白鷺だより

50年近く過ごした演劇界の思い出話をお聞かせします
     吉村正人

白鷺だおり(142)「お初天神」のこと

2016-09-17 07:25:03 | 思い出
       


       「お初天神」のこと
 花登筺の「お初天神」は元々浪花千栄子のために書かれ昭和45年名鉄ホールにて初演 
浪花さんはこの芝居を気に入り昭和47年南座にて再演 それが浪花千栄子の遺作となった

この初演の公演は敬子役に有馬稲子 
その他の配役は判らなかったが花登さんが書いたもの(昭和57年一月公演パンフレット)によると 大芝居を打つ八重という役をまだ舞台経験が浅かった園佳也子がやったという 園さんは浪花さんに手取り足取り厳しくしごかれ、それによって女優の演技開眼した作品だそうだ 花登さんによると彼女は誰よりも浪花さんの演技を吸収した女優で 時折見せる演技にまったく<浪花さんの面影を偲ばせる何か>をもっているという それで花登が彼のTV5000本記念番組の「お初天神」に園をお千代役に抜擢した 
そして昭和57年名鉄ホール・劇団喜劇10周年記念作「お初天神」にも園をお千代に抜擢
 
そののち平成6年南座で園さん主役で「お初天神」を上演(この時の演出は僕 吉村正人)
これは僕が松竹新喜劇の面々と初めて仕事をした記念すべき作品で 
このあと僕は松竹さんに気に入られて新喜劇の演出を担当するきっかけになった

そして平成11年日本香堂の観劇会も園さんのお千代で(演出は僕)上演した

僕の知っている「お初天神」の上演は都合この5回であるが
(その外「劇団喜劇」公演で地方巡業があったらしい、それに宮園純子さんが女社長役ででていた) 
花登さんの初映画監督作品の「おめてたいやつ」もこの作品のアレンジであるし 
僕の知っている範囲では梅コマの西郷輝彦がやった「梅田界隈」という作品も同じような筋立てだったと思う
花登先生お気に入りの作品だったことが伺える


主な配役
昭和45年名鉄ホール 千代(浪花千栄子)敬子(有馬稲子)八重(園佳也子)
昭和47年南座 千代(浪花千栄子)敬子( 鳳八千代)八重(森明子)番頭留吉(谷幹一) 
板前吉岡(沢本忠雄)仲居頭とく(初音礼子)女社長(久慈あさみ)ドングリ(早崎文司)
(この時のメンバーがこの年誕生した「劇団喜劇」の中心的メンバーとなる)
昭和57年名鉄ホール 千代(園佳也子)敬子((星由利子)八重(正司花江)番頭留吉
(高田次郎)板前吉岡(小林勝彦)女社長(月丘千秋)ドングリ(左とん平)
平成6年南座 千代(園佳也子)番頭留吉(高田次郎)女社長(阿井美千子)板前吉岡
(入川保則)敬子(土田早苗)和子(小鹿ミキ)ドングリ(曾我廼家貫太郎)
平成11年日本香堂 千代(園佳也子)番頭留吉(高田次郎)敬子(鳩笛真希)女社長
(丸山みどり)板前吉岡(宗方勝巳)八重(御園恵美子)和子(三浦リカ)

お知らせ

来年の日本香堂はこの作品を東京の話にして<「味の家」(ケチのや)の人びと>と題しまして上演します
この公演は 左とん平さん初めての女形で女主人の「久代」に扮して活躍します
<新しい物の中に取り残された古い物の良さ>をテーマに描きます

このブログで訪問者が一万人を超える予定です
これもご覧いただいている皆様のおかげです
頑張っていきますので よろしく

しばらくブログをお休みさせてもらって
来年度日本香堂の観劇会 味の家(ケチのや)の人びと の脚本直しに専念します
                (今月いっぱいの予定)よろしく






白鷺だおり(141)日向企画の頃

2016-09-17 07:25:03 | 思い出

       
昭和51年 蝶々新芸スクールが梅田のコマの近くに出来た時 その運営をやるために出来たのが日向企画である 
仕掛けたのは松竹芸能の野田嘉一郎という人で 社長は日向鈴子ことミヤコ蝶々 専務に蝶々さんの義理の弟日向利一 
事務所は新芸スクールが入っていたビルの二階だった(三階が教室)

何故か東京事務所も持っており(乃木坂秀和レジデンスビル)この事務所はTBS系の制作の仕事が多かった 
野田さんとはKAプロの藤井さんの知り合いで僕がトップホットにいてるときからよく知っていたので
彼が日向企画にいてる間の仕事は殆ど僕が手伝っている

年代順はよく覚えていないが思い出すまま書いてみよう

南田洋子・長門裕之夫婦主演の茂木草介作「極楽夫婦」(九州巡業)(注)
長門さんの林家染丸と石浜裕次郎の桂春団治の二人がマッチ棒を並べてオンナの数を競い合う場面は良かった 
南田さんは染丸夫人で寄席三味線の名手の林家トミ役であった
この芝居を社長として九州まで見に来たミヤコ蝶々は「フーン」と言って帰ったが翌年中座で「女と三味線」として発表する 
この巡業が終わってコマに帰ってきたらミュージカルチームのベテラン女性ダンサーが僕を呼び出し 旅の間のある男優の所業を聞いてきた その男優は彼女の情夫だった 彼は確かに巡業中某女優と出来ていたが黙ることにした
その女優も次に会った時は別の男がいた

澤田雅美劇団旗揚げ公演 
澤田雅美のお兄さんが担ぎ上げられ劇団を作って九州・四国を廻った 
出し物は平岩弓枝作石井ふく子演出の「花はどこでも咲く物語」「舞踊ショウ」
大村崑 坂東好太郎が出ていた どこの会場も客が入らず不安になった大村崑が途中で帰ると言い出し雅美が大泣きしたことがあった 
結局お兄さんが莫大な借金を背負う形で終わったが 芸能界は魑魅魍魎が闊歩する恐ろしいところだと実感しただろう
 
東芝日曜劇場1000回記念公演 
全国を三ブロックに分けてTBSの系列局が公演を主催する体でやった公演 
野田さんと僕(制作補)の受け持ちは京塚昌子さんのブロックで北陸・四国・九州だった 
あとは池内淳子班(女と味噌汁)と中村玉緒班(八坂恋坂おんな坂)があった 
出し物は「肝っ玉かあさん」と前狂言として大西信行作 勝呂誉主演「とうなすかぼちゃ」であった(演出は石井ふく子?) 
赤坂にあったTBSのスタジオが稽古場で空きスタジオを転々としての稽古であった
(その仕切りは庄司さんという石井さんの助手がやっていた) 
資料を見ると日曜劇場1000回は1976年だからそらく公演はこの年か

1978年8月僕は一か月間日向企画の事務所に電話番をしながら寝泊まりさせてもらって「屋根の上のヴァイオリン弾き」の東京稽古に参加していた 
どこに行くのも便利な場所にあり 初めて江戸風の銭湯にも入ったし 朝は近所の公演でラジオ体操に参加して皆勤賞を貰うという最高の場所であった  

大阪郵便貯金ホールにて行ってきた「蝶々新芸スクール記念公演」は何度かお手伝いした記憶がある 記憶に残った生徒を列記する

池内和彦、宮崎裕次、蝶美蝶子、川内澄恵、西島敦子、上中はるか 田中哲司

やがて専務利一さんが野田さんの会社の金の使い込みを問題(仕事上の赤字はあっても私的流用は野田さんの性格上ありえない)にした
 野田さんは一切弁明もなしに日向企画を辞めることになる 
その後野田さんはKAプロの岸本さんの世話で渋谷道玄坂百軒店にコーヒーとカレーの店を開き やがてヒャケンダナ商店会会長となる
 
僕は利一さんから野田さんの共犯者扱いで蝶々さんの公演には出入り出来なくなった 
もっともそのころには蝶々さんの仕事の中心は中座へ移っており梅コマの公演は無くなっていた  


(注)  この「極楽夫婦」は1969年NHK銀河ドラマ枠で放送されたドラマ(全10回)で脚本はテレビと同じ茂木草介 主演は南田洋子、金田龍之介 原作は田辺聖子「でばやし一代」富士正晴「紅梅亭界隈」


白鷺だより(140)あめんぼあかいな

2016-09-16 09:03:34 | 思い出
あめんぼあかいな
平成21年2月急性大動脈解離で倒れ 岸和田の病院に担ぎ込まれ7時間に渡る手術の末
何とか命拾いして退院 その後 金剛にあるリハビリ専門の病院でリハビリに精を出した
左半身が不随のため 車いすでの移動の稽古 食事 排泄 入浴など日常生活に必要なことの練習 箸で大豆を掴む練習とかコップを移動させるお稽古だとかの体の運動と並行して普通に喋ることが出来ない僕が言語のリハビリを始めた 60日の入院制限があるため理学療法士や作業療法士がキチンとカリキュラムを作っての療養・トレーニングだった 僕の担当の理学療法士はPCで僕の仕事を調べ 吉村さんはお芝居をやってるのだからテキストはこれにしますと渡されたのが北原白秋の「五十音」であった そうそれは大学に入って劇団エチュードに入って腹式呼吸とともに先輩に教えられたのがこの「あめんぼあかいな」であった

北原白秋「五十音」

水馬(あめんぼ)赤いな ア イ ウ エ オ
浮藻に小蝦(こえび)も泳いでる 
柿の木栗の木 カ キ ク ケ コ
啄木鳥(きつつき)こつこつ 枯れけやき
大角豆(ささげ)に酢をかけ サ シ ス セ ソ
その魚浅瀬で刺しました
立ちましょ喇叭で タ チ ツ テ ト
トテトテタッタと飛び立った
蛞蝓(なめくじ)のろのろ ナ 二 ヌ ネ ノ
納戸に ぬめって なにねばる
鳩ぽっぽ ほろほろ ハ ヒ フ ヘ ホ
日向(ひなた)のお部屋にゃ笛を吹く
蝸牛(まいまい)螺旋巻(ねじまき)マ ミ ム メ モ
梅の実落ちても見もしない
焼き栗ゆで栗 ヤ イ ユ エ ヨ
山田に灯のつく宵の家
雷鳥は寒かろ ラ リ ル レ ロ
蓮華(れんげ)が咲いたら瑠璃(るり)の鳥
わいわいわっしょい ワ ヰ ウ ヱ ヲ
植木屋、井戸替え お祭りだ、


やがて体の練習が平行棒の伝い歩き、階段の上り下りになってきたころテキストがかわり
「外郎売り」になった これもエチュードの滑舌練習で散々やったテキストで
武具馬具 ぶぐばぐ 三ぶぐばぐ 合わせて武具馬具 六ぶぐばぐ や
菊栗 きくくり 三菊栗 合わせて菊栗 六菊栗 などの部分は覚えていた
二代目団十郎が初演したと言われ「勧進帳」「鳴神」「助六」などと並んで 歌舞伎十八番の一つである


拙者親方と申すは お立会いの中 ご存じのお方も御座りましょうが お江戸を発って二十里上方相州小田原一色町をお過ぎなされて 青物町を登りへおいでなさるは 欄干橋虎屋藤衛門 只今は剃髪いたして 円斎と名乗りまする

冬の二月に倒れ 半年のリハビリ期間を終えてなんとか退院したのは もう秋だった



白鷺だより(139)「ミヤコ蝶々を語る会」

2016-09-14 10:52:42 | 思い出
こんな案内状が届いた
「私たちが慕ってきたミヤコ蝶々先生が亡くなられて16年の月日が経ちました つきましては蝶々劇団員や関係の皆様で親しく集い蝶々先生を語ろうと同窓会を企画しました
時・2016年9月9日18時から
会場・ニューミュンヘン南大使館
多数のご参加をお待ちしております
尚 その前16時に大善寺へお詣りに行きますのでご希望の方はどうぞお越しください]
幹事 森川隆士


その会は盛況で僕を含めて41名の出席だった
敢えて17回忌と銘打たなかったのは日向利一さんへの差しさわりがあるためか

蝶々スクールの卒業生(現役は森川、ぴあこ 敦子 蝶子 前田絵美)はもちろん役者さんは大津嶺子、三島ゆり子 島村晶子 桂春之輔 松竹芸能からは野畑、大谷、大田 毎日放送の伊東さん スポニチの土谷さん(昔は日刊スポーツ)スタッフからは僕 堀本ジュニア 立田ジュニア 大道具のヒデさん 新歌舞伎梅田 新喜劇 鍛冶 効果の畑中らの面々だった 各自思い出話に花が咲き楽しい一時を過ごせた

僕も僕なりに思い出を辿ってみよう
松竹新喜劇を追われるように辞めた蝶々雄二 1966年出版した「女ひとり」がベストセラーとなる 
1973年6月梅田コマで蝶々の自伝「女ひとり」が舞台化された 
その年の3月南都雄二が死んだ 急遽その葬式の場面を追加しての上演だった
共演 金子信雄 佐々十郎 花柳喜章
作 日向鈴子 演出 竹内伸光 
音楽 中村八大 作詞 石浜恒夫 美術 石浜日出雄 照明 鳥居秀行
振付 関谷幸雄 藤間勘吉郎 小関二郎 効果 古間伸(作本秀信)
僕は未見だがうまい具合の雄さんの死が引き金となり満員の客入りで終わったという
これ以降蝶々さんは梅コマのレギュラーとなる
1974年6月「おんな川」作 日向鈴子 脚本 逢坂勉 演出 竹内伸光
共演 芦屋雁之助 いとし こいし 川地民夫 内田朝雄
この芝居はトップホットにいたとき舞台稽古で見た 二匹目の泥鰌で客は入ったがひどい芝居だった

この年蝶々さんは所属していた松竹芸能の仕込みで新喜劇退団以来の中座公演をスタートさせる
 
1975年梅田コマに入った僕はサンケイホールの蝶々リサイタルの手伝いをする
僕の名前を聞いて「お前吉村いうんか 雄さんも本名は吉村や 吉村朝治や」と言ってもらった
僕は27歳で蝶々さんは55歳であった
サンケイホールで行われたこの公演で蝶々さんは「八百屋お七」の藤間勘吉郎さん振付の人形ぶりに挑戦 
芝居は後年何度も上演した「おんなの橋」で朝丸 森田健作 伴淳がゲストだった

1976年1月「おんな寺」作。演出 日向鈴子 構成 竹内伸光
共演 西村晃 石橋正次 芦屋雁之助 中山仁 扇ひろ子
稽古中長すぎることは判っていたが誰も言い出せず 12月30日の終わりころ通し稽古が始まり終わったのは12月31日の朝だった 終演後主演者をお正月休みに帰らせ スタッフが集まってカット会議
我々はお正月返上でカット個所を電話で知らせた 石橋正次が役が悪くなったとゴネて降りると言い出し
僕は三好正夫を代役にスタンバイさせる

この年蝶々新芸スクール開校 机椅子などの備品は全部高津小道具に発注するのを手伝う
元松竹芸能のマネージャー野田嘉一郎という人が全て絵を描いた

この年何月か忘れたが日向企画制作の長門裕之・南田洋子夫婦による「極楽夫婦」という
林家トミさん・染丸夫婦の芝居(茂木草介作)をやったのを社長の立場で初日に観にきて「フーン」と言って帰った 翌年 中座で「女と三味線」という題名で同じ話をやった

1977年12月「河内の女」作演出 日向鈴子 脚本 安達靖人
共演 山城新伍 白川和子 鉄砲光三郎 光子 船戸順
併演 ショウ「こんにちわ蝶々です」構成演出 松島平
蝶々新芸スクールの卒業発表会の公演でやっていてもうすら恥ずかしい公演だった
僕はショウ担当だったので詳しくは知らないが山城、船戸らが右も左も判らない卒業生を捕まえて「芸能界での生きていくすべ」を身をもって教えていたという噂

あと北浜三越劇場でひとり芝居「おもろうてやがて哀しき」も手伝う
(浪花のスーパーかあちゃん などの元ネタ)

九州巡業「阿波の女」「グリーンシャンデリアショウ」 中津福沢会館他にも参加
(蝶々さん作詞「噂なんかに負けたくないわ」)

蝶々さんの芝居は大きなコマでは合わなかった 女ひとりはミュージカル仕立てだったから何とかもったがあとの芝居はひどかった 「おんな寺」はミュージカル仕立てだったがそのシーンは時間の都合でカットされた やはりミヤコ蝶々の芝居は中座、名鉄が丁度いい劇場だった 中座が閉まるとき「だれか中座を買うてんか!」と叫んだ気持ちがよくわかる

堀本ジュニアの話で思い出したこと 
彼の蝶々初舞台の「おんなの橋」「晴れ晴れ街道」は中座公演(平成2年)であるにもかかわらず何故か僕が演出部で付いていた 
舞台稽古の時 花道の鳥屋口で出を待っているとき渋谷天笑(当時)の演技をみてつぶやいた
「おやじも大根やったけど こいつもあかんわ」

中座狂言後年の作品にはケッタイなタイトルが多かった
「占い信じますか」「おばちゃん、うちら地獄を知ってるで」「高砂やうれし哀しい尉と姥」
「老後が来よった早よ逃げよ」「ぼけましておめでとう」「おばあちゃんは魔女」
「金とダンボール」「あんたもわたしも失楽園」などなど

白鷺だより(138)京唄子

2016-09-12 06:52:13 | 人物
         京 唄子
 「ミヤコ蝶々さんを語る会」という集まりがあり 昔中座の大道具さんだった方から
「そういえば京唄子さんはどうしているのか」と尋ねられ「もう何年も歩けないので娘さん(鵜島節子)と旦那さん(萩清二)の二人で介護してると聞いている お見舞いに行きたいのだが本人が人に会うのは嫌がっているので会えない 彼女なりの美学だろう」と答えておいた 
そういえば少し前に彼女を預かっていた「さち子プロ」の倒産のニュースが流れた

これは2008年度 第12回上方演芸の殿堂入りした京唄子が「月刊わっは」の同年4月号に寄せたあいさつ文である

 私はチンドン屋の娘として生まれ それがため小学生時代は随分いじめられました
18歳の時 父親に「女優になりたい」と言って厳格な父親に猛反対されました
しかし忍耐強い母親は
「やるんやったらトコトンやんなはれ 途中でやめるようやったらあきまへんえ・・」
と励ましてくれました その母の言葉がいつまでも私の体の中に熱い血のように流れています 反対した父親も私の舞台をソッと見に来てくれたと のちに母から聞き 親の有難さが判り感動したものです
 昭和27年ドサ回りの劇団で鳳啓助との出会い その時の印象は「世にも汚い男」
啓助が私を見た印象「世にも生意気な女」
それからの二人は喜びに浸ることもありましたが数々の苦労も「肉体的にも精神的にも」ありました
ある日「お前思い切って俺と漫才やらへんか 漫才は二人が座長や 必ずお前を人気者にする」と言ってくれましたが「私は女優や!」「何で今更漫才なんてとんでもない!」
しかし啓助の押しの一手でとうとう昭和31年4月漫才に踏み切りました 
そして作家の志摩八郎さんとの出会い 秋田実先生のラジオ番組「上方演芸会」,蝶々雄二さんの「漫才教室」素晴らしかったです 今思えば唄子啓助の漫才が受け入れられた要因だったと思います やがて「唄子啓助のおもろい夫婦」「唄子啓助劇団結成」そして「離婚」
「劇団解散」「京唄子劇団独立」と目まぐるしい日々が続きました
啓ちゃんと別れてからも漫才をやり芝居も続けられたのは私たちをご声援下さったお客様のおかげでした 啓ちゃんは「同志であり戦友」であったと思います

唄子「啓ちゃん、わてらも殿堂入りさしてもらうんやで」
啓助「おいおい漫才に誘いネタを作り芝居の作家、そして演出やったのはワシやで!
   ワシも下界に降りるで」
唄子「もうええ また若い女子(おなご)にチョロチョロするさかい 判ってる~今の私があるのは啓ちゃん、あんたや、
   忘れへんよ 私の心の中に生き続けているよ それに三代目四代目の奥さんとも仲良くしてるから安心して頂戴よ 
   ほな私が代表して貰てくるわ、私も何時の間にかこの道一筋60余年」
啓助「ようあきんとやるなあ」

これから一日も長く上方文化「演芸」の為に少しでもお役に立つように日々精進を重ねてまいります
殿堂入りに当たり私たちをご支援下すった関係者の皆様に心から厚くお礼申し上げます

おおきに


(この年京唄子は平成20年度はミス・ワカサ・島ひろし、島田洋之助・今喜多代の二組と一緒に上方演芸の発展と振興に特に大きな役割を果たし、後進の目標となる諸芸人として「上方演芸殿堂入り」を故鳳啓助と共に選ばれた)

実は梅沢武生は京唄子のファンで 京唄子も梅沢劇団のファンだった
僕が唄子さんの芝居の演出していたので武生さんはいつか是非とも京唄子と二人で踊りたいと言っていた 
色々画策したが中座なきあと新歌舞伎座では松井誠さんとの共演が決まってしまって実現出来なかった