白鷺だより

50年近く過ごした演劇界の思い出話をお聞かせします
     吉村正人

白鷺だより(180)新宿タイガーマスク

2016-12-29 08:24:06 | 思い出
        新宿タイガーマスク

 あれはいつ頃だったのだろう 新宿コマの仕事でコマ近辺に泊まっていた頃 朝夕歌舞伎町界隈に必ず現れるのがピンクを基調に花やぬいぐるみで飾った派手な自転車に乗りラジカセからガンガン演歌を鳴らしカーリーヘアーの鬘を付けタイガーマスクを被った新聞配達員を見たのは 最初見たあの驚きと感動は忘れない 東京はケッタイな処だと思った
あの彼はもうとっくに消えてしまっているだろうとタガを括っていたらこの前都市伝説か何かの番組を見ていたらどっこい現在も健在で歌舞伎町に出没しているらしい

西口の淀橋浄水場跡にはまだ何も建っていなくてススキだらけだったおよそ50年まえの1965年頃から始まり 新宿が一番燃え熱く輝いていた1970年前後を経て監視カメラだらけの現在までの新宿を見続けてきたタイガーマスクはマスク越に見た「新宿」に対してどんな感想を抱いているのだろう 

ウイキペディアによると彼は本名原田吉郎 昭和23年長野生まれの現在68歳 何と僕と同じ年である 17歳で配達を始めたというから大学(大東文化大)はその収入で通ったと思われる 配達している新聞は朝日 配達先は歌舞伎町界隈の映画館などが多い 新宿コマも配達していたようだ このマスクを着けだしたのは昭和52年頃からであり近くの稲荷鬼王神社の祭りの夜店で気に入りまとめて40個買ったという 
このいでたちのテーマは「love&peace 」だという

 タイガーマスクのお面を被り ド派手な衣装と自転車で新宿の街に新聞配達をする男
彼の名は新宿タイガー 「少年少女に夢と希望と愛情を」をテーマにもう30年以上も
このスタイルを続けているというタイガー 
正体不明のタイガーは意外なほどあっさり人前で素顔を曝す
それを見た者が一様に抱く感想は・・・普通のおじさんだ!
タイガーは大の映画好きである 毎月約十本のペースで新宿のいたる映画館に足を運ぶ
映画の中にはいつの時代も愛すべきヒーローや麗しき美女がいた
彼らから得た勇気と感動を胸に 
自らの使命は世の中をぱ~っと明るくすること とタイガーは今日も走り続ける
「冒険しろよ」「人生は美女と映画だ」「ロマンがあるじゃないか」
ハイテンションに発せられる言葉の一つ一つは荒唐無稽なようでどこか優しい
「続けることが大事なんです」行動だけが裏付ける、この説得力
やはり、タイガー 只のおじさんではない
なんつうか あったけえね   (2004インタヴュー記事より)



「新宿に夢と希望と感動を いつまでも」


2016年度のブログは今回が最後です ご愛読ありがとうございました

白鷺だより(179)「沖縄日記」

2016-12-27 11:40:18 | 旅行
沖縄日記(2016・12・17~12・21)

12月17日(土)晴れ ムーンオーシャンホテル泊
あんまり暖かくない沖縄だが取り合えず甥っ子のHが身体を開けてくれたのでいつもの60年代の雰囲気が残る「7サムスカフェ」(北中城村)へ 基地の間にあるこの店は土曜日なので米兵の親子連れで満杯で1時間待ちだという 仕方なく近くの去年出来た西日本一というイオンモール・ライカム(さすがに広い)にいって今流行りの「麦とろ海物語」へ 娘によるとこの自然生村系列の店は東京で密かに流行っているらしく「裏恵比寿自然生村」「裏神田自然生村」として並ばなければ食べられない店として評判らしい その沖縄版がこの店だ なるほど弾力タップリの自然薯だ
この日オスプレイが作業再開時間以前に再開して翁長さんが怒る

12月18日(日)晴れ ムーンオーシャンホテル泊 
 朝から新聞を読んでいた娘が怒っている 今晩放送される鹿島VSレアル戦が見ることが出来ないのだ 沖縄では現在日本テレビ系列の放送をする局がないのである フロントの人に頼んでスポーツバーなどを当たって貰ったが 朝早くでは連絡もつかない 
沖縄では日本テレビが見れない そういえば日本テレビ系列だけでスターになったタレントが昔沖縄に当時の恋人(現妻)とお忍び旅行に来た時 見つからぬように変装して来たが実は沖縄の人は誰も知らなかったという笑い話を聞いたことがある 結局試合は持ってきたパソコンでも見ることが判明 鹿島の善戦で娘の歓声で煩かった
この日は娘が友達に紹介されたパン屋「宗像堂ベーカリー」で酵母パンのランチを食べた
この店の近くに普天間基地が一望できる嘉数の高台公園があり寄ってみたがさすがに昨日の今日ではマスコミで一杯らしく駐車場が溢れていた ここは沖縄市街戦最大の激戦地であり日米多くの兵士が死んだところで記念の高台からは普天間基地の全貌が見ることが出来る 帰りに買い物をするためにホテル近所のユニクロに行くが満車で入れず

12月19日(月)晴れ時々雨  ムーンオーシャン泊
 今日はいとこのHが介護士の仕事を休んで付き合ってくれるというので 予定していた
今帰仁まで遠出して前にテレビのドキュメンタリーで見た「あいあい手作りファーム」に向かった 沖縄南から高速に乗って許田のインターまで出て名護を経由して今帰仁へ 湧川小学校という統合された校舎をそのまま使ってレストラン 宿泊施設 売店 農業体験
直売所などがある 大きなグランドはそのままだ 元職員室で食べるランチは僕は島豚のハンバーグ+副菜ブッフェ取り放題で1280円だ 副菜コーナーは沖縄独特の野菜の山だ +島豆腐の色々 モズク天ぷら 玄米ごはん ジューシーなどなど これで1280円は安い 食後校舎内を散歩すると校舎は沖縄でもどこでも同じように懐かしさが蘇る
近くの古宇利島までドライブして許田まで帰る 許田でジャンボ宝くじ三種を買って高速に上がらずゆっくり恩納村のビーチホテルを見ながら南下 夜はあっさりスシローで回転ずし この日ASKAが釈放される

12月20日(火)晴れ ロワジールホテル泊
 ホテルが変わるのでチェックアウトして朝から前に入れなかったユニクロでゆっくり買い物 一月の旅行用の着るものを買う この前のパン屋に行き持ち帰り用のパンを買い 今日は空いているだろうと嘉数高台に登る 普天間基地がきれいに見え噂のオスプレイがズラッと並んでいたが飛ぶことはなかった その足で南に下りながら途中ブルーシールズに入ってアイスクリームを食べる 仕事終わりのいとこと合流 久茂地の「琉球居酒屋あかがーら」で沖縄料理と島唄を堪能 
ASKAはブログで採尿ではなくお茶だったという
それなら尿だとねつ造される恐れがあったのでお茶にしたら やはりでっち上げたと言っているようで逮捕時まるで最初から逮捕が決まっているような様子だったことを思い出させる

12月21日(水)晴れ 
 前回6月と違い今回は殆ど雨に合わず暖かく過ごせたました
那覇空港でいつもの大東島のサワラ寿司「大東寿司」を食べて東京にそのまま帰る娘と別れて一路伊丹空港へ

白鷺だより(178)「神野美伽オンステージ」

2016-12-25 09:26:07 | 観劇
 「神野美伽オンステー~これが天下の神野節~」を見て

梅田コマで北島公演をショウのチーフとして演出の大野拓克と一緒にやっていたころ
芝居の脚本・演出でもある北島三郎さん(原譲二)は公演のたびに「吉村、今度の芝居はショウに勝つぞ」といった 
そのたびに僕は「ほう、えらい自信ですね 期待してますが残念ながら今回もショウの勝ちです」と答えた 
そしてそれはいつも当たっていた 
お客はショウのフィナーレの「まつり」が終わった後口々にショウの素晴らしさを口にし満足して帰っていった 
そこには芝居の話題はどこにもなかった 
それは北島が歌手だから当然であった

後に新宿コマで「松原のぶえ特別公演」をやったとき 芝居の脚本・演出は北島こと原譲二 ショウは僕が構成・演出という公演があった 
初日が終わりトータル時間が10分ほど長いという話になり 当然ショウの時間を切るという雰囲気になったとき 突然北島のママ(北島夫人)が「ショウは素晴らしいわ 切ることない」と言い放った 
北島は「判った 芝居で10分切るわ ショウはそのままやれ」と言ってくれた 
その当時の北島家の力関係は別として 歌手の公演としては当然の処置であった 
歌手はショウが命だ その気持ちがあったればこそ北島公演は「最終公演」まで4573回の公演を完走出来たのである

今月の神野美伽のショウが素晴らしいとの噂を聞いて新歌舞伎座へ見に行った (構成・演出は宮下康仁) 
なるほど舞台全面が開帳場なってその奥に大ぜりでバンドが上がり下がりするシンプルなセットだ 
歌があればセットなどいらない そんな決意が見える
悪いがそんなにヒットしていない持ち歌(ファン以外は殆ど知らない)コーナーとファン以外は全く興味がない新曲コーナーは第一景でサッサと済ませ 第二景は自分と姉妹弟子(市川昭介の弟子)である都はるみの曲で自らの歌手出発から今までの歩みを綴っていく
特に神野が忙しくなり師匠市川昭介のレッスンが思うように受けられなくなり苦肉の策として電話でのレッスンの話から都はるみからの電話でのダメ出しの話で「王将一代小春しぐれ」を熱唱するくだりは秀一 
昔僕が明治座の藤田まこと公演のショウで構成・演出した「心の綴れ歌」で制作の土生さんに「こんなショウを待っていたんだ」と褒められた そのショウは藤田と友人だった水原弘の曲と思い出話で綴っていく構成であった 
同じように次々と歌われる都はるみのヒット曲を聴いていると都はるみという歌手が浮かび上がってきて 昔新宿の明け方 飲み屋街で大きな男女の嬌声が聞こえ よく見るとはるみと亡くなった中村一好の二人だったことなども思い出させる 
第三景ゲストコーナーへの移行もスムースで唯一ドレス姿で聞かせる「花のように鳥のように」は絶品 第四景のジャズへの挑戦は吉さんの「酔歌」はジャズアレンジの「ソーラン節」入りで歌い「座頭市子守歌」も聞かせる 最後に本人の曲である「あんたの大阪」をロック調にアレンジして歌い閉める

もう一本の芝居を忘れてしまうほどの熱唱は見事だった

さてもう一本の芝居の方(「お染風邪久松留守」より「世は情け なにわ長屋の大騒動」)だがこれはひどい 主演者全員が詐欺師集団という何とも後味が悪い芝居になっている はて新喜劇の作品には悪人が出ない筈だがと調べてみるとこの作品は南座で大江美智子劇団の前狂言として上演(巌谷槙一作演出)されていて それを寛美さんが平戸さんにアレンジさせて新喜劇で上演した作品だった 五木・前川公演以外は新喜劇として新歌舞伎座に出ることがなかったのに この作品選びは疑問だ 扇治郎も新歌舞伎初お目見えだがもっと活躍させるべきで例えば桑野なにがしが演った女中の役をそれこそ奥様付き丁稚として八十吉と遊べばいい役になったとも思う どうですか白能喜人さん

公演が終わり帰りの人々の声を聴くとみなショウの素晴らしさであった 
総勢22名の新喜劇のメンバーが束になっても神野美伽の熱唱の前に敗れ去った 
 
(2016年12月14日夜の部新歌舞伎座にて)

白鷺だより(177)「皇太子さまがお生まれになった」

2016-12-23 07:39:11 | 思い出
    皇太子がお生まれになった



昭和8年12月23日 日の出の時刻に東京市内18か所のサイレンが2回鳴った
待ちかねていた市民は窓に明かりをつけて「バンザーイ」と叫び宮城を拝んだ
昭和の御代になって日本天皇制は重大な危機を迎えていた 昭和天皇裕仁は皇太子時代の大正13年久邇宮良子と結婚したが生まれたのは成子 裕子 和子 厚子と皇女ばかりで皇位継承する男子に恵まれなかった この年皇后の懐妊が判った時 生まれた子供が女だったら一回 男子だったら二回サイレンを鳴らすと決められていたからであった

東京日日新聞は次のような号外を出した

皇太子殿下ご誕生 けふ午前6時39分
皇后陛下にはけふ23日午前6時39分御安産 皇太子殿下誕生あらせられる
大内山に陽気溢れ全国津々浦々御慶祝の歓喜に満ちた

高朗たる御安産
天皇皇后陛下御満悦
今こそ全国民の念願達す

そしてその夜市民は提灯行列をしてこぞって祝った

北原白秋 作詞 中山晋平 作曲 「皇太子さまお生まれになった」
童謡歌手 平山美代子(5)が歌った

日の出だ日の出だ 鳴った鳴った ボーオボー
サイレンサイレン ランランチンゴン 夜明けの鐘まで
天皇陛下お喜び みんなみんなかいは手
うれしいな母さん 皇太子さまがお生まれになった

日の出だ日の出だ 鳴った鳴った ボーオボー
サイレンサイレン ランランチンコン 夜明けの鐘まで
皇后陛下お大事に みんなみんな涙で
ありがとお日さま 皇太子さまがお生まれになった

日の出だ日の出だ 鳴った鳴った ボーオボー
サイレンサイレン ランランチンコン 夜明けの鐘まで
日本中が大喜び みんなみんな子供が
うれしいなありがと 皇太子さまがお生まれになった


このサイレンは京都でも鳴ったらしく 2009年(平成21年)秋の園遊会で「放浪記」2000回公演を果たした森光子が招待された時 両陛下の前でサイレンの思い出を語りこの歌を歌った
また12月14日の「徹子の部屋」で橋田壽賀子も日本統治時代の遥か京城でも行われた提灯行列でこの歌を歌った思い出を語っていた
橋田も園遊会で歌ったと言っていたからさぞかし陛下は苦笑なされたと思う

この年満州事変から2年目 リットン調査団が介入撤兵の勧告 
日本は国際連盟を脱退するかどうかの岐路に立たされていた

 



白鷺だより(176)「ハイサイおじさん」

2016-12-21 17:28:26 | 思い出
ハイサイおじさん



「本土が寒くなったら沖縄に行こう」と久しぶりに沖縄にやってきた といっても約半年ぶりだけれど 国際通りを歩いていたら喜納昌吉のライブハウス「チャクラ」はまだ健在だった ちょうど「花」が大ヒットしたころこの店が出来てすぐの頃覗いたことがある 

今や喜納昌吉は政治家に成り下がってかっての民主党(今やだだ落ち目の民進党)に担がれ 民主党のいい時に参議院当選 次は落ち目の民主党で落選 浪人中に沖縄知事選に民主が推す翁長に対抗して出馬 民主党を除名される 現在無所属

彼の最初のヒット曲は中学生の頃作ったといわれる「ハイサイおじさん」だろう
すべてウチナーグチ(沖縄方言)で書かれたこの歌は実は中学生の少年と隣の「おじさん」との会話で綴られている 例えば一番は

ハイサイおじさん ハイサイおじさん
昨夜(ゆんび)ぬ 三合ビン小 残(ぬく)とんな
残(ぬく)とら我んに 分きらんな
ありあり童(わらばー)いぇー童(わらばー)
三合ビンぬあたいし 我んにんかい
残(ぬく)とんで言ゆんな いぇー童(わらばー)
あんせおじさん 三合ビン不足(ふずし)やみせぇーら
一升(いっす)ビン我(わ)んに 呉(くィ)みせーみ

とサッパリ判らない
ヤマト言葉に直すとこうなる

「小僧」(生意気な中学生)
ハイサイおじさん ハイサイおじさん
夕べの三合ビン残っとるかあ?
残っとったらワレに分けてくれんかあ
「隣のおじさん」
おいおい小僧 えい小僧
三合ビンの量を このワシに
残っとるかと聞いとるのかい ええ小僧
「小僧」
あのなあ おじさん 三合ビンで不足ちゅうなら
一升瓶でもワレくれるとでも いうんかい 
続いて2番はおじさんの娘さんを嫁にくれと言ったらまだ早いと怒られる
3番はおじさんのハゲ頭をからかったらハゲてる人は昔から頭がいいんじゃと言い返され
4番ではおじさんの髭をからかったら髭があるからもてるんじゃと言われ
5番では初めて女郎屋に行ったことを自慢して一緒に行こうと誘うとワシは沖縄の殆どの女郎屋の株主だと言われ しっかり稼いで金持ってこいといわれる
これは沖縄の男の子の性、酒 みだしなみなど大人になるための成長記でもあるのだ
その先生が「ハイサイおじさん」であったということだ

このおじさんとのかかわりはこんな悲惨な事件から始まる
 1962年のことだ その5月23日付けの夕刊の琉球新報では「母親が娘を惨殺 斧で切り付ける コザ精神異常者の凶行」沖縄タイムスではもっと生々しく「狂った母親 七つの娘を惨殺 マナイタに乗せて夫の留守中発作的に」とある
 
この日の午前9時40分頃コザ市立島袋小学校そばのN氏(53)宅で妻(39)が7歳になる娘をマナイタに乗せその首を切り落とした まだアメリカ占領下の出来事だった  
この事件を喜納昌吉は見ていたのである 「殺された子供の足をひっぱったら首がなかった それを見たおじさんの魂(まぶい)を落としたおじさんのあの時の顔を」見た

Nおじさんの家は彼の家の隣だった 昌吉の父の喜納昌永が歌いに行って貰ってくる酒を狙ってやってくるおじさん アル中で生活破綻者で妻を病院にも入れることが出来ないので自宅内に軟禁しておいたがもう大丈夫だという妻の言葉で軟禁を解いたばかりであった
事件後は村八分にされたが昌吉少年は憎めずおじさんの酒と話の相手をした そして唄が生まれた この唄は最初父親のLPの一曲として録音された それが人気を呼びシングルカットされて大ヒットとなった ただしその頃昌吉はヘロイン不法所持で獄中にあってヒットの渦中の体験はしていない 沖縄はそのころ返還された


沖縄から帰ってきました 
さすが大阪に比べて温かくオスプレイも飛んで熱く燃える沖縄でした 
ブログ再開します よろしく