったなあ 中座を守ってや」と言われ 唄子さんにはハメていた指輪をぬいて彼女の指にはめ「これ貰て・・[恐縮する唄子さんの手を握り]中座頼むわな」と言った。 

そして平成11年10月 我々の力不足で中座がなくなると決まって 最後の公演「じゅんさいはん」のゲストで蝶々さんが出た日に客席の後ろで見ていたら「中座こそがわたしのホームグラウンドであり それがなくなることは死ねと言われるようだ」・・・そして「誰か中座を買うてんかー」と悲鳴に近い声をあげた。




白鷺だより(21) 名鉄ホールとボク

2016-03-31 10:03:20 | 思い出

2015年の3月31日をもって名鉄ホールは営業を終え60年近くの歴史に幕を降ろした。
駅前の百貨店の中にあり926の観客数は大阪の小さな劇団にとって丁度いい大きさであり数多く仕事をさせてもらった。

幸い名鉄ホールはその上演記録をキチンと残してくれており そのお陰でこのような私的な「記録」が残せた。 

昭和54年  逢坂勉作・演出「お天道様みててや」野川由美子 大木実 仁鶴
⒑月藤田まことの「夫婦海峡」公演中野球の助っ人で名古屋中日球場へ
昭和55年 日向鈴子作・演出「子はかすがい」蝶々 雁之助
 8月同じく「子はかすがい」公演中の芦屋雁之助と一緒に台本書き
(梅コマの芝居の台本)(
昭和56年 日向鈴子作・演出「遺産(かね)のぬくもり」 蝶々
昭和57年 日向鈴子作・演出「阿波のおんな」 蝶々
昭和58年 日向鈴子作・演出「おんなの橋」蝶々
昭和60年 日向鈴子作・演出「おんなの橋」 蝶々
昭和60年 日向鈴子作・演出「おもろうて やがて哀し」蝶々 ひとり芝居
昭和61年 谷口守男作・演出「俺は三四郎」 森田健作
昭和61年 日向鈴子作・演出「ふれあい」蝶々 雁之助
平成9年 塩田誉之弘脚本・吉村演出「赤い風車と三度笠」「春を舞う」京唄子
平成⒑年 塩田誉之弘脚本・吉村演出「石松道中双六」京唄子
平成12年 梅林喜久生脚本・吉村演出「浪花のれん」京唄子・大村崑
平成12年 高橋玄洋作・吉村演出「なにわ看護婦物語」かしまし娘
平成12年 梅沢武生構成演出「梅沢冨美男魅力のすべて」演出補
平成13年 高橋玄洋作・吉村演出「花も枯葉も踏み越えて」かしまし娘
平成13年 芦屋雁之助作・吉村演出「忠治?と言われた男」雁之助代役渋谷天外
     藤本儀一作 吉村脚本・演出「花火の大輪」小雁
平成14年 鳳啓助作 吉村脚本・演出「舟歌・恋酒・梅の酒」京唄子
                  「寿 初春錦絵姿」
平成15年 芦屋雁之助作・吉村演出「とんてんかん・とんちんかん」雁之助 小雁
平成15年 館直志作・吉村脚色演出「駕籠屋と殿様」京唄子
平成16年 高橋玄洋 作 吉村演出「花も枯葉も踏み越えて」再演 かしまし娘
平成16年 芦屋雁之助 作 吉村脚本。演出「どんこな子」芦屋小雁
平成17年 池田政之作 吉村演出「清く!?正しく!?美しく!?」かしまし娘
平成19年 池田政之作・吉村演出「おんなの花時計」かしまし娘

以上演出作品 14本
演出補・舞台監督作品 10本

白鷺だより(20)ザ・ドリフターズ史

2016-03-30 21:25:39 | 演劇資料

1957 渡辺プロのロカビリーバンド「サンズ・オブ・ドリフターズ」として誕生
   リーダー・ギター岸部清 スチール吉田博久 エレキ新家治
ドラム能勢タケミ ベース鈴木修司 メインボーカル 井上ひろし・桜井輝夫
三人ひろし(水原弘、かまやつひろし)の一翼を担うほどの人気を得る
   ボーヤに山下敬二郎がいた

 同じ年の3月堀威夫のスイングウエストも誕生 ボーカルに佐川ミツオ、守屋浩
 ドラムに田邊昭知がいた 守屋は当時田邊の家に下宿していた
のち田邊はザ・スパイダースを結成して 田辺エージェンシーを設立

1958 5月バンドボーイ兼セカンドボーカルとして坂本九(16)が加入
   坂本九は森山佳代子、ジェリー藤尾らがいる渡辺美佐の実家、曲直瀬プロに入った

 この年12月 坂本九、ダニー飯田とパラダイス・キングに移籍
 岸部はリーダーの座をギター兼ボーカルの桜井輝夫に譲って井上ひろしを擁して独立
第一プロダクションを設立
 ボーヤだった山下敬二郎は曲直瀬プロ所属の相沢芳郎とウエスタンキャラヴァンバンドに入って看板歌手になった 大スター柳家金吾楼の息子で平尾昌晃、ミッキーカーチスと並んでロカビリー三人男に祭り上げられ ついには渡辺プロに引き抜かれる 付き人・運転手の井澤健はワガママな山下がナベプロと喧嘩別れしたとき一緒にはやめず、渡辺晋さんに付いた 現、イザワオフィスの社長である

1960 井上ひろし「雨に咲く花」ヒット
  (岸部の「第一プロ」はあと 飯田久彦 スリーファンキーズ 千昌夫などを擁した)

 この年スイングウエストの堀が「東洋企画」を立ち上げ、ウエスタンキャラバンの相沢芳郎はマネージャーとして入り、守屋浩、佐々木功、松島アキラなどを手掛ける・・が協同出資の男に乗っ取られる
堀は守屋浩を連れて独立「堀プロ」を作る 翌年相沢も松島アキラを連れて独立「龍美プロ」を設立
渡辺順子(黛じゅん)、西郷輝彦などを発掘するも資金難で解散、西郷を連れて第一プロに入る
6年後相沢は1968年 森田健作を第一号タレントとして「サンミュージック」を作る
一方桜井輝夫はクレイジーキャッツに刺激を受け ドリフをコミックバンド化しょうと決め、ギターの小野ヤスシとビブラフォンのポン青木をお笑いの担当にした

1962 さらに桜井は一層のお笑い強化策としてクレイジーウエストのドラム加藤英文、ベースのいかりや長一(碇屋長兵衛)をバンドに加える
 毎日のようにジャズ喫茶の舞台に立つ
リーダーの座を桜井に譲られたいかりやはさらに笑いへ傾斜する
新しい方針になじめず多くのメンバーが参加しては去っていった

1963 メンバーの小野やすし、ジャイアント吉田、飯塚文雄 猪熊虎五郎が脱退
   「ドンキー・カルテット」というコミックバンドを結成(加藤は一緒にやめなかった)
いかりやはバンドのオーナーであった桜井に相談 メンバーを補充
ギターの高木智之助、ピアノの荒井安雄が加入 翌年には高木の友人仲本興喜が加わる
のちの高木ブー、荒井注、仲本工事である

1965 ギターの小山威、サックスの網木文雄が抜け、おなじみ五人組のメンバーで固まる
 オーナーの桜井、身を引きドリフは正式に渡辺プロの所属となった

1966 ハナ肇の薦めでメンバー全員芸名を改める
いかりや長介、加藤茶、荒井注、高木ブー、仲本工事の誕生である
この年6月ビートルズ来日公演に前座で参加「のっぽのサリー」を歌う

1969 「8時だよ 全員集合」TBS開始~85年まで

1974 荒井注が脱退 付き人の志村けん新メンバーに

1979 渡辺プロより独立 イザワオフィスとなる



ドリフターズの歴史はそのまま大きな芸能プロダクションの興亡の歴史でもある。

白鷺だより(19) 芦屋雁平「思い出かばん」

2016-03-30 17:04:28 | 人物

友人の元プロデューサーのKからこんな訃報が来たのだがとのメールが入った。
それによると(要約だか)

「昨年12月11日 夫西部重一もと芦屋雁平が享年77歳で永眠いたしました
急性心不全でございました 引退後は「普通のおっちゃん」をとの望み通り
御町内の方や子や孫に見送られて 皆様方との楽しかった事をいっぱい「思い出かばん」に
詰め込んでさっさと旅立ってしまいました。 
もう少し老いの楽しみを味わってからでもと思われてなりません。
49日の法要のあと京都宇治の地に樹木葬で桜のもとに眠ります」

とのこと

驚いて芦屋凡々にメールすると彼のもとにも届いていた
なにせ初代芦屋凡々は雁平さんだ

ボクと雁平さんは同じ大宝芸能の所属で
大宝が制作した中日喜劇(僕の商業演劇デビュー作となる)公演で初めて御一緒した。

それから芦屋兄弟の公演はもちろん京唄子公演 かしまし娘の公演歌手の芝居など数え切れない程ご一緒したが
 記憶に残っているのは日本香堂の巡業でたしか佐世保の市民会館の裏の陽だまりでくつろいでいると
(これが巡業の醍醐味だ)雁平さんが話しかけてきて

「吉村ちゃんはこどもはいくつになったんや」「上が二十歳で下は17や」
「まだまだやな うちは子供は巣立っていったがもう少し働いて 金が貯まったらすっぱり辞めて
普通のおっさんになって 好きなオートバイ乗って旅すんのや」
さらに
「俺は兄貴たちみたいにやれミュージカルの映画や、やれホラー映画やとそんな金かかる趣味もないし
カメラを買いまくることも、みんな引き連れて飲みに行くこともない 金貯めるのはそないかかるとは思えない」
「頑張って早く普通のおっさんになって下さい」
「体が動けるうちに辞めて元気な雁平ちゃんを目に焼き付けておきたい」

平成17年かしまし娘の公演は僕の演出で「清く正しく美しく!?」だ。
この公演で雁平さんも出てもらっていた
名鉄ホール公演が終わって南座公演の千秋楽に雁平さんが奥さんと子供を招待したので聞くと
「この公演で役者を辞めるんや 最後に皆にみてもらおうと思て いい役にしてもらっておおきにな」
なにせ花道のスッポンから上がって出る役だ 奥さんもその側の席だった

この年は雁平さんにとって役者人生50年目の節目だった。
そして現在のボクの年だ。

あれから10年目だ。
雁平さんは普通のおっさんとして充分に老後を楽しめたのであろうか?
彼のことだ 充分に楽しんだに違いない

しかしながら僕はバカをやってきた兄貴たちの生き方のほうが
役者として人間として魅力的に見えてしまうのが哀しい。

今年(2016)の正月南座の新喜劇公演に小雁さんが出ていて
その衰えブリを見ていたらあまりに辛く楽屋にもいかなかった。
その帰り道 雁平さんのことを思い出していたところへ
思わず入った訃報だった。



白鷺だより(18) 品川遊郭

2016-03-30 13:47:35 | 思い出

「へへえ それが二本差しの理屈でござんすかい?」

「手前一人の才覚で世渡りするからにゃア へへ、首が飛んでも動いてみせまさあ」

「わっちア女郎でござんすよ 因果稼業でござんすよ 
騙しますよと看板さげて こんな商売してるんじゃないか」

「女郎の誠と卵の四角、あれば晦日に月が出る」

さて いよいよ「幕末太陽伝」である。
久しぶりにNHKでデジタルマスター版で見た。
綺麗な画面で複雑な構造の店の入り組みがよくわかった。
また座敷牢にはあんなにネズミがいることがよくわかった。
小沢昭一がいっているように この作品は「動く文化財、歴史博物館といっていいくらいだ」

我々の世代は知るよしもない女郎屋の細かいシステム、習慣、風習などあますところなく描いている。
品川宿は本陣、喰い売り旅籠、平旅籠と別れており、この相模屋は喰い売り旅籠(関西では飯盛り)である。
日本橋から8里しかなく歩いても2時間くらいなので泊まりより遊興旅籠が繁盛したらしい。
それに加えて風光明媚な土地で肺を病んだ佐平次もサナトリウムがわりに居残ってもよかったのである。
そんな喰い売り旅籠を余すところなく描いて、それもクソリアルに、何度も出る下足札を玄関に叩いて散らす開店時の段取りから「引き」(午前0時)の時間の触れ方、「大引け」(午前2時)の段取り、落語「三枚起請」を聞いてる限りその起請文の裏側にあんな牛玉宝印が押してあるなんてわからない。
チラッとしか映らない大工の親父の証文も台本には全文が書いてある。
おそらく今村昌平あたりが品川図書館に通いつめてブツブツ言いながら書いたのであろう。
川島雄三はそこまでクソリアルに求めたのである。

彼にとって日活最後の作品であり佐平次の如く逃げ出す準備OK。 
川島がラストシーンの変更を告げた時、小沢以外は全員が反対した。

最後佐平次は「俺はまだまだ生きるんでぇ」田舎大尽の市村俊幸「地獄さ落ちっど~」とミュージシャン同志の掛け合いの末逃げ出して行くのだが さらに引き伸ばし撮影所の出口から出て現代の東京を逃げ回るというものである。
裕次郎以下は太陽族の恰好で、女郎たちは消えゆく赤線の女の恰好で、小沢は自転車に乗った貸本屋でそれを見ているというわけである。
が結局このラストシーンは通らなかった。
なかなか面白いラストシーンではある。

困り果てた浦山に頼まれたフランキーが「いきなりの現代の、それもスタジオの中をばらすのは 折角そこまで積み重ねてきたリアリティを一挙にひっくり返すことになりませんか?」と説得すると川島は「あたしは自分の考えが間違っているとは思いません、だけど主役のあなたがそういうのなら仕方がありません」
フランキーはこの作品をいつものフランキー主演ものの一つとしか考えてなかったのである。

麻布中学の同級生 小沢昭一(金造)、加藤武(ナレーション) フランキー堺(佐平次) 大西信行(このあと小沢主演の「競輪上人行状記」を書く)
このうちフランキーだけが慶応に進学 あとは早稲田組である。

英国公使館焼き討ち事件 文久2年12月12日午前2時 大引けの時
高杉(裕次郎)、久坂(小林)、伊藤(関)、志道(井上)(二谷)ら13名
明治まで生き残ったのは伊藤、井上だけだった。