はじめて蝶々さんとあったのは昭和49年
ボクが梅コマに入った年でありサンケイホールでの「蝶々リサイタル」を手伝った時である。
「お前、吉村いうんか 死んだ雄さんも本名が吉村言うねん 吉村朝冶」と言われたのが最初であった。
このリサイタルは蝶々さんの集大成というべき舞台で藤間勘吉郎振付の人形振りの「八百屋お七」歌も何曲か歌い 芝居は「おんなの橋」であった。 この作品はこの後何回か上演しているが一杯の橋だけがセットで大正・戦時中・現代と描き おのおの桂朝丸 森田健作、伴淳三郎がゲストであった。 蝶々さんは出番前に必ずトイレに行きオシッコをしなければ舞台に上がれないほど緊張しいだとわかった。
そのため五分遅れは当たり前であった
この年か次の年か覚えていないが 三越劇場で「おんなの一人芝居」三本立て「おもろうてやがてかなし」も演った。
これは後に中座で上演する作品の原型みたいな作品ばかりで短編ながら名作揃いであった。
梅コマではあと「おんな寺」(51年1月)と「河内のおんな」(52年12月)が上演された。
どちらも演出部でついたが暗転で迎えにいくと「おしっこ」と叫び上手のトイレまで担いで走った思い出ばかり(ボクが27彼女55
小ちゃくてかわいかったので細いぼくでも抱えられた)で ひいき目で見てもどちらもいい内容ではなかった。
結局蝶々さんの芝居は2,000人キャパのコマではあわなかったのである。
その頃梅コマ裏のビルを借りて「蝶々新芸スクール」が始まった。
我々の仕事は事務机や本棚を高津小道具に発注することだった。
この学校の備品はすべて借り物で賄った。
その整理も手伝ったが一期生の受験生はビックリするくらい多かった。
(生徒の中には関西の大きな組の娘もいた。)
必須科目は演技、ダンス、日舞であり あと三味線、漫才が選択だった。
その中からミヤ蝶美・蝶子 大原ゆう 西嶋敦子、吉野悦世、森川隆士らが出た。
コマでは駄目だったが 同じころスタートした中座公演ではその芝居のよさはフルに発揮された。
何故かそのうち何本かは手伝った記憶がある。「遺産のぬくもり」「おんなの橋」がそうだ。
記録によると昭和55年56年の南座名鉄中座がそうだ。
何故そうなったか覚えてはいないが よく終演後に新歌舞伎裏のゲイバーに連れて行ってもらったことは覚えている。
(先生はオカマちゃんが好きだった)
そのころは関西歌舞伎のどん底時代で歌舞伎座裏には三階さんが大勢いた。
蝶々さんの弟子で歌舞伎界に入ったIちゃんはそのころの仲間だ(彼は今も現役の歌舞伎俳優です)
中座では水を得た魚のように次々とヒット作を飛ばし その殆んどが意欲作で取り上げるテーマもいつもユニークなものであった。
特に公演終了後の「辻説法」は人気を呼び おしゃべりの天才ぶりを発揮した。
新喜劇もそうだが中座で良さを発揮する芝居というものがあるならば 蝶々さんは自分でその芝居を見つけたのだ。
そして蝶々さんはご本人の足腰が不自由になり 楽屋にいく階段にリフトをつけてまでも平成8年まで舞台を勤めあげた。
平成10年ボクの演出の中座京唄子公演の初日終演後に二人で中座事務所に来てくれと支配人が呼びに来て行くとそこに蝶々さんがいらして「吉村お前偉なったなあ 中座を守ってや」と言われ 唄子さんにはハメていた指輪をぬいて彼女の指にはめ「これ貰て・・[恐縮する唄子さんの手を握り]中座頼むわな」と言った。
そして平成11年10月 我々の力不足で中座がなくなると決まって 最後の公演「じゅんさいはん」のゲストで蝶々さんが出た日に客席の後ろで見ていたら「中座こそがわたしのホームグラウンドであり それがなくなることは死ねと言われるようだ」・・・そして「誰か中座を買うてんかー」と悲鳴に近い声をあげた。