白鷺だより

50年近く過ごした演劇界の思い出話をお聞かせします
     吉村正人

白鷺だより(286)祇園「浜作」と森川英太朗

2017-12-24 10:14:30 | 人物

祇園「浜作」と森川英太朗

四条通りを南座を超え八坂さんにぶつかって東山の方に一筋奥を下ると老舗割烹料理店「浜作」がある 
昭和の初め先々代森川栄がこの地で本邦最初の板前割烹として開店し創業以来八十有年の歴史を有する 
高級料理をお座敷で戴くものというのが通例だったのを新鮮な材料と料理の技をお客様の目の前でお見せして 召し上がっていただく「割烹」は保守的な日本料理界に新風を吹き込んだ


昭和21年夏復活した全国中等学校野球大会の戦後第一回大会に京都二中が28年ぶりに出場した時 最年少3年で出場したのが「浜作」の息子英太朗だった 
甲子園が進駐軍に接収されていたので西宮球場だったがその観客席で同じく二中の学生で同級だった大島渚(父を亡くした彼は母親の実家がある京都に来ていた)は準決勝の下関商業戦で森川がバットの真ん中を持って勝利のヒットを打った時 目に涙が光っていたのを見ている 
(翌決勝戦で浪華商に0対2で負ける)

昭和23年 太宰治が心中しそこねて玉川上水に死体が上がった日 クラス全員で授業放棄して新京極へ焼酎を飲みに出た仲間同士だった 
この年文化祭が行われてクラスは模擬店でうどん屋をやった時森川が作ったうどんは戦争中の子供であるクラス全員が初めて味わった最高の美味で「さすが浜作の息子」と讃嘆したが そのころから彼自身は祇園の有名料理店の跡取りという宿命を受け入れるかどうか密かに悩んでいた

全国で一番激しかったと言われる京都の学校制度の変革で大島は洛陽高校、森川は堀川高校へと別れることになった が二人の文通だけは続くことになる
やがて大島は京大へ 森川は慶応義塾大へ進むが昭和29年就職時に大島は松竹大船撮影所に入り(大島は第一志望ではなかった)大庭秀雄や野村芳太郎に師事し 翌年森川は松竹京都撮影所にはいり(大島が前年入ったから)大曾根辰保監督に就く
大島は彼が松竹を受けることを知らなかった 知っていればなんとしても家督を継ぐように説得したのに・・・

大船と京都とは離れていたが大島が仲間とシナリオ同人雑誌を出すと森川も京都で同じようなものを出し 
昭和35年大島が「青春残酷物語」を発表して松竹ヌーベルバーグと呼ばれるようになった時森川も京都で「武士道無残」を撮った



チーフ助監督に就いてくれた森崎東によると森崎は脚本も手伝ったようである
大島が森川の陣中見舞いに行ったとき そこで「日本の夜と霧」が上映中止となったことを聞く 
ヌーベルバーグ一色だった制作陣も会社を怖がり森川に台本の変更を言い渡す
だが「直せば俺の映画じゃなくなる」と それを無視して映画を完成させる 森崎によるとこの時森川は会社を辞める覚悟だったという


 
結果 大島は松竹を退社することになるのであるがまもなく森川も「武士道無残」その一本の監督作品のみで松竹を去った 
その後大島とその仲間は「創造社」を立ち上げ そこを本拠地として各々が創作活動をするという夢を抱いていた 森川も当然参加する
森川は脚本活動の合間に仲間の監督作品のプロデューサーを務めるなど集団の為に献身する 

例えば森永乳業粉ミルクのPR映画のプロデュースをして(こんな仕事もしていたのだ)田村孟監督で撮ることになり作品完成後気に入ったスポンサーからお礼がしたいということで1チーム分の野球道具一式をせしめ TBSの演出部(大山勝美や高橋一郎がピッチャーだった)との試合を度々やったがそこへ助っ人としてやってきたのが浦山桐郎、若松孝二、松田政夫らの強面だったという

英太朗の代わりに2代目を継いだ森川武は昭和39年都ホテルに初めて和食堂を開店 洋食主流のホテル界に旋風を起こした
以来 皇室始め川端康成、谷崎潤一郎、白洲次郎ら著名人に愛顧され喜劇王チャップリンなど海外からの賓客も来店するようになり 
かの魯山人にも「うまいものを食うなら浜作へ行け」と言わしめた
昭和61年 チャールズ皇太子 ダイアナ妃 京都大宮御所にての食事 ご用命
   同年 昭和天皇在位60周年のお茶会の食事 ご用命

やがて森川は「創造社」を去り電通に入社する
大島曰く「大電通という組織の中で森川がどのような仕事をしてどのように生きたか外部の人間である僕にはわからない しかし会う時彼がいつも元気そうでグランドで見た時のように溌剌としていた 私は良かったなと思った そして彼はいつまでたっても映画が撮れない私を心配してくれた そこには中学時代から変わらぬ彼の友情と誠意があった」
が 電通時代彼は新藤兼人と組んで映画を一本企画している
いじめ問題を描いた「ブラックボード」という映画の企画で名を連ねている
そして定年まで働き企画部長まで上り詰めた

平成3年 「浜作」2代目武急死により慶応大在学中だった裕之が3代目主人となる
平成7年 今上天皇 京都訪問の折 ご昼食を2日ご用命

しかし大島が本当に良かったと思ったのは定年後彼が母校慶応大の環境情報学部の教授となった時だ 
大島が一番なりたかった教授という職業に就き 彼はそこで亡くなった(1996)
教授時代に森崎東は森川教授から電話を貰う それは彼の「武士道無残」が雑誌「映画芸術」の戦後日本映画ベスト100本に選ばれた歓びの電話だった それは彼のたった一本のみの監督作品だった

同じ年大島は森川が昔書いた「壬生狼」という台本を参考にして書いた「御法度」という映画の製作発表をしたあとイギリスヒュースロー空港で脳溢血で倒れた 「御法度」が撮れるようになるには3年の月日を擁した


「浜作」は今でも多くの皇族 著名人に愛され割烹本道の伝統に新しいセンスを未来に伝えて行こうとしている
三代目裕之は平成29年度 「現代の名工」(卓越した技術者)を受賞した




白鷺だより(285)「忠臣蔵」と歌謡曲

2017-12-20 15:37:08 | うた物語
 忠臣蔵と歌謡曲

今月の新橋演舞場は舟木一夫特別公演は昼夜通し狂言で「忠臣蔵」昼・花の巻 夜・雪の巻である 
出演者総勢で96人の公演で100以内に抑えたことを制作のMは自慢していた 
舟木の大石、里見浩太朗の千坂兵部 林与一の吉良、松也の浅野内匠頭 紺野美沙子のりく 長谷川希世の陽成院という配役である

 一方 年末のある日 顔見知りの浪曲評論家芦川淳平(なんと僕と同じく関学経済卒・後輩なのだ)が自ら歌うデイナーショウ「大忠臣蔵」に招待されて参加した 
客席には昔よく通ったスナック「同想会」のお客や通天閣歌謡劇場の歌手たちで一杯だったので久しぶりに旧交を温めることが出来た

12月14日は赤穂義士吉良邸討ち入りの日だ たかが地方の小藩の浪士たちのかたき討ちである それが末代まで語り継がれるのは何故か それは「忠臣蔵」が芦川淳平の言うように日本人の魂のふるさとであるからである 語り継がれる数々のエピソード、 親子、兄弟、夫婦、主従、師弟、友人・・・などなど自らの境遇に重ねて人びとは涙して来た 
事件の翌年から芝居になりやがて「仮名手本忠臣蔵」に結集することになる それはやがて講談となり落語となり浪曲となり歌謡曲となった
今回はその歌謡曲になったエピソードを歌手の歌で綴り大御所天中軒雲月の「雪の南部坂」でしめるという面白い企画だ

国民的歌手と言われた三波春夫が自らの長編歌謡浪曲や講談・地歌などで綴って出した忠臣蔵集大成「大忠臣蔵」に入っている曲のタイトルを並べてみると「序曲」「ああ、松の廊下」「早駕籠は行く」「赤穂城の内蔵助」「赤穂城明け渡し」「大手門下馬先」「山科へ」「山科の判れ・赤穂の妻」「星げしき」「ころは元禄十五年」「神崎東下り」「元禄男の友情・立花左近」「南部坂雪の別れ」「元禄花の兄弟・赤垣源蔵」「その夜の上杉綱憲」「元禄名槍譜・俵星玄番」「「義士討ち入り」「安兵衛武勇伝(むかしばなし)」「元禄桜吹雪・決斗高田の馬場」「大忠臣蔵を結ぶ歌」これですべてを網羅したのである
彼がコマに出ていた時期は丁度「俵星玄番」がヒットしている時であったので背の低い彼が槍を持ち得意げに歌い上げるのをよく聞いたものだ

歌謡曲では覚えているのは同じ浪曲師の真山一郎「刃傷松の廊下」だろう これはヒットした
付き合った歌手の中では瀬川瑛子が「おんなの忠臣蔵」を歌っている 大石りくを主人公にした歌だ
当時アイドル歌手の一人だった舟木一夫はNHK大河ドラマに矢頭右衛門七役でゲスト出演した時「右衛門七討ち入り」を吹き込んだ

最近の歌手では島津亜矢が三波春夫の長編歌謡浪曲をカバーしていて「立花左近」「赤垣源蔵」「俵星玄番」を歌い集大成として「大忠臣蔵」を歌っている
鏡五郎もシリーズで忠臣蔵ものを歌っていて「赤垣源蔵・徳利の判れ」「浅野内匠頭」「天乃屋利兵衛」「大石内蔵助」「忠臣蔵・片岡減五右衛門」「忠臣蔵・堀部安兵衛」などを歌っている
速水映人とよく仕事している小桜舞子も「堀部安兵衛の妻」や「恋の絵図面取り」などを歌っている
売り出し中の三山ひろしも「元禄名槍譜・俵星玄番」を吹き込んでいる

大御所ひばりも「奈良丸くずし」で歌っている
作詞は演歌の祖といわれる添田唖蝉坊だから著作権は切れている

笹や笹笹 笹や笹
大高源五は橋の上
水の流れと人の身は
明日またるる宝船

山と川との合言葉
引かば返さぬ 桑の弓
四十七士が 月雪の
中や命の 捨て所


別の歌詞では

赤の合羽に 饅頭笠
ふりつむ雪も いとわずに
赤垣源蔵は 千鳥足
酒にまぎらす いとまごい

雪の夜中に 陣太鼓
弟の源蔵の 身を案じ
なぜか眠れぬ 与左衛門
同じ血じゃもの 肉じゃもの

四十七士の いさおしが
目出度く主君の 仇を討ち
朝雪ふみしめ 泉岳寺
空も心も 日本晴れ


今回の舞台では三味線の虹友美さんが歌った

ショウの流れだがゲストの歌い手さんの持ち歌コーナーを先に済まして忠臣蔵をラストに持ってきたらどうだろう

(12月18日 ナンバ道頓堀ホテルにて)
 

白鷺だより(284)加藤健一事務所「夢一夜」

2017-12-16 17:51:29 | 観劇
加藤健一事務所「夢一夜」

この作品が1980年「審判」から始まった加藤健一事務所作品の36年間で100本目の記念作品になるそうだ
 
作 アメリカの女流劇作家 カトリーヌ・フィユー 訳は常田景子
原題はALL Dressed Up  and Nowhere to Go 1994年ボルティモアで初演
演出は「煙が目に染みる」の堤泰之

本邦初の舞台化のこの作品はこんな話だ

ニューヨーク州バッファローのとあるモーテル 史上最悪の猛吹雪のため「ミス・バッファロー・コンテスト」に集まった女装趣味の男たちがロビーになだれ込んでくる
そのうえアーミッシュの集団も吹雪で足止めをくい一夜の宿を求めて押し寄せてくる
モーテルの女支配人のシングルマザーのジョアン(加藤忍)は客室を女装集団とアーミッシュの人たちを入れ違いに入れたらうるさくないだろうと考え部屋割りをする 
突然の停電の中その対応に追われながら
その一室 女装をしたジャッキー(加藤健一)とバービー(横堀悦男)は翌日のコンテストに向けてダンスの稽古に余念がない 隣の部屋のアーミッシュの父娘とはバスルームが共用となっている 厳粛な父親エイモス(新井康弘)と娘のレベッカ(吉田芽吹)の間には何かしらわだかまりがあるように思える ひょんなことからジャッキーの部屋をおとずれたレベッカに恋人との電話を貸しているうちに彼女の父親がエイモスと気付きジャッキーは取り乱す・・・実はエイモスはジャッキーの実の兄だったのだ
それぞれの過去と未来 生き方を見詰めなおす夜が明け レベッカの恋人ピーター(速水映人)も駆け付け新たな展開を迎える
女装趣味(トランスベスタイト)の人びと、現代文明に背を向けて生きるアーミッシュの人びと 偶然 隣り合わせになったシュツエーションで理解しあえるのか

LGBT 性的少数者 
レスビアン ゲイ バイセクシャル トランスジェンダーの頭文字をとった総称

アーミッシュ アメリカのペンシルバニア州などに居住するドイツ系移民の宗教集団
移民当時の生活様式を守るため電気を使用せず現代の通信機器電話なども家庭内にはない
原則として現代の技術を導入することを拒み自給自足の生活を営んでいる

我らが映人は最初の女装集団の一員(残念ながらwwキャストのため綺麗な顔をはっきり見せる訳にはいけないのだろう・・・)やアーミッシュの一員などチョコッと顔を出し二幕になるとピ-ターなる現代青年の役を演じる
おそらく彼にとって初めてだろう 本読みを一週間近くやった公演も初めてなら 普通の男性役、しかも年齢的に等身大の男役なんてやったこともないだろう
見慣れていないから違和感があったが まあベテラン役者の中でよくやっていた
もっと重要な仕事は主役の女装のメイクだったらしい
もちろん彼の今後の活動に大いに役立つ経験であったことだろう

僕が観劇したことをフェイスブックに上げたら偶然熊谷真実が読んでくれて翌日見に行ってくれた

それにしてももう少し客を集めないと・・・寂しすぎる・・・

(12月13日 14・00~紀伊国屋サザンシアターにて)


白鷺だより(283)神の島・久高島再訪

2017-12-11 14:10:46 | 旅行
 神の島・久高島再訪

 初めて沖縄を訪れたのは
昭和59年 アイエス制作(梅沢や舟木のずっと前で一番会社がどん底の頃だ)松本伊代主演「愛のシンフォニー」の地方公演の時だ 
この作品はその前年人気絶頂の松本伊代を起用して梅コマで上演した作品を各地のオーケストラを使って芝居を見せる趣向 宝塚の岡田敬二演出 僕は演出補でついた 往年の名作「オーケストラの少女」の日本版・どこへ行っても思うように客が集まらずアイエスは悩んでいた・この作品の過程で出来たのが音楽の筒井高志の小説「オーマイパパ」である 彼は音楽と指揮を担当していた 
そのころ付き合い始めた今の連れ合いに「親戚が返還後すぐから沖縄に住んでいるので見せてやってほしい」と言われ 那覇市民会館で親戚のAちゃん親子を来るのを待った 今も昔も「沖縄時間」というやつで親子は悪びれず開演ギリギリやって来た 
こっちは慌てて南部沖縄観光から引き返して来たのに・・牛の大群に道を邪魔されて・・島全体がのんびりとしていた感じだ
その時まだ子供だった甥っ子は今やバツイチの看護士 姪っ子は祖母がいる広島に帰りアパレル業に成長していく過程を見るように それから毎年のように沖縄を訪ねた
そして殆どの観光地巡りの後 久高島へ行くことになった

 前にこの久高島を訪れたのはAちゃんが広島に帰る前、僕が病気で左半身麻痺になる前だから十年以上になる その時は安座間の港から出た20分の高速船が着く港には古い民家が数件しか見えなかった 村落に入ったところの玉城さんでレンタサイクルを借り島の東橋の防風林が続く道をひっくり返りながら(まだ舗装はされてなかった)琉球の祖神アマミキヨが降り立ったといわれるカベール岬まで上がって 帰りには中央の道を村落まで帰って 当時新しく出来た村営のキャンプ場を見て その下の岩場にウミヘビが一杯泳いでいるのを見た 
真夏の暑い日だった 

その後沖縄に来るたびに斎場御嶽(せいふぁーうたき)の拝所から見ていた久高島だったが 今回12月5日看護師の仕事の休みを取ってくれた甥っ子の車で安座間港まで行った  久しぶりに高速船で行ってみる(一緒に乗っていくのも前回は殆ど郵便小包だったが今回はお歳暮シーズンとはいえ宅急便が多く中にはアマゾンの印が多く目立つ)と徳仁港には綺麗な切符売り場が出来ており そこには新しい自転車が並んでいる店ともう一軒自転車レンタル屋が見える そこから民家群に進んだところにあったかっての自転車貸し屋玉城さんはあるにはあったが古い民家は随分ハイカラな家となっていた しかもその向こうは真新しい小学校が出来ておりその一角に津波避難の高台が出来ていた 学童は二階に避難して残りの村人は全員270人避難できるのかしらとつまらぬ心配をする  
丁度僕らが行ったころから観光客が増え始め島全体が皆裕福になったように見える

今回は僕が自転車に乗れない身体なのでゆっくり歩いてカベール岬までいくことにした
一周廻っても8キロくらい 3時間半くらいで回れるとパンフレットに書いてあった
ナビを見ると歩きは島の中央の道が一番最短だとわかる 幸い暖かい日差しの中 追い越していく自転車や前にはいなかったガイド付きの車を尻目にゆっくりと・・・ゆっくりとゆっくりと 
島の南に固まった集落を抜けるとサトウキビ畑の間の一本道だけだ 集落にあれほどいた猫の姿は消え キビ畑でガサゴソ音がするのは小さなネズミだ
カベール岬への一本道は青い空と緑と白い道 昨日の雨の水たまりが多少残るでこぼこ道をゆっくりと歩く カーベル岬は相変わらず綺麗だった 昔よりもガイド付き車で来る人が増えたため多くの観光客で溢れていた 行が予定よりも早くⅠ時間弱だったので帰りは少々遠回りして島の東コースで港まで歩くコースとした 途中浜辺に抜ける道を何度も寄り道しながら綺麗に舗装された道をまたゆっくりゆっくり歩く 小さく貧弱な畑と大きなプラスチックの天水桶をながめながら歩いていたら娘が50円玉を拾った 神様からのご褒美と思って切符売り場でのコーラ代の足しにさせて貰った 船の出発時間まで少しあったので久高殿まで行ってきた これまた昔に比べて綺麗になっていた ここでもガイド付きの客で一杯だった 表札に屋号が書いてある家が幾つかあった おそらく同じ苗字の家が多いせいだろう
ちなみに携帯に入っている歩数計は行きが1時間10分 5590歩 帰り東側ロードは1時間9分6278歩 
この島で歩いた歩数は全部で14130歩を超えた
次は勇気を出してウミヘビ料理に挑戦してみようかなあ

帰りは斎場御嶽の前を通って ちょっと遠回りして いつもの奥島に渡る手前の「もづくそば屋」で遅い昼食

白鷺だより(282)勘三郎最後の勇姿 シネマ歌舞伎「め組の喧嘩」

2017-12-01 09:48:10 | 映画
 シネマ歌舞伎「め組の喧嘩」



 18代目中村勘三郎が亡くなったのは2012年暮れのことだからこの作品がおそらく江戸最後の舞台となる 2010年突発性両側性感音難聴を患い暫く休養 2011年まつもと市民芸術館の特別公演で復帰 その後2011年11月より2012年5月にかけ長男の勘九郎襲名披露舞台を含むロングラン公演のラストであった この公演の後受けた健康診断で初期の食堂癌が判明 一切の仕事を断り治療に専念することになる その年のまつもと市民芸術館での「平成中村座」公演の千穐楽で飛び入り参加してカーテンコールで「必ず松本に帰ってきます」と挨拶 だが これが最後の舞台出演となった 同年12月5日急性呼吸窮迫症候群のため死去 享年57歳の若さであった

この映画を見た日に横綱日馬富士は酒の上での喧嘩が問題になり引退を発表した
火事と喧嘩は江戸の華とは言うが昔は力士の喧嘩はよくあることだった
この話も文化2年芝神明社で実際に怒った火消しと力士の大喧嘩がモデルになっている
「神明恵和合取組」(かみのめぐみわごうのとりくみ)
1890年(明治23年)新富座で初演 竹柴基水作 通称「め組の喧嘩」という
初演の配役は辰五郎に五代目 菊五郎 四ツ車に4代目芝翫 喜三郎に初代左団次



(1)品川宿の島崎楼 
相撲取りの四ツ車らと鳶頭辰五郎らが隣り合った座敷で飲んでいる
四ツ車の弟子の取的が相撲甚句を踊るうちに襖を蹴倒して隣座敷に踏み込んでしまう
血の気の多い鳶の藤松が怒って喧嘩になるところを め組の頭辰五郎が収める
しかし居合わせ四ツ車の贔屓の侍から相撲取りは士分だから鳶なんぞとは身分が違うと言われ苦虫をかみ殺す
(2)「すわ喧嘩」の事態を収めた辰五郎だが恥をかかされた恨みを晴らそうと八ツ山下の暗闇で四ツ車を待ち伏せ もみあいになり尾花屋女房 地回り 辰五郎 四ツ車 通りかかった焚出し喜三郎の五人の「だんまり」となる 
この時喜三郎は辰五郎の煙草入れを拾う
(3)め組の持ち場 芝神明境内の芝居小屋では「義経千本桜」を上演中で大入り
 客席で騒いでいた酔っ払い客をめ組の若い者がつまみ出す
 それを止めに入った九竜山や四ツ車とめ組の若い者や辰五郎と喧嘩になるところを芝居の太夫元に止められてしまう
(4)もはや喧嘩は避けきれないと覚悟を決めた辰五郎は数寄屋橋河岸の喜三郎のもとにいき それとなく暇乞いを告げる それと察した喜三郎は例の煙草入れを見せれ大きな間違いになったらどうすると意見する 困った辰五郎はそれとなく別盃をかわす
(5)喜三郎の意見に悩む辰五郎は女房のお仲に意気地がないから離縁すると言い出される 居合わせた兄弟分の亀右衛門にも非難され辛抱していた辰五郎だったがついに以前から用意していた離縁状を叩きつけ心中を語る やはり町火消しの意地から命がけの喧嘩の決意をしていたのだ このあたりは東映のやくざ映画の鶴田浩二の役どころだ
亀右衛門に部下を集めろと指示し喧嘩支度をする おりしも遠くから相撲興行の撥ね太鼓
刺し子のめ組の火消し法被を放り上げ袖を通すかっこよさ
辰五郎は女房と子供に別れを告げて神明社に向かうのであった
(6)神明社で辰五郎ひきいる街火消しと九竜山、四ツ車らの力士の大喧嘩が繰り広げられるが 町奉行(火消管轄)と寺社奉行〈相撲管轄)の法被を重ね着した喜三郎がはしごを使って中に割って入り仲裁、双方上に訴えることで収束する この喜三郎役の梅玉はかっこいい

配役は め組の辰五郎   中村勘三郎
    女房お仲     中村扇雀
    四ツ車大八    中村橋之助
    露月町亀右衛門  中村錦之助
    芝井町 藤松   中村勘九郎
    おもちゃの文次  中村萬太郎
    九竜山波右衛門  片岡亀蔵
    尾花屋おくら   市村萬次郎
    焚出し喜三郎   中村梅玉


ラスト平成中村座の舞台奥の扉が開き 遠くに見えるスカイツリーをバックに 三社祭の神輿(昔浅草の住人振付の藤間貴与志に誘われ衣裳を付け担がせてもらったことがある)が現れ よく見ると担いでいるのは中村座馴染みの弥十郎や笹野高史だったりする演出で閉めた

(11月29日 ナンバパークスシネマにて)