白鷺だより

50年近く過ごした演劇界の思い出話をお聞かせします
     吉村正人

白鷺だより(349) 関学異色の先輩たち

2019-03-31 13:32:09 | 思い出

関学異色の先輩たち

 梅コマの初仕事だからもう40年以上も前、コマミュージカルチームとキャバレー回りの仕事をしたとき事 打ち合わせの為神戸月世界の楽屋でのこと 僕が関学出身だと知ると なんとそこの演奏者の多くが関学の先輩であることが判った かれらは学生時代の比較的高額なバイトから中退してそのまま残って 未だに演奏を続けていた
あの人たちはその後の阪神淡路大震災 で大きな被害を受けて仕事場を失ってどうしているのだろうか

そういえばその後コマの舞台で付き合うことになるアロージャズの北野ただおさんも関学出身のトランぺッターだ 
この世界にはニューコンサートの大前成之さんのように阪大医学部上がりの変わり者もいるが おおむね学生のバイトくずれ でギャンブルくずれ 女くずれと色々経歴がお持ちの人ばかりである

最近読んだ団鬼六の「美少年」も異色の関学の先輩たちの物語である
これは作者団鬼六本人と思われる主人公と同じ大学(関学)の後輩である日舞家元の御曹司若松菊雄とのドロドロとした男同士の恋物語である 主人公はまず小さな演劇部に入るが すぐ喧嘩して辞め 軽音楽部に入る この小さな演劇部はおそらくこれも先輩の竹内伸光が立ち上げた「劇団エチュード」で 何年か後関学に入った僕が入ったクラブである 
部室に残っていた先輩たちの現状を書いた小冊子が転がっていて その中に黒岩松次郎なる人物が何本かの映画脚本と共にオール読物の新人杯を受賞したこと 今は教師をしながら時期を待っていると自虐的に書いていて妙に覚えていた かれの自伝にはこのころ授業中に自習にして出世作「花と蛇」を書いていたという  
軽音の同期には高島忠夫・キダタローがいた 藤岡琢也も同期だが彼は病気のため中退

この物語に「マリ子」という社会学科のヌードモデルをやったり娼婦めいたこともやっている不思議な女性が出て来るがぼくらの時代にもそんな女性がいた
今村昌平が「神々の深き欲望」で使った沖山秀子である 
彼女も又社会学科の学生でその頃流行りの超短いスカートで学内を闊歩していた 
僕らは声一つ掛けられず遠くから見つめるしかなかった

また主人公の敵役でまり子の男で山田という某暴力団と関係のある男が出て来るが 彼は応援団であった
僕らが全学封鎖してバリケードに立て籠もった時ボクシング部のキャップテンが手下を連れてやってきて 父親が組長である某暴力団の名前を出し「俺みたいな半端もんをひろってくれた関学に恩義がある、若いもんを連れてぶっ壊しに来た」とすごんだ
そんな彼に何故封鎖するのかと滾々とオルグって果ては「一緒に佐世保(エンタープライズ寄港反対)に行こう」とまでいわせた文学部の委員長はすごかった

この主人公が同性愛に悩んで相談する後輩 東郷健が出て来るが彼は大学でも「同性愛者」を公表していてこのころは第一勧銀の銀行員と恋仲であり 卒業後この人のツテで同銀行に入行する このエリート銀行員は木村某といいいわゆる両刀遣いで れっきとした家庭もちで娘は宝塚出身の女優扇千景だという この彼に振られて東郷健は女と結婚する

そういえば「龍譚」で有名な中華料理家の程一彦も関学軽音出身だ
店内で見事な歌声を披露することもある

コマで竹内伸光が振付でよく使っていた花柳雅人はこの何年か後輩で劇研出身で後に花柳流に入門 青猫座に入団 日本舞踊アカデミーアスカを立ち上げ1980日本舞踊飛鳥流を創立 自ら宗家飛鳥峯王を名乗る 娘は飛鳥左近 息子は市川右団冶

「僕ってなに?」の三田誠広の姉 三田和代は「コピーの三田」の創業者の娘で(こんな学生は一杯いた)
僕が入学した時 関学劇研のスター女優であった
劇研がフランス・ナンシーで世界学生演劇祭に参加した「夕鶴」で主役を演じた
サンケイホールでやった凱旋公演で僕は頼まれてピンを生まれて初めてたいた
三田はこの後中退して俳優座養成所に入り その後四季に入団した
同時期に劇研にいたのが東宝演出家北村文典である 

三田の先輩の女優に絵沢萌子がいる
文学部英文科卒 卒論はテネシー・ウイリアムズ
会社勤めの傍ら「くるみ座」に入り その後退座 四季に合格するが新藤兼人の「強虫男と弱虫女」で映画デビュー 
その後「俳優小劇場」に入団
にっかつロマンポルノで一躍スターとなる
同じ頃 楠年明と結婚(1971~)
実は絵沢さんは現在老人性のさる病気に掛かっており楠さんが老々介護している
ガンバレ くっさん!!

今年は桜が遅いので仁川駅からキャンパスまでの坂道の桜並木もこれからが満開になるだろう
あの日に戻って歩いてみたいものだ


白鷺だより(348)月光仮面と大山デブ子~幻の大都映画

2019-03-21 13:17:20 | 演劇資料
月光仮面と大山でぶ子~幻の大都映画

戦前 大都映画という映画会社があった 
1933年から1942年まで東京西巣鴨にあった映画会社である 
1928年河合徳三郎が設立した河合映画製作所を前身にした会社で低予算の娯楽作品を大量に制作し安価な入場料(松竹50銭、大都20銭、子供5銭)で当時の大手映画会社に対抗した 
1942年戦時統制で新興キネマと日活との三社が合併いて大日本映画(大映)となってその歴史を閉じたがその河合映画から通して15年間の制作本数は1294本と言われている その粗製乱造された用済み映画の殆どがフイルムの軍事再利用(銀とニトログリセリンに還元)で消え失せ また戦災で焼失戦後GHQによるチャンバラ映画狩りで消え失せた
大都が幻の映画会社たる所以である

所属俳優は女優では琴糸路 鈴木澄子 久野あかね 大山デブ子ら
男優では 杉狂児 市川百々之介 山本礼三郎 ハヤブサヒデト 藤間林太郎(藤田まことの父)水島道太郎 近衛十四郎(松方弘樹の父) 阿部九州男など

河合徳三郎
 
右翼政治団体(大和民労会)の指導者であり関東地方屈指の土木系博徒の顔役で 関東大震災の復旧にあたり土木工事でしこたま儲けた金を資金に活動写真をやることになった
当時落ち目のマキノキネマから俳優、監督を引き抜き 巣鴨にあった国活の撮影所を本拠地にして制作を開始 徹底して制作費を値切り 松竹が一本5万ほどの予算の時代に5千円程度で仕上げ フイルムもⅠ時間の予定映画であれば1時間ちょっとのフイルムしか渡さず 容量のいい監督は前の映画フイルムを使ったり 次回作分を前借するかで誤魔化した 製作期間は一週間から十日二本の映画を仕上げるのが条件で売れている監督は月に3本撮っていたという

大都映画の全てに「総指揮 河合徳三郎」のトップタイトルが出るのであるが 企画会議などない 暇そうな監督を捕まえ「何かあるか?」と尋ねると「ありません」とは言えず ともかく撮影に入る事が多かった 
また大勢いるお妾さんに「講談倶楽部」「キング」「読切講談」などを読ませ「あんた、これ面白いわよ」と言うとそのページだけ切り取り監督に「これを撮れ」と渡したという 
珍しく東京に雪が積もった日には手の空いている役者を集め赤穂浪士の恰好をさせ、また桜田門外で水戸浪士の扮装で撮ったらしい
 
娘が三人いてトップ女優の琴 糸路に頼んで仕込んで貰った 三条輝子、琴路美津子、大川百々代の三人である

映画を通常50銭を20銭で見せると言った時文句を言いに行った組合員に
「俺が俺の撮影所で俺の金、ええか俺の金でだぞ 俺の所の役者使って作っ映画を、俺の持っとる劇場で封切するのに、その入場料が安かろうと高かろうと文句を付ける何の理由がお前たちにあるというのじゃ グズグズ抜かしよると俺ァ只でも見せてやるぞ」

そう大都映画の客は「50銭玉を耳に挟んだ半纏姿のお兄さんや銘仙の晴れ着で釦のついた財布に一円札を二枚ほど忍ばせたお姉さんたち そして十銭玉をがま口に忍ばせたジャリ達 言うならば底辺の観客」だった

その客たちの声
田中小実昌  僕が子供の頃は大都映画のハヤブサヒデトが大人気だった 彼は猛優などと言われ チビだけどオートバイに乗って悪漢を追いかけて車二三台は飛び越えるなんてことやっていた 大都には琴糸路という看板女優がいて僕は大好きだった また彼女に次いで人気の琴路美津子というのもいてその彼女がハヤブサヒデトの奥さんだったとつい最近聞いてへえーとびっくりした(つまり社長令嬢を嫁にしたということか)

川内康範 河合―大都映画は昭和3年から戦時合同で大映になるまで1300本近い作品を製作・配給をしている これに対して松竹は1200本 日活は千本程度である
しかも庶民にとっては松竹、日活の文芸調映画はスローテンポで面白くも何ともないのである それに比べると大都映画はハヤブサヒデトの冒険活劇はもちろんのこと 時代劇もスピーディーな運びで観客を退屈させないのである 文字通り庶民に愛される映画であった 普通時代劇などは男優だけが目立って女優の影が薄いのであるが大都の女優たちはそれぞれ その魅力充分の存在感があったのは不思議であった

戦後「月光仮面」の大ヒットの原型はここにあったのだ

そして青森県の片田舎の映画館の片隅にもじっとスクリーンを見ている少年がいた 寺山修司である 
彼は大山デブ子と大岡怪童のコンビの大都映画のコメデイのフアンであった 
大山デブ子は多い時には年間22本もの作品に出演した人気スターだったのだ
寺山は後年実検映画「檻囚」(1964)に彼女を起用した(撮影は1962年)
そして天井桟敷第二回公演に「大山デブ子の犯罪」を上演するが彼女の出演は叶わなかった 
オーデションで選んだ「大山デブコ」が代演した

大都映画の時代劇の大スター市川百々之介の晩年は山城新伍の「チャンバラ行進曲」で詳しく描いている