祇園「浜作」と森川英太朗
四条通りを南座を超え八坂さんにぶつかって東山の方に一筋奥を下ると老舗割烹料理店「浜作」がある
昭和の初め先々代森川栄がこの地で本邦最初の板前割烹として開店し創業以来八十有年の歴史を有する
高級料理をお座敷で戴くものというのが通例だったのを新鮮な材料と料理の技をお客様の目の前でお見せして 召し上がっていただく「割烹」は保守的な日本料理界に新風を吹き込んだ
昭和21年夏復活した全国中等学校野球大会の戦後第一回大会に京都二中が28年ぶりに出場した時 最年少3年で出場したのが「浜作」の息子英太朗だった
甲子園が進駐軍に接収されていたので西宮球場だったがその観客席で同じく二中の学生で同級だった大島渚(父を亡くした彼は母親の実家がある京都に来ていた)は準決勝の下関商業戦で森川がバットの真ん中を持って勝利のヒットを打った時 目に涙が光っていたのを見ている
(翌決勝戦で浪華商に0対2で負ける)
昭和23年 太宰治が心中しそこねて玉川上水に死体が上がった日 クラス全員で授業放棄して新京極へ焼酎を飲みに出た仲間同士だった
この年文化祭が行われてクラスは模擬店でうどん屋をやった時森川が作ったうどんは戦争中の子供であるクラス全員が初めて味わった最高の美味で「さすが浜作の息子」と讃嘆したが そのころから彼自身は祇園の有名料理店の跡取りという宿命を受け入れるかどうか密かに悩んでいた
全国で一番激しかったと言われる京都の学校制度の変革で大島は洛陽高校、森川は堀川高校へと別れることになった が二人の文通だけは続くことになる
やがて大島は京大へ 森川は慶応義塾大へ進むが昭和29年就職時に大島は松竹大船撮影所に入り(大島は第一志望ではなかった)大庭秀雄や野村芳太郎に師事し 翌年森川は松竹京都撮影所にはいり(大島が前年入ったから)大曾根辰保監督に就く
大島は彼が松竹を受けることを知らなかった 知っていればなんとしても家督を継ぐように説得したのに・・・
大船と京都とは離れていたが大島が仲間とシナリオ同人雑誌を出すと森川も京都で同じようなものを出し
昭和35年大島が「青春残酷物語」を発表して松竹ヌーベルバーグと呼ばれるようになった時森川も京都で「武士道無残」を撮った
チーフ助監督に就いてくれた森崎東によると森崎は脚本も手伝ったようである
大島が森川の陣中見舞いに行ったとき そこで「日本の夜と霧」が上映中止となったことを聞く
ヌーベルバーグ一色だった制作陣も会社を怖がり森川に台本の変更を言い渡す
だが「直せば俺の映画じゃなくなる」と それを無視して映画を完成させる 森崎によるとこの時森川は会社を辞める覚悟だったという
結果 大島は松竹を退社することになるのであるがまもなく森川も「武士道無残」その一本の監督作品のみで松竹を去った
その後大島とその仲間は「創造社」を立ち上げ そこを本拠地として各々が創作活動をするという夢を抱いていた 森川も当然参加する
森川は脚本活動の合間に仲間の監督作品のプロデューサーを務めるなど集団の為に献身する
例えば森永乳業粉ミルクのPR映画のプロデュースをして(こんな仕事もしていたのだ)田村孟監督で撮ることになり作品完成後気に入ったスポンサーからお礼がしたいということで1チーム分の野球道具一式をせしめ TBSの演出部(大山勝美や高橋一郎がピッチャーだった)との試合を度々やったがそこへ助っ人としてやってきたのが浦山桐郎、若松孝二、松田政夫らの強面だったという
英太朗の代わりに2代目を継いだ森川武は昭和39年都ホテルに初めて和食堂を開店 洋食主流のホテル界に旋風を起こした
以来 皇室始め川端康成、谷崎潤一郎、白洲次郎ら著名人に愛顧され喜劇王チャップリンなど海外からの賓客も来店するようになり
かの魯山人にも「うまいものを食うなら浜作へ行け」と言わしめた
昭和61年 チャールズ皇太子 ダイアナ妃 京都大宮御所にての食事 ご用命
同年 昭和天皇在位60周年のお茶会の食事 ご用命
やがて森川は「創造社」を去り電通に入社する
大島曰く「大電通という組織の中で森川がどのような仕事をしてどのように生きたか外部の人間である僕にはわからない しかし会う時彼がいつも元気そうでグランドで見た時のように溌剌としていた 私は良かったなと思った そして彼はいつまでたっても映画が撮れない私を心配してくれた そこには中学時代から変わらぬ彼の友情と誠意があった」
が 電通時代彼は新藤兼人と組んで映画を一本企画している
いじめ問題を描いた「ブラックボード」という映画の企画で名を連ねている
そして定年まで働き企画部長まで上り詰めた
平成3年 「浜作」2代目武急死により慶応大在学中だった裕之が3代目主人となる
平成7年 今上天皇 京都訪問の折 ご昼食を2日ご用命
しかし大島が本当に良かったと思ったのは定年後彼が母校慶応大の環境情報学部の教授となった時だ
大島が一番なりたかった教授という職業に就き 彼はそこで亡くなった(1996)
教授時代に森崎東は森川教授から電話を貰う それは彼の「武士道無残」が雑誌「映画芸術」の戦後日本映画ベスト100本に選ばれた歓びの電話だった それは彼のたった一本のみの監督作品だった
同じ年大島は森川が昔書いた「壬生狼」という台本を参考にして書いた「御法度」という映画の製作発表をしたあとイギリスヒュースロー空港で脳溢血で倒れた 「御法度」が撮れるようになるには3年の月日を擁した
「浜作」は今でも多くの皇族 著名人に愛され割烹本道の伝統に新しいセンスを未来に伝えて行こうとしている
三代目裕之は平成29年度 「現代の名工」(卓越した技術者)を受賞した