白鷺だより

50年近く過ごした演劇界の思い出話をお聞かせします
     吉村正人

白鷺だより(152)休みの間に起こったこと

2016-10-31 06:52:01 | 思い出
休みの間に起こったこと

お待たせしました いよいよ来月1日からブログ再開します
その前に休んでいた間に起こったことを書いてみようと思う

まず17日に母が死んだ いつ亡くなるか近所に住む弟からの連絡待ちだったがいよいよ今日明日ということで連絡が入って田舎(三重県名張)に向かう前に亡くなったとの知らせが入った とりあえずその日は母を8年間お世話になったホームから近くの弟(喪主)の家まで運び 19日お通夜20日告別式というスケジュールに備えた
この母の死のことはブログにじっくり書こうと思っている

23日平幹急死
 昔梅田コマで太地喜和子と「鶴八鶴次郎」をやったとき稽古場での中日パーテイか何かで「一本刀土俵入り」の寸劇が行われた 配役はなんと喜和子の駒形茂兵衛 平幹のお蔦であった 二人とも喜々として演っていたのを鮮明に思い出す

26日なんばパークスシネマにてシネ歌舞伎「ワンピース」を見る
このシネ歌舞伎にちょっとハマっている 
なまじっか劇場で見る歌舞伎よりずっーと面白いかも
これについてもブログにて詳しく

この「ワンピース」に出演していた春猿は新派に入ることが決まり芸名を河合雪之丞とすることを27日発表 月乃助に次いで春猿もか 家柄がない役者は生きていけない世界なのか 歌舞伎界という場所は

この26日三笠宮が薨去(こうきょ)
(殆どの新聞が逝去と書く中 産経新聞だけがこの薨去の文字を使った)
昔三笠シヅ子という松竹楽劇部のダンサーがいた 三笠宮家が出来た時不敬だということで無理やり芸名を変えさせられた それが笠置シヅ子である

同日亡くなった春野百合子の弟子である春野恵子は 大阪に流れて来た時からよく知っている 当時我々の行きつけの難波の「同想会」のママにひろわれたからである

その春野恵子がゲストで出ている近代演劇倶楽部の芝居「恩讐の彼方に」を27日観劇
詳しくはこれもブログで

29日劇団しし座「そらにえがいた夢」ヘップホールにて観劇
しし座の芝居「サッパリ判らぬ

31日 出演している植栗君がいい役をやっているらしく彼のご招待で新歌舞伎座の「コロッケ特別公演」をこれから見に行く これも感想はブログで

演劇の思い出とは別に古い名作映画を研究して「名作クラッシック」という枠でブログを書くことにしました 一回目は「イヴの総て」です ご期待下さい

白鷺だより(151)老女優は去りゆく

2016-10-15 07:46:54 | うた物語
  老女優は去りゆく

 僕がこの曲と出会ったのは梅沢劇団の市川吉丸に誘われて行った名古屋のとあるゲイバーのショウの中だった 
美輪明宏の歌に合わせてブサイクな彼女(彼?)が女優を演じて笑わし、そして泣かせた

老女優は去りゆく 美輪明宏 作詞・作曲

これでお別離なのね この劇場も
化粧を落として 煙草をふかせば
思い出すわ あの頃を 過ぎた昔を
女優を夢に抱いて 街へ来た頃を
私は十六 田舎訛りで
震えながら訪ねた ここの楽屋口

長い下積みの後で やっとありついた
端役でも 私は嬉しかったわ
それからはだんだんと 主役になれて
輝くスポットライト 浴びた歓び
楽屋には花々 拍手の嵐
取り巻きの人々 甘い生活

「でも若くして成功した誰しもがそうであるように 私もついいい気になっていた
その後 数多くの失敗が続いた 批評家には叩かれ 主役はライバルに持って行かれた
おまけに愛する夫は 若い女優と駆け落ち たった一つの心の支えだった子供は病気で死んで 
それを優しく慰めてくれていたあの人も事故で死んだ

ふと気が付くと まるで潮が引くように 私の身の回りから人々が遠ざかっていた
孤独の中で毎晩、毎晩浴びるようにお酒を飲んで やがてアルコールと麻薬の中毒、そして入院 
あの泥沼の中から這い上がるまでにどんな思いをしたか決して誰にも判らないわ
世間では私のことを再起不能と嘲笑っていた 落ちぶれた過去のスター! 落ち目の流れ星!

・・・もう一度 舞台に立ちたい あのスポットライトの下で拍手を浴びたい
私は恥を忍んでカムバック目指して通行人の端役から出直した 人々の同情の眼 蔑みの
眼にも耐えた なぜならば私には女優としての誇りと自信があったから 
でもその後の想像を絶する人々の悪意 意地悪 屈辱の数々 
でも私は負けなかったわ 耐えて耐えて耐えて耐え抜いた 

そしてとうとうあの念願かなったカムバックの日 
太陽のように輝くスポットライト 嵐のような拍手を私は一生忘れないわ

色んな役をやった 女王も 娼婦も 人妻も 娘も 
でもそれらは 今は夢幻のように消えて 私はすっかり老いさらばえて
今日 この劇場で引退していくのだ」

そうよ この劇場は解かっているのね
舞台に人生を 賭けた私を
私の何もかも 生きて来た道を
さようなら愛する 我が劇場
老兵は静かに 消え去るのみ
出ていくまで明かりは 消さないでね
出ていくまで明かりは 消さないでね

「ありがとう、ありがとう」

この一曲で長編のドラマ(しかも古きヨーロッパの)を見るような構成でよくできている
YouTubeで見ると演じている(歌っているのではない)美輪の演技も見事で人気絶頂の時は「こうまんちき」な顔となり 落ちぶれたときもプライドだけは忘れずすっかり老婆になって引退するときもちょっぴり寂し気に去っていく それでも大女優だったというプライドだけは忘れない

さて日本においてこのような女優はありえるのだろうか ノーである
まず日本ではよっぽどの事件(殺人、麻薬)を起こさないと落ち目にはならない 
ある程度の地位を築いた女優は単に演技力のなさぐらいで干されることはない
あり得るとしたら何とか先生(男優、脚本家、演出家)の愛人とかいう立場の女優である
先生が亡くなったり 消えていったりという理由で干されるということが多々ある
先生に敵が多かった場合 各プロデューサーは手のひらを返すように使わなくなる
何人かはそうして消えていったが元々演技力がないので再起することはなかった

お知らせ

一身上の都合により今月一杯をめどにブログはお休みします


お陰様で3月25日にスタートして200日を超えました
前回までのブログ数150
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白鷺だより(150)「学生時代」の替え歌

2016-10-14 07:17:33 | うた物語
「学生時代」

蔦の絡まるチャペルで 祈りを捧げた日・・・・
 
昭和39年平岡精一が作詞作曲 青山学院高等部を出たペギー葉山が歌ってヒットした「学生時代」は我々の時代(昭和41年~)になり替え歌となって甦った 
勉学、読書 クラブ活動、恋愛 夢多かりしさわやかな「学生時代」のイメージが180度転換したからである
 
まずはブント(社学同)系のセクトの定番で

(1) ビラの舞い散るキャンパスで ストライキをアジった日
デモ多かりしあの頃の 思い出をたどれば
懐かしい同志の顔が(憎らしいポリの顔が)一人ひとり浮かぶ
重い丸太抱えて(重い赤旗抱えて)通ったデモコース
秋の日の三里塚 汗と流血の匂い
石ころ飛ぶ羽田 学連時代(学生時代)

(2)インターを歌いながら 革命を夢見た(インターナショナルの歌)
何の授業にも出ずに 単位も取らずに
胸の中に秘めていた 暴動への憧れは
いつもはかなく敗れて 一人帰る下宿
本棚に目をやれば あの頃読んだマルクス(革マルは黒寛)
素晴らしいあの頃 学連時代(学生時代)

(3)サーチライトに輝く 装甲車を乗り越え
共にスクラムを組んで 闘った学友
そのやつれた横顔 兄のように慕い
いつまでも日和らずにと 誓った女子学生
清水谷 明治公園 懐かしいデモは帰らず(関西では円山公園 御堂筋)
素晴らしいあの頃 学連時代(学生時代)

この歌は日大闘争ではこうなる

立て看の連なる並木で アジびらを配った日
デモ多かりし あの頃の 思い出をたどれば
懐かしいミン(日共系民青が彼らの敵だった)の顔が ひとつひとつ浮かぶ
重い旗竿を担いで デモったあの頃
下高井戸 御茶ノ水 神田三崎町
懐かしいあの頃 日大闘争

そして元歌はこうだ

1 蔦の絡まるチャペルで 祈りを捧げた日
夢多かりし あの頃の 思い出をたどれば
懐かしき友の顔が 一人ひとり浮かぶ
重いカバンを抱えて 通ったあの道
秋の日の 図書館の ノートとインクの匂い
枯葉の散る窓辺 学生時代

2 讃美歌を歌いながら 清い死を夢見た
何の装いもせずに 口数も少なく
胸の中に秘めていた 恋への憧れは
いつも儚く敗れて 一人書いた日記
本棚に目をやれば あの頃読んだ小説
過ぎし日よ 私の学生時代

3 蝋燭の灯に輝く 十字架を見つめて
白い指を噛みながら 俯いていた友
その美しい横顔 姉のように慕い
いつまでも変わらずにと 誓った幸せ
テニスコート キャンプファイヤー 懐かしい日々は帰らず
素晴らしいあの頃 学生時代
素晴らしいあの頃 学生時代

(3番はさり気なくその年代にありがちな S(エス)の世界を描いている)

平岡清二もペギー葉山もこの曲がかように変貌するとは思ってもいなかったであろう
そう 学生時代そのものが変貌してしまったのである

実際の学生時代は元歌のようにきれいな思い出の中にあるものではなく
愚かな劣等感や不安や後悔で一杯なものだ
その意味では替え歌の方が僕にとってぴったりな「学生時代」ではある

僕が通っていた関学もプロセスタント系のキリスト教の綺麗な学校であった
教会もチャペルもあった 讃美歌も歌った 
この教会の牧師の息子が当時 文学部の委員長で全学ストを指揮した
父親はすぐに教会を辞め 近所でパン屋を始めた

白鷺だより(149)中日劇場が消えていく

2016-10-12 08:28:04 | 思い出
     中日劇場が消えていく

劇場が入っている中日ビルが新しいビルに建て替えることとなり 劇場は2018年3月で閉館となるそうだ 
新しいビルには劇場は再建しないことが決まっており1966年にオープンして以来52年間 御園座、名鉄ホールと共に「名古屋三座」として頑張ってきたが 新御園座の杮落しである2018年4月に引き継ぐように閉めることとなったという

新しいビルにはコンサートやシンポジウムが出来る施設が出来るようですので そこでは今まで築いたノウハウを生かしてもらいたいものです
新しい中日ビルが作るのなら出来れば1Fに劇場を作ったほうがいいと思っていたが・・・・中日新聞社は「オープンから50年赤字続きで 黒字になったのはほんのⅰ~2年しかなかった 断腸の思いで閉館を決意した」と言っていますが新しい御園座と競って「芝居どころ」といわれる名古屋の演劇界を盛り上げて行く気概はなくなったのでしょうか
 
中日新聞社直営の中日劇場はおそらく御園座に比べて広告宣伝費は格安で済むはずだし関連企業の観劇会協力また賃貸料もいらないでしょう 充分に赤字解消が出来うると思いますがもはやそんな気も失せたのでしょうね

劇場関係者にお願いがあります この52年間の公演記録を是非閉館までに作ってもらいたい 
天下の中座も公演記録がなく 関係者は悲しい思いをしています 
公演記録は我々の生きた証みたいなものですから

中日劇場の制作の森さんはそのフェイスブックに次のような文章を書いています
「中日劇場の閉鎖が正式に発表されました! ビル立て直し後の新劇場への移行は期待がなかったわけではありません ヨ年前の貸ホールへの経営変更(直後、御園座の建て替え新劇場建設で方針の大幅変更)に続き2度目の会社面談です
中日劇場との関わりは前進座時代を含めて37年になります まさに人生そのものでした
何らかの形で演劇界の仕事に関わっていければと思っています
今後ともよろしくお願いいたします」

この世界に長くいると劇場の終焉に何度も出会わすことがあります
この僕でもざっと並べてみてもトップホットシアター 朝日座 浪花座 角座 中座 近鉄劇場 梅田コマ、新宿コマ 新歌舞伎座などが閉鎖、建て替えなどの理由で消えていくのを見てきました
劇場の消えるのは単に建物が消えるだけじゃなく その中の芝居者の汗や涙も一緒に消えていくんだということを何度も何度も感じました もっといえば劇場を中心とした人々の生活や町全体をも引き連れて消えて行く 寂しいことです

さて中日劇場閉館後つまり2018年4月からは「芝居どころ」「芸どころ」名古屋には商業演劇の上演する劇場が新しい御園座のみになる
その御園座が博多座のように東宝、松竹、その他の劇場が交互に制作を担当するのか 
(我々外部から見ていたら博多座は他の制作者たちに食い物にされているように見えるのだが) 
あるいは劇場プロデューサー独自で企画 作品選びからキャスティング スタッフ選びまでやれるのか 
また大手が制作会社と対等に話が出来る制作者が この休館中に作られているのか 
商業演劇が伸び悩む中 楽しみでありまた大いに不安でもある 

白鷺だより(148)歌のおばちゃん

2016-10-10 07:46:26 | うた物語
     歌のおばちゃん
病気以来リハビリで週一回にペースで通っている近くのクリニックには変わった女性患者がいる 
大声でソプラノ歌手のように両腕を前で合わせて唱歌(歌謡曲ではない)を歌うのである 
それもその季節に合った歌をである 
例えば春の初めには「早春賦」(春は名のみぞ風の寒さや)や「どこかで春が」「春よ来い」などであり 
梅雨時には「あめふり」(あめあめふれふれ母さんが)や「かたつむり」を歌うのである 
だから彼女の歌を聞いて我々患者は季節の移り変わりを知るのである 
この季節は「里の秋」や「小さい秋見つけた」がもっぱらの歌である 
その「里の秋」にはこんなエピソードがある

「里の秋」斎藤信夫作詞 海沼 実作曲 川田正子歌

静かな静かな 里の秋
お瀬戸に木の実が 落ちる夜は
ああ 母さんとただ二人
栗の実煮てます 囲炉裏ばた

明るい明るい 星の空
なきなき夜鴨の 渡る夜は
ああ 父さんのあの笑顔 
栗の実食べては思い出す

この少年と母はなぜ二人きりなのか 父は出征しているのである 軍からの知らせによれば遠く南方の島であった そして終戦が過ぎても未だに帰って来ていないのである
この曲はNHKの引揚げ者家族を励ますための番組のテーマソングとして作られた曲だった 
急な注文だったので昔の詩(星月夜)をチョッと替えて作った曲だ
僕の父も引き揚げが昭和22年だったから母はこの番組をかじりつて聞いていたはずだ

さよならさよなら 椰子の島
お舟に揺られて 帰られる
ああ 父さんご無事でと
今夜も母さんと 祈ります

その昔の原詩はこうだ(昭和12年発表)

3番 きれいなきれいな 椰子の島 しっかり護って下さいと
   ああ 父さんのご武運を 今夜も一人で祈ります
4番 大きく大きく なったなら 兵隊さんだよ うれしいな
   ねえ かあさんよ 僕だって 必ずお国を 守ります

戦前の唱歌には軍事色の強い歌詞で一杯である 例えば
「船頭さん」

1  村の渡しの船頭さんは 今年六十のお爺さん(僕68だ)
   年は取っても お舟を漕ぐときは 元気いっぱい魯がしなる 
   それ ぎっちら ぎっちら ぎっちらこ
2  雨の降る日も 岸から岸へ 濡れて船漕ぐお爺さん
   今日も渡しでお馬が通る あれは戦地に行くお馬
   それ ぎっちら ぎっちら ぎったらこ
3  村の御用や お国の御用 みんな急ぎの人ばかり
   西へ東へ船頭さんは 休む暇なく船を漕ぐ
   それ ぎっちら ぎっちら ぎっちらこ

「汽車ぽっぽ」元歌 「兵隊さんの汽車」(昭和13年)

汽車汽車ポッポ ポッポ シュッポシュッポシュポッポ
兵隊さんを乗せて シュッポシュッポ シュッポシュッポシュポッポ
僕らも手に手に日の丸の 旗を振り振り送りませう
万歳 万歳 万歳 兵隊さん 兵隊さん 万々歳

昭和19年に発表された「お山の杉の子」の4番5番

4  大きな杉はなんになる 兵隊さんを運ぶ船
   傷痍の勇士の寝るお家 寝るお家
   本箱 お机 下駄 足駄 おいしい弁当食べる箸
   鉛筆 筆入れ そのほかに
   うれしや まだまだ役に立つ 役に立つ
5  さあさ負けるな 杉の木に 勇士の遺児なら なお強い
   身体を鍛え 頑張って 頑張って
   今に立派な兵隊さん 忠義孝行 ひとすじに
   お日様出る国 神の国
   この日本を護りましょう 護りましょう

最近はクリニックに行く時間を朝一番にしたので彼女の歌に逢えるチャンスが無くなった
彼女が歌う唱歌はそれこそ昭和の心だ もとの時間に戻して聞きに行こう
歌のおねえさんというには少々年を行き過ぎている 歌のおばちゃんの歌声は今も響いている

彼女は実はお察しの通り少し痴呆症を患っているが歌詞だけは実に一字一句間違わずに正確に歌う 
音楽の持つ力は偉大だ」とつくづく思う