白鷺だより

50年近く過ごした演劇界の思い出話をお聞かせします
     吉村正人

白鷺だより(325)認知症の芦屋小雁

2018-06-23 08:09:01 | 読書

  認知症の芦屋小雁

フェイスブックのメッセンジャーを使って小雁の奥さんでありマネージャーでもある勇家寛子さんから長文のお便りが届いた 
それによると

ご無沙汰しております
TBSの金曜日七時からの「情報フライディ」という番組が小雁さんと私の密着をしてます
第一回の放送は6月22日になります
小雁さんの病気のことをカミングアウトする形です
血管性認知症
お受けするにあたって主治医の京大の先生や同級生のご主人 脳神経科の先生や色々相談もしています
一番は小雁さんが死ぬまで仕事がしたい、芦屋小雁で居たいと言います
ディサービスも二か所行きましたが一つは脱走、一つは喫煙室立てこもりで辞めました(笑)
今は買い物ヘルパーのお兄さんがお気に入りらしく月曜日から金曜日の毎日一時間お願いしています
でも芦屋小雁で仕事をするときはシャキッとします
不思議です
小雁さんの病気も何かの役に立てば それが芦屋小雁として生きることかと思います
病気の旦那を売って儲ける みたいに思う方もいると思いますけれど マネージャーとして妻として 芦屋小雁を最後まで送ってあげられたら それが私の仕事かと思います

宜しくお願いいたします
              西部

             (6月14日(木)10・55)


「のみとり侍」が終わって流れるスタッフのテロップに時代所作指導 勇家寛子の名前を見て「ああ元気で仕事をしてるんや」と安心していた矢先だったので(噂では聞いていたけど)ショックだった
そうだ 芦屋凡々が深夜 早朝にも拘わらずの小雁さんからの電話攻勢にあって 困って電話で文句を言うと全然覚えてないと言われたとぼやいていたのは少し前のことだ


昭和49年僕が初めて商業演劇の舞台監督を担当した時の看板さんで唯一生き残っているのが小雁さんだ 
他の看板さんは殆ど亡くなった 芦屋雁之助 雁平 有島一郎 花ノ本寿 立原博 旭輝子 内海カッパ 今宮エビス 平井昌一・・・・
いや生き残っている方を数えた方が早い 僕、芦屋凡々 清里流号そんなものだ しかも三人とも70を超えた


 前のブログに御園座で骨折したとき見舞いに行って大勢の女性がこぞって看病していたのに出くわした話は書いた 
ほおっておけないと思わせる 母性本能をくすぐる 女達がそんな小雁さんを見て 競って看病している この人は持って生まれて女性にモテる要素が揃っているなあと感心した この時の中心は大阪から駆け付けたディスクジョッキーのAだった のち彼女の書いたものを読むとこの後二人は別れる

最初の結婚は1960年 兄雁之助と大村崑 三人で合同テレビ結婚式を挙げた佐久間和美 OSK出身の歌手だった すぐ別居 しかし離婚は出来ず この頃が小雁さんが一番もてた時代である 人気デスクジョッキーのAはじめ全国津々浦々に女ありのいい時代
1087年 やっとのことで離婚成立 その後は紀伊田辺の殺されたドンファンのオッサンには負けるけど小雁さんも若い嫁を二代連続貰った 一人は28歳差の斎藤ともこ 続いて30歳差の勇家寛子 
勇家寛子は先代の恋人がスペイン人だったので スペイン語を喋れる


さて番組を見た感想を書こうと思う

小雁さんは昔からセリフ覚えは悪かった セリフが出て来なくなったら両手をクネクネさせて「ぼ、ぼ ぼくらは少年探偵団」などと誤魔化す これが一つの「芸」だった
これがいけなかったのかなあと思う 
必死で思い出す努力すらしなかったのだから

僕も一度だけディサービスの施設に見学に行ったことがある 
老人たちが楽しく運動をしているのを見て またカラオケを歌って過ごしているのを見て 気持ち悪くなり いたたまれなくなりすぐ退散した覚えがある
こんなところにいると同じように老いぼれてしまうのではないかという恐怖すら感じた
小雁さんが何度も施設を脱走したのもよーく判る

小雁さんの病気 血管性認知症 この認知症という言葉は昔痴呆症と言われた病気でイメージが悪いという理由で認知症なる意味が判らない言葉になった 正しくは認知不全症とでも言うべき言葉である

細川智のプロデュースした芝居の本番中 「ここはどこや」と言い出し病気が判ったというくだりのあとで智さんが出てる運転免許所返還のCMが出て来たのは皮肉だ

足にGPSの装置を付けて徘徊を防止する話は辛い
しかしそれでも芦屋小雁は施設に入って芦屋小雁としてみっともなく生き続ける
これはこれで役者芦屋小雁らしく 戦いの最中に戦死した兄雁之助とも その辺のおっちゃんとなって死んだ弟の雁平さんとは違う役者らしい生き方だ

がんばれ 芦屋小雁 ‼
がんばれ 勇家寛子‼ 


白鷺だより(324)沖縄日記(2018年6月10日~14日)

2018-06-17 13:19:26 | 日記
沖縄日記 2018 6月

6月10日(晴れ)
 僕が出掛けると必ず雨に合ってしまう梅雨の真っただ中の大阪を飛び出し「空梅雨」と言われている沖縄へ 沖縄はこの空梅雨のおかげで水不足だと言われて久しい
台風5号もちょっとかすめて東の方へ行ってしまい 雨など降る気配もない 
雨が必要な人たちには申し訳ないが天気予報では僕らが行っている間は大丈夫という
空港から「うみそらトンネル」が開通していてホテル(ロワジール)まで58号線を通るより時間的には早く着く(但し走行距離はほぼ同じなので料金は変わらない)
降り口のクルーズターミナルには中国船らしき大型クルーズ船が横付けされている
その前に中国からの観光客を歓迎するように龍柱が二本そびえている
この間の道をまっすぐ行くといわゆる県庁に出る
いずれ習近平率いる中国軍がパレードするに相応しい道が出来上がっている 

部屋の窓から先ほど見た大型クルーズ船がゆっくり動いて行くのが見える
着いたその日は夕食はホテル近所のスーパー「かねひで」で総菜を買って部屋ディナー
かじきまぐろの刺身をたらふく食べその上 焼そばをスーパーのイートインでチンして 
他に水 炭酸水 お醤油 などなど買って合計1600円という豪勢さ

食事後 温泉の大浴場へ ここも中国人で満員だ

6月11日(晴れときどき雨)

甥っ子のHが一日休みを取ってくれたので車で遠出
前に行った西日本最大のイオンモール「ライカム」へ向かう

ライカムとは旧琉球米軍司令部(RyuKYU command 略称RYCOM)の跡地

昨日途中で降りたうみそら道路は北谷辺りまで伸びていて定宿のムーンオーッシャンの窓からいつも見ていた高速の工事は単線だけ通っていて随分と近くなった
クルーズターミナルには昨日とは違う大型クルーズ船が横付けされていた
途中新しいサンエーの建設中(何でもライカムより大きくなるという)を横に見て普天間基地の横を通り抜けて 平日なので比較的空いている「ライカム」へ
なるほどクルーズ船から遠すぎる サンエーの工事が急がされるはずだ
だだっ広い店内をウインドウショッピングしながら歩く ここは休憩所が多くあり助かる

前の約束でHが彼女を紹介することになっていて 夕方改めて会うことにする
彼女は北谷に住んでいるというので いつも家族で訪れる「サムズカフェ」に集合
いつもは米兵の家族連れで賑わっている店も今日は静かだ
Hの彼女は埼玉出身 結婚で沖縄に来て離婚 そのまま慰謝料で貰った北谷のマンションに住んでいる Hと同じ介護士仲間だ 
Hも子持ちのバツイチなのでちょうど釣り合いはいい
会話は弾み店に入って来た時降っていたにわか雨は帰りにはすっかり晴れていた

6月12日(晴れ)
朝からプールサイドで日光浴 その後室内プールで地元のおばちゃんたちと温泉プールを歩く
ここは討たせ湯もジャグジーもサウナもあって楽しい

 沖縄唯一の鉄道であるゆいレールのICカード「OKIKA」が多少残金があったので これを使って動くことにする ホテルから最寄り駅の「旭橋」までは歩いて僕の足で20分 
東京のそれより悪名高い大阪の地下鉄よりも高い(これでも安くなった)一区間230円 二区260 あと300 330と続く また「おとなり切符」なる制度が出来 隣の駅までなら150円で乗れるようになった
出来た頃(2003)は切符を買うことも鉄道に乗ることにも慣れていなかった人たちも今や戸惑うもなくスイスイと利用している 大きなスーツケースを抱えた中国人らも大いに利用している この日小禄までゆいレールで行き 小禄のイオンモールで買い物 目的の回転ずし屋が見つからずフードショップでおすしを買って帰り 帰りは始発の空港駅まで行ってUターン ところが小禄駅を過ぎた頃 一人の中国人らしき少年が騒ぎ出し「おっかあ、おっかあ」と叫ぶ 彼が窓から外を見てるすきに「小禄」で両親が下車した?のだ 次の壷川で迎えの駅員が来るまで臨時停車 まさか捨て子ではあるまい

この日の夕食 寿司セット1000円 コンビニに寄って 味噌汁を買って100円

6月13日(晴れ)
この日もゆいレールで今回は逆方向「国際通り」から「おもろまち」あたりを散策
まず「真栄橋」で降りて旧ダイナハのジュンク堂書店へ ここは沖縄で一番本が揃っている 復帰後ダイエー沖縄進出作戦の失敗例であるダイナハという名称はこの建物が最後の砦だ いまやダイエーの名前は沖縄ではすべて消えてしまって イオン、サンエーの天下である この沖映通りから歩いて国際通りへ 公設市場が変わってしまっているという話なので行ってみる なるほど大阪の黒門市場状態となっている 前に来たときは市場の二階は暗い食堂街であったが いまや一大フードコートに変貌 中国人達の集まる楽園だ
今回ツアーのおまけがステーキの無料招待だったので国際通りの「ステーキ88」で修学旅行生と一緒にランチ 何年か前娘が沖縄便で隣通しになった女性が開いた三越裏の日本そばの店に行ったことがある 今でもあるのかと見に行ったらその店の幟が翻っていて「寶」の文字が見えた 牧志からゆいレールで「おもろまち」まで 最初沖縄に来た頃はこの辺りはまだ返還直後で金網に囲まれていた ちなみにその時泊まった那覇レインボーホテルは今はもうない 「おもろまち」に来た目的はサンエーのシネコンで「のみとり侍」を見ることであった よく知っている若い役者が出ていて見たかったのだ 
しかし内容は鶴橋監督はいったい何が言いたいのかよく判らぬ
昼めしをたらふく食ったので夕食は抜くことにして温泉へ

6月14日

朝から雨
この日から沖縄はやっと梅雨らしき天気となり台風6号も重なり暫く雨が続きそう
空港へ向かうタクシーの前にチンタラ走る警察の装甲車が入った
出発前一人の囚人が4人の刑事に囲まれて乗り込んできた
我々の席はジャンボの一番後ろだったから囚人と横並びだ
雨雲を突き抜けて飛行機は一路伊丹空港へ

この五日間で歩いた歩数
10日6206歩 11日5587歩 12日8694歩 13日18429歩
14日4706歩 合計44072歩 一日平均8818歩

旅行代金 JTB 4泊5日 92000円
その他 買い物他     40000円弱

白鷺だより(323)「アロージャズオーケストラ(AJO)」は60歳

2018-06-09 10:41:11 | 思い出
アロージャズオーケストラ(AJO)は60歳

 昭和50年 梅コマと契約する前にコマからコマミュージカルチームの巡業の舞台監督の仕事が入った その頃所属していた大宝芸能と同系列の東宝芸能のSさんというプロデューサーの持ち込み企画で専属の南原美紗保さんという歌手を中心にヌードさん、コマミュージカルチームのダンサーでのちょっと大人っぽいショウで各地のキャバレーを廻るという仕事だ
その途中で次の仕事の打ち合わせが入り それをきっかけにコマに潜り込む話は別に書いた(ブログ26「はじめてコマの仕事をした」ほか)

演出はコマの文芸部で関学軽音出身のOさんだ(唯一譜面の読める人だった)
譜面が読める強みは彼の同期で関学の軽音にいたNHKの福家さんが譜面が詠読めるADとしてBKのアルバイトからどんどん出世しやがて紅白まで仕切るようになったことで判る

京都は三代目襲撃事件が起こる前の「ベラミ」そして神戸はその後地震で潰れた「月世界」東京は赤坂「月世界」と一流どころを回ったが 特に神戸月世界に打ち合わせに行ったとき同伴の演出家Oさんが間に入ってくれた それはそのバンドメンバーの殆どが彼の先輩、関学軽音の出身者及び中退者であったためだ アルバイトで入ってそのまま学生の割に「チョットいい生活」の末バクチや女で身を持ち崩して辞められない、そんなメンバーばかりだった 
その後「月世界」は阪神大地震で潰れ、またキャバレーが下火となった今あの人たちは どうしているのだろうか?

その後梅コマに入って付き合ったのは昭和プロの「居上博とファインメイツ」や「大前成之とニューコンサート」二つのビッグバンドだった もちろん新歌舞伎座にも出ていた
やがて各有名歌手が自前のバンドを持つようになり仕事がめっきり減った
そして現在は「ファインメイツ」というバンド名がかろうじて残っている

大阪キタ新地にナイトクラブ「クラブアロー」が出来たのが1958年 そこの専属バンドのリーダーに選ばれたのが関学在学中からジャズピアニストとして注目されていた北野タダオ、彼を中心として「アロージャズオーケストラ」が産声を上げた
北野さんは素質のある若手ミュージシャンを数多く誘い実力バンドを作り上げた
北野さんの跡を継ぎ2008年(結成50年を機に北野タダオが身を引いたため)からバンドリーダーを務めるトロンボーン奏者の宗清洋さんもその一人だった 
当時大阪で別格の演奏の質 一員になれて嬉しかったと語る
その質の良さの評判は広まり 70年頃からはテレビの歌番組などの仕事が多く舞い込む
71年に「クラブアロー」はバブルと共に閉店したが 美空ひばり、坂本九らトップスターのバックバンドに起用され 仕事は絶えることがなかった 
しかし80年代カラオケの普及や電子音楽の技術向上により生演奏の機会は減ってビッグバンドは廃れていった AJOも例外ではなく仕事は減って来たが「ジャズに帰る」を合言葉に各地でのコンサートに積極的に出演 ファンを獲得していった
95年の阪神大震災の影響でコンサートが減ると同年自主的に定期演奏会を開く
以降大阪、京都、神戸、東京、名古屋で開催114回を数える
04年には拠点を武庫之荘にライブハウスに移し心機一転を図った

今まで共演したアーティスト 美空ひばり 坂本九 阿川泰子 伊東ゆかり 岩崎宏美
上田正樹 大西ユカリ 角松敏生 木村充輝 北村英冶 西条秀樹 日野皓正 MALTA
松任谷由実 渡辺真知子ら

この6月15日に開かれる60周年記念リサイタルは115回目の定期演奏会も兼ねている ゲストには阿川泰子 大塚善章 古谷充 徳永延生 
「わが心のジョージア」「ムーンライトセレナーデ」など
また7月には宇崎竜童をゲストにコンサートが行われる

音楽はその人を大きく見せる武器になる!

追記
2018年10月3日死去
同日の神戸新聞の訃報

関西を代表するビッグバンド「アロージャズオーケストラ」の創設者でピアニストの北野タダオさんが3日午後3時55分 肺炎のため神戸の病院で死去した 84歳 姫路市出身
中学時代から独学でピアノを始め関西学院大在学中にトリオを組んで米軍キャンプなどで演奏した 1953年大阪のナイトクラブ「アロー」の専属バンドとしてアロージャズオーケストラを結成 71年の閉店後も美空ひばりさんの伴奏を務め エラ・フィッツジェラルド やマリーね・デイトりっひら海外の一流アーテストとも共演した 「音楽博士」の異名をとるほどジャズの知識は深く 小曾根真さんや松永貴志さんら国際的なピアニストを育成 2004年には尼崎市に活動拠点として「ライブスポットアロー」を開設した
結成50周年の08年 神戸と大阪で開いた記念公演を最後に引退 パーキンソン病の闘病生活を送っていた
訃報を受け小曾根さんは「北野さんなくして今の僕は無い」と言い切り「ジャズを心から愛し 身も心も捧げた人 日本のジャズ界に沢山の
宝物を与えてくれた」と偲んだ